通勤電車分割奇譚

阿井上夫

第一話 女性専用車両の歴史

 首都圏や京阪神などの都市圏とその周辺を走る電車では、終日あるいは通勤により混雑が激しい時間帯に、『女性専用車両』が設けられている。

 この女性専用車両について、

「平成になって始まった新しい取り組みだよね?」

 という認識を持っている方は、結構多いのではなかろうか。

 ところが、女性専用車両の始まりは明治四十五年に東京の中央線に登場した『婦人専用電車』と言われており、名称こそ専用電車となっているものの、現在と同じく朝と夕に専用車両を設ける方式であった。

 また、当時の導入目的は痴漢行為の防止ではない。

「男女が同じ車両に一緒に乗るのは好ましくない」

 という、当時の国民意識を反映したものだった。

 この中央線の婦人専用電車は短期間で廃止されたが、その後もいくつかの路線で風紀紊乱ふうきびんらんを懸念して、女性専用車両が導入されては廃止されている。


 さて、痴漢行為の防止を主目的とした女性専用車両の導入が本格的に議論されるようになったのは、一九八〇年代末以降である。

 これは、一九八八年に大阪で発生した、

「電車内で痴漢行為を行なった男性を、勇気ある女性が注意したところ、逆恨みされて性犯罪の被害者になってしまった」

 という、衝撃的な事件が契機となっている。

 しかも、

「一部始終を見ていたにも拘らず、周囲の誰も自分を助けようとはしなかった」

 と、被害者本人が後に述懐している。

 この事件以降、乗客相互の助け合いを期待せず、鉄道各社に女性に対する車内迷惑行為の防止を求める動きが起こり、それが高まった結果として女性専用車両が登場したと言われている。

 平成十二年に京王線で試験導入されたことを皮切りとして、その後は各鉄道事業体での導入が相次いだ。

 しかしながら、

「当初の目的である痴漢行為の防止に、女性専用車両がどのように役に立っているのか」

 という点について、明快な効果を示す調査結果が報告されたことはない。


 ところで、女性専用車両に対しては、

「他の車両の混雑が激しくなるので迷惑だよ。それに、女性だけを優遇するのは逆差別じゃないの。男性専用車両も設置すべきだろ」

「乗り換えの都合で女性専用車両に乗らない人がいるけど、全員、女性専用車両に乗るべきじゃないの。女性だけ好きな方を選べるなんておかしいよね」

「冤罪事件に巻き込まれなくて済むからいいんじゃないの。しかし、女性専用車両に乗っていない女性には痴漢行為しても構わないということなのかね」

 等々、正当と思われるものから、本筋を踏み外したものまで、多数の意見が出ている。

 また、逆に女性専用車両以外での痴漢行為が増加した例もあり、その是非をめぐっては今も議論が続いている。


 ただ、本来、鉄道各社がやるべきことは女性専用車両の設置ではない。

「通勤電車全体の混雑緩和を図り、車内の迷惑行為全般について防止する」

 ことである。

 そのための抜本的対策は極めて簡単で、単純に電車の本数や車両数を増やせばよい。

 ところが、その簡単な対策が出来ずにいる。

 なぜならば、それによって車両の維持費や駅の整備費などの経費がかさむことになり、当然の結果として運賃が上昇するからだ。

 その、混雑緩和と運賃上昇のせめぎ合いの間で、今も電車は走っている。


 なお、女性専用車両には法的な根拠はなく、あくまでも各鉄道事業体が任意に導入した制度である。

 男性の乗車を禁止しているものではないし、無理に乗っても処罰されることはない。

「あくまでも、男性側の協力により成立しているものです」

 と、国土交通省も公式見解を出している。

 また、似たような制度として、昭和三十二年に中央線と京浜東北線で『老幼専用車』が導入されたことがある。

 こちらは文字通り、老人と幼児の保護を目的とした車両だ。

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