コタツの上のみかんが動いた

影月深夜のママ。

第1話コタツの上のみかんが動いた


 こたつの上のみかんが動いた。

 ずっ、ずずっ、っと。

 私から遠ざかるように。怯えたように。

 もちろん、誰かが動かしたわけではない。おじいちゃんは私の対面で寝転がりながら、嫌らしい雑誌を読んでいた。お母さんはずっと昔の流行歌を口ずさみながら包丁で大根を切っていた。お兄ちゃんは五分前からトイレに入ったままだ。紐なんてついていないし、ついていたところで誰も動かせない。

「どうした?」

 私の異変を察したのか、おじいちゃんが身体を捻って私を顔を覗き込んだ。

 何でもない、と私は首を振った。開きっぱなしの雑誌からはドギツいシーンがはっきりと見えた。

「そんなもの読んでいておばあちゃんに怒られない?」

 私は長年の疑問を口にすると、おじいちゃんは叱られた子供のように口をすぼめた。

「そりゃあ、怒られるかもしれん」

「なら読むのやめればいいのに」

「怒られるのが嫌なら、そうすれば良いなあ」

 おじいちゃんはよっこらしょと大儀そうに上体をあげた。

「でもな、良く覚えておくんだ。どんな行動にだって責任は一緒に付いて来る。わしが寝てたって、芝を刈っていたって、川から桃が流れるのを待っていたって、それは変わらない。寝てれば働けと誰かに怒られるだろうし、芝を刈れば危ないと叱られる。川からやってきた桃を食べたって、桃太郎が生まれなきゃ、それは食あたりするリスクもあるじゃろ?」とおじいちゃんは笑った。自分なりのジョークなのかもしれない。「でもそれを恐れていたら面白くない。それに誰かに迷惑をかけるわけでもない。要するに、行動の結果として怒られても、それを受け入れられるなら、孫の前で何を読んでも構わないんじゃ」

「なるほど」と私は頷いた。「じゃあ、おじいちゃんを今ここで叩き殺すのは?」

「それは法律で禁止されとるからな」

 確かに、孫の前でエロ雑誌を読んではいけないという法律はないけれど。

 分かったら邪魔するな、と言いたそうにシッシッと手を振り、おじいちゃんは元の体勢で雑誌を眺め始めた。

 しばらく考えて、私は言った。

「なら、孫の貞操観念は?」

「へっ?」

「おじいちゃんの雑誌の影響で、私がドスケベな人間に育ったら、おじいちゃんは責任取ってくれる?」

「いや、まあ、そうじゃな」

 答えに窮したおじいちゃんは、済まなかったと謝った。

 ドギツい雑誌はどけてくれなかったけどその答えに満足して、私はこたつに向かい直った。

 おじいちゃんと話している最中も目を離さなかったけど、みかんは動いてくれなかった。

 私はもう一度、動いたみかんを思い出した。私とは反対方向に引力が働いたわけではない。地球以外の方向に引力が作用することがあるかは知らないけど、それにしては動きが動物的すぎた。

 よそよそしく、謙虚に、意志をもつように、みかんは動いたのだ。

 へへっ、親分すいやせん。

 まるで盗みに失敗したみかんが私を恐れて後ずさる、そんな風に。

 しばらく考えを巡らせていると、宅配の声が聞こえた。ハンコを持って対応したお母さんはやがて宅配の包みを持ってやってきた。

「おじいちゃん見てください。これ、蟹ですって。北海道の大おばあさんが送ってくださったようなんですけど」

「おお、それはいいなあ」

 私はおじいちゃんが咄嗟にドギツい雑誌をこたつの中に隠すのを見逃さなかった。

 お母さんは愉快そうに発泡スチロールの包みを持って台所に向かい、おじいちゃんは大おばあさんにお礼の電話をかけた。何度も電話越しにハゲた頭を下げていたけど、それが営業マンだった頃の名残なのか、何かやましいことがあるせいなのかは分からなかった。

 おじいちゃんが電話を終えたのと同時に、お母さんの小さい悲鳴が聞こえた。

「どうしたんじゃ」

 台所を見ると、お母さんがハサミを手にしたまま腰を抜かしていた。

「手足の紐を切ったら、か、蟹が急に動いたんです」

「ああ、生きておったんじゃろ。なぁに、驚くことはない。よくあるこどだ。わしが手伝ってやろう」

 台所からはダシの匂いが漂っていた。蟹と味噌汁を想像したら、私は幸せな気分になった。

 ふと、こたつの上のみかんと目が合った。

 なるほど、と私は思った。

 みかんは歩いたのかもしれない。

 電柱が空を飛ぶのは不自然だ。自転車が喋るのだってそりゃあおかしい。けれど、生き物が動くのは自然の摂理だし、ならば植物学者が生き物と断言する木だって、その果実だって動くのは当たり前のことだ。

 私はこたつの下に置いたままの筆箱から油性マジックを取り出した。

 みかんを動かさないように、目を描き入れて、口をなぞった。けれど、私はすぐに違和感を覚えた。何かが足りない。しばらくみかんと睨めっこを続けているうちに、ああ、と思い当たった。私は丁寧に腕とスリムな足とを付け加えた。手足がなければ、このみかんも不自由だろう。

 そのとき、ちょうどトイレからお兄ちゃんが出てきた。ワイワイ騒ぐお母さんとおじいちゃんを横目に、こたつの上のみかんを手にした。

「なんだこれ」

「こたつの上でみかんが動いたの」

 私はその魅力を共感したかった。

 お兄ちゃんは蛍光灯にかざすようにしてみかんを見回した。

「はるかが書いたのか。意外と可愛いな。これなら歩きそうだ」

 それだけ言って、こたつの上にみかんを投げると、自分の部屋に戻っていってしまった。みかんが素敵な笑顔で私を見返していた。

「こたつの上のみかんが歩いた」

 私は呟いてみた。

 みかんから魔法の力が消えているのがようやく分かった。

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コタツの上のみかんが動いた 影月深夜のママ。 @momotitukumo

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