ゲット・バック
藍野 克美
第1話 天使 アクラシエル
夕食後のことだった。
橋本隆一は、二階の部屋までコーヒーを運び、くつろいでいた。
ちょっと食べ過ぎたかなと独り言を呟き、土用の丑の日にありつくことのできた鰻の蒲焼きの幸福な余韻にひたっていた。幸運にも、直前に夕飯を電話でキャンセルした父の分も合わせた、二枚重ねの鰻丼を平らげていたのだ。
エアコンがようやく利き始めたころ、彼は愛用の MacBook Pro の電源を入れた。だが、これといった目的があるわけでもなく、ただ、ぼんやりとその前に座っているだけだった。
そんな時だった、突如、声が聞こえたのだ。
「きみ、あまり食べすぎては、いけない……」
なんと、背後から何者かが彼に語りかけてくるではないか。いや、正しくは、彼にもよく分からなかった。その声が、後ろから聞こえたのか、頭の中だったのか、あるいは心の中だったのか。
彼が自分の耳を疑っていると、その声は、ほどなく続けて言った。
「そんなに、食べ過ぎては、体に良くない」
何者なのかと問いかけることもできないほど、隆一は混乱していた。なにが起こっているのか分からず、恐怖さえ、すぐに感じることができなかった。
コン、コン。やがて、ゆっくりと二回、彼の背後にある部屋のドアをノックする音が鳴り響いた。ビクリと彼の体は硬直し、言いようもない緊張が彼を襲っていた。隆一はノックをしたのが、さっきの声の主だとすぐに悟った。なぜなら、同じ屋根の下にある彼の部屋のドアを礼儀正しく叩たくような者は、彼の家族にいるはずがなかったからだ。
おそるおそる振り向こうとした時、奇妙な感覚に隆一は襲われた。デジャヴ?
( 待てよ! この場面、知っている…… 見たことがある…… そうだ! 振り向けば──天使がいるんだ! 黒装束の天使が…… )
そして実際に振り向くと、やはり、黒のダークスーツを身にまとった長身の男が立っているのだった。そして、その男が天使だということを、隆一は知っていた。彼が驚きのあまり腰を抜かさないよう、まるで夢の中で示されていたかにように。
隆一がどうすることもできないまま、言葉を失っていると、男はやさしげに微笑んで、ゆっくり口を開いた。
「わたしは、アクラシエル。神の使いです。あなたの部屋に勝手に入って、失礼しました。しかし、それは、あなたがなかなかドアを開けてくれないからです。わたしたち天使にも、やはり自尊心というものはあります。ドアをすり抜けるのは、あまり気持ち良くはありません…… 次からは、ちゃんとドアを開けて、迎えてくださるとありがたいのですが……」
そう言うと、天使はゆっくりと辺りを見回した。それは、隆一が自分に座るように勧めるのを促すためだった。隆一はその意味をすぐに理解したが、残念なことに部屋には、彼の肘掛け付きの回転椅子が一つあるだけだった。彼は大慌てで椅子から立ち上がり、せまい部屋を意味もなく右往左往し、よろめいて尻餅をついた。結果的にその時、解決策を得ていた。彼はそのまま床に胡座をかいて座り、空いた椅子を天使に勧めた。階下になにか取りにいって、家族に天使のことを、気づかれることだけは避けるべきだった。
天使は、そんな隆一の態度に満足したらしく、椅子は断り、隆一と向かい合って同じように床に座った。座布団もなく、直に座ったフローリングの感触は実に堅く落ち着かないものだったはずなのに、天使はまったく気にするようすもなかった。
その天使はどうやら、日本人のようだった。顔つきも肌の色もそうなら、流暢な日本語を話した。ただ、その顔は異様な光沢を放っており、毛穴や痘痕、ニキビといったような、この地上の生命体である人間になくてはならない特徴を、持っていなかった。黒く太い眉毛や、大きく波打ったふさふさの頭髪も、この世のどこにも存在しそうにない不思議なわざとらしさが感じられた。真夏にもかかわらず、見るからに暑苦しそうな黒のダークスーツと黒のネクタイという、まるでメン・イン・ブラックのような服装も同様だった。なんと説明すべきか、輪郭しか目に入らないのである。特徴がなく目立たないという意味ではない。それが衣服であるとしか、認識できないという意味だ。そもそも、スーツ、ネクタイなどというものは、絹やウールや化繊のような繊維の糸を織ってできた生地を、いろいろなデザインによって仕立てたものである。だから、製造業者が未熟だったり、製造工程がいい加減だったりしたら、消費者の厳しい評価を受けなければならないものと言える。なのに、天使のスーツやネクタイの生地はどんな材質のものなのか見当もつかなかったし、従来の紡績の技術によって作られたものかどうかも明らかではなかった。
天使は、すべてにおいて不自然だった。その状況を的確に表現できるキーワードが見つからなければ、何千語、何万語をつくしても、説明できないことだろう。そのキーワードとは、そう── C G だ! 天使は、まるで最先端の、いや、もっと未来のコンピューター・グラフィックスの技術によって、MacBook Pro のディスプレイのコーティングガラスのむこうにあるバーチャル空間に、生命の息吹を吹き込まれた RPG のヒーローが、間違って現実世界に抜け出したとでもいうべき奇妙な存在だった。
彼は美男子だった──それも最上級の。その顔は正面から見ても、横から見ても、陰陽の絶妙のバランスが保たれていた。年齢は二十代半ばだろうか。個性派ではなく、絶対的美形とでも言うべきだろう。こんな日本人がいたら、同胞として、世界に出して自慢したくなるような男だった。
「それで…… ぼくに、どんなご用件ですか……?」
やっと、隆一は天使に尋ねた。
「もちろん、大切な用件で来ました。しかし、まずは、あなたのいろんな疑問にお答えしてからにしましょう。遠慮なく、なんでも質問してください」
大切な用件という言葉が気にはなったが、隆一にとって、そんなことはすぐに、どうでもよくなった。とにかく、質問したいことは無限にあるように思われた。このような機会は、だれにでも与えられるものではない。天使を名乗るその男が、人間でないことだけは確かだった。
「すみません、お名前はなんとおしゃいました?」
「アクラシエルです」
「なにから、お聞きしたらいいのか…… では、お年は、いくつですか?」
それは、まったく間抜けな質問だった。天使に年を尋ねるとはどういうことか、理解していなかった。
「私たちには、年齢を数える習慣がありません。なぜなら──私たちの世界には、時間という概念がないのです。ここでは、太陽が昇り、沈み、また昇ると、一日が経過しますが、私たちの世界の太陽は、ずっと沈まないのです。一月、一年、といった年月を数える単位もありません…… あなたたち人類の始祖であるアダムが誕生した時には、すでにいました」
「アダム……? アダムがほんとうに、いたのですか?」
「もちろん、アダムは今でもいます。あなたたちが霊界と呼んでいる世界に」
「…………………」
「霊界も天使界も、永遠の世界です。過去に存在した者は必ず、すべて、どこかにいます」
隆一は、興奮していた。彼は、死後の世界について強い関心を持っていた。なぜなら、彼が思うには、人生が、時間的に限りあるものか、永遠に続くものかによって、まったく違うものになるからだった。
そして彼にとって、なにより、人生とはなにかという、少年時代から持ち続けていた疑問こそ、真っ先に解消するべきものだった。しかし、なぜかそんな質問をすることに抵抗を感じ、ためらった。そんな重要なことが、たやすく、与えられるものではないような気がしたからだ。
「あの…… とりあえず、思いつくことから、お聞きしたいのですが、つまらないことでも、いいですか?」
「いっこうに、構いません」
「その黒で統一した服装は、あなたの好みなのですか?」
口にした瞬間に、つまらない質問をしてしまったと、隆一はすぐさま後悔した。ところが、アクラシエルは、楽しげに微笑んだ。
「好きでも、嫌いでもありません。地上の流行に合わせたつもりなのですが、変ですか?」
「いいえ…… ただ、天使らしく、ないなと……」
「なるほど。では、どんなスタイルが天使らしいのでしょう?」
「地上の人間は、たいてい──天使は、背中に翼を持っていると思っているものです」
天使が、鳥が使う移動方式を超越した移動手段を持っていることぐらい、隆一にも容易に想像できた。だから彼としては、冗談のつもりだった。その程度のことが言えるぐらいに、落ち着きを取り戻していた。ところが、天使アクラシエルは真顔のまま、大きくうなずき、腰を上げると、体の側面が隆一に見えるように横を向いて立った。すると、背中の肩甲骨のあたりから、ドライアイスが放つ白い煙のような、ぼんやりとしたものが現れ、徐々に膨らみ、やがてそれは、鶴か白鳥のものを思わせる立派な翼になった。黒い上着の背中に突き出した、まさしく、取って付けたような翼だった。天使は思うまま、自由自在に姿を変えることができたのだ。
隆一が目を丸くして、息もできないぐらいに驚く様子を見ながら、アクラシエルは愉快そうに微笑みながら言った。
「頭に、一角獣のような長い角を生やすこともできます。やってみましょうか?」
隆一は慌てて首を横に振った。
天使はユーモアや冗談を理解し、またそれを好むということを、彼はその時知った。
隆一は片付いたばかりの部屋を、入り口に立って眺めていた。
玄関のドアを開けると、物干しのあるベランダのガラス窓まで、すべてを一直線に見通せるワンルームのアパートを借りたのだった。
奥の部屋には、買ったばかりの真新しいベッドと、使い込まれた古い机と書棚、それに、とうぶん開けられないまま積み重ねれらていそうな段ボール箱があった。
小学校に上がった時から二十年もの間、買い換えられることのなかった机には、シールを剥がした痕跡がいくつも薄黒く残っていた。小学生のころポケモンをこよなく愛していた彼もいつしか成人し、今では、時間と共にきれいに溶けてなくなるシールを発明できたら、大金持ちになれるかも、などと考えていた。
机の上には、シルバーの躯体に白いリンゴの切り込みのある、MacBook Proと同じくシルバーの iPhone がピカピカに磨かれ、置かれていた。
そして机の横には、大人の背丈ほどある五段の書棚があった。そこには、聖書や、“スエーデンボルグの霊界日記” “天使とは何か” などといった、彼の神秘主義的な趣味によって集められた本が詰まっていた。
だが、彼がもっとも満足気に眺めていたのは、手前の板張りのキッチンに置かれた中古の三点セットの家具だった。一人掛けのグレーのソファー二つと金属のフレームにガラスをはめ込んだ小さなテーブルの三つが、キッチンのほとんどのスペースを占領していた。アパートのちょうど向かいの建物の一階がリサイクルショップになっていて、その店頭で見つけた時は、運命的な出会いのように、彼には思えた。布張りのソファーのスプリングはまだまだ弾力を失っていなかったし、テーブルにも目立った傷はなかった。すぐに、キッチンに置いて食卓を兼用すればいい、というアイデアが浮んだ。なにより、処分品と言っていい値段がうれしかった。一万円を支払うと、二十円のお釣りが返ってきた。
そもそも、独立して家族から離れて暮らすことにしたのは、だれにも気兼ねなく、このようなソファーで向い合って歓談したい客を迎え入れるためだった。アクラシエルは、週に一回、金曜日の夜、決まって隆一の夕食後にやって来るのだった。
隆一の勤め先は、アパートから二十分ほど歩いた地下鉄の駅から三つ先の駅前の商業ビルの中にある、本、CD、ゲームソフトなどの中古品の売買をするチェーン店だった。学生時代、小遣い稼ぎで始めたアルバイトが、いつしか本業になっていた。
地下鉄を降りて駅の階段を駆け上がり、街頭に出ると、スクランブル交差点の歩行者用信号がタイミングよく青だった。交差点を斜めに駆け抜けると、間口が狭く奇妙なぐらい縦に細長いビルがあった。型枠の継ぎ目がひどく目立つコンクリートの打ちっ放しで、建物の角もところどころ崩れていて、廃墟をイメージさせた。その幅なら奥行きは案外長めなのかも知れないと、彼は思っていた。それは、なぜか彼の興味を引く建物だった。
その隣にはコンビニがあった。彼はまっしぐらに奥の陳列棚に向かい迷わず、三百九十円の幕の内弁当をつかむと、今日は自炊する余裕なんかない、と呟きながらレジに並んだ。それは彼が、最強最安値の幕の内と呼んで気に入っている弁当だった。内容と値段の折り合いをつけるためのあらゆる知恵が詰め込まれているのが彼には理解できた。それが並んでいる限り、他のものは買わないと決めさせるほど、彼の心をつかんだ弁当だった。
夕食は十分間で終了した。
隆一は恋人を待つように、客人の訪問を待った。
ほどなく、玄関のチャイムが、キッコン、と鳴った。
ドアを開けると、いつものアクラシエルの黒尽くめの姿があった。
アクラシエルはいつにも増して楽しげに微笑んだ。
「あなたの家ですね!」
「はい、ぼくの初めての家です!」
「とても落ち着いた、いい部屋です」
天使は、社交辞令もちゃんとこなすのだった。
アクラシエルは、奥の方のソファーを勧められると、とても満足気な笑顔でゆっくりと腰をソファーに沈めた。スプリングの軋む微かな音がした。天使に体重があるはずはなかったが、まるで体重があるように演じることができるのだった。
「いいソファーですね!」
アクラシエルは心からそう言ったのだった。それが彼のために用意されものだということを、ちゃんと分かっていて、本当に嬉しかったからだ。
「そうですか? ぼくもとても気に入っています」
やがて、紅茶が隆一によって運ばれてきた。
天使は紅茶を好んだ。その色が美しいと言って。真夏であっても、香りを愉しむためにはホットがいいのだとも言った。そして、汗ひとつ流さず、入れたての熱い紅茶を一気に飲み干すのだ。隆一はそれを見ながら、きっと四次元空間にその液体を飛ばすのだろうと考えた。だが、そんなことを明らかにするのはのは無粋なことだと思い、聞こうとはしなかった。
隆一は天使と向い合って座り、ビールグラスいっぱいに満たした氷に、濃い紅茶を注いだものを飲んでいた。そして、静かに話し始めた。
「今夜は、神について、お聞きしたいと思っていました」
「はい……」
「神に会ったことはありますか?」
「姿を見たことはありません。しかし、昔は、その存在を感じることはよくありました。声を聞いたこともありませんが、ルシファー、ミカエル、ガブリエルの三天使は、神と語ることができ、彼らを通してメッセージを受けることができました。神は偉大で、慈愛に溢れ、わたしたち天使にとっても、かけがえのない方でした…… 三人の天使のことは、あなたも、ご存知でしょう。そんな本も、お読みでしたね?」
アクラシエルは隆一の書棚に視線を向けながらそう言った。
「その三人の天使がリーダーなんですね?」
「一人が天使界を去るまでは、三人でした……」
「………………?」
「不幸なことがあったのです……」
そう言うと、アクラシエルは言葉を止めた。
アクラシエルが神について、なぜか懐かしそうに話しているのに隆一は気づいた。だが、それがなぜなのかは分からなかった。
「ところで隆一さん、あなたは神をどう思っていますか?」
「どう、とは?」
「あまり、よくは思っていませんね? 神がいるなら、なぜ、悲しみや苦痛に溢れた、混乱したこの世界を放置しておくのか? そう思っているのでしょう?」
「……ええ、そのとおりかもしれません」
「この地上で、神を正しく理解している人は、ほとんどいません。なぜなら、神と直接に語り合った人が、ほとんどいないからです。わたしたち天使も、ミカエルたちを通して、神の言葉を聞くのです」
「それなら、つまり…… いるいると言われながら、神は存在しないかもしれないのでは、ないですか? あなたは、姿を見たことも、声を聞いたこともないと、先ほども、おっしゃっていましたよね……?」
隆一は、アクラシエルとのその対話によって、最も明確にさせたい核心部分に触れることになった。彼は興奮していた。だが、天使は完膚なきまで否定するに違いないと思っていた。なぜなら、天使は、神のみ使いとして存在するのだ。神がいなくなったら、何者なのか分からなくなってしまう。しかし、アクラシエルは、そうは言わなかった。
「確かに、その可能性はあります。ルシファー、ミカエル、ガブリエル以外の、我々すべてが騙されているという可能性が!」
「ええっ……?」
「神について語られていることすべてが、まったくの嘘ではないかと騒いだ天使たちもいました。わたしたち天使は、心で思ったことを黙っていることができない性質を持っています。だから、その都度、心霊のずれを調整し合わなければなりません。そんな時、リーダーは、心を開示する行為を行います。それぞれの個性を保つために、頻繁にはできませんが、あまりにずれていると感じる時はそうします。すると、相手の思念がスーッと入ってきて、心を同期させることができるのです…… ですが……それが、だれかによって、なんらかの目的で作られた偽の思念でなかったという保障はありません……」
「………………?」
「しかし、わたしは、疑ってはいません。そもそも、神は、姿形を持っていません。もちろん、声も発しません。究極の心霊というか、神の霊と書く“神霊”と表現されるもので成り立っています。あなたたち人間が肉体以外に持っている心霊、そして、天使が持っている姿も心霊なのですが、それらは見ることができます。ですが、神の神霊はもっと高次元なもので、見ることも、触れることも、聞くこともできません。だからこそ、どこにでも普遍的に存在することができるのです」
「だから、つまり……信じるしかないと、おっしゃるわけですか?」
「そのとおり! 神と話すためには、特別な資格がいるのです。わたしの知る限りでは──天使では、ルシファー、ミカエル、ガブリエルです。そして、人間では、キリストだけです」
「ちょっと、待ってください。旧約聖書の中で、たとえば、モーセなどが、神の声を聞いていますが、あれは作り話ですか?」
「いいえ、そうではありません。確かに、モーセは、自らを神と名乗る者と話しています。しかし、モーセが話した相手は神自身ではありません。あれは、神の代理を務めた天使です」
「ええっ……?」
「人間の心霊が、完成域に到達するまで、神と話すことはできません。だから、天使が、神と人間との間をつなぐメッセンジャーの役割を果たさなければならなかったからです。残念なことに、その完成域に達したのは、まだ、キリストしかいないのです」
「そういう、ことだったのですか……」
「あなたにとっても、今この時代に生きる多くの人々にとっても、旧約聖書に登場する神は、ひどく悪いイメージを持たざる得ない存在であることでしょう。モーセに十戒を与えた神は──目には目、歯には歯、傷には傷、やけどにはやけど、命には命で、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義者です。その上、偶像を極度に憎み、自分以外の他の神に仕えるならば激しく嫉妬する恐ろしい神。そんな神は、あなた達にとって、けして理想的な絶対者ではないでしょう。しかし、あの時代、天使たちは、当時の人々を導くためには仕方のないことだと判断したのです」
「………………」
隆一の心の中で、神について、それまで信じていたことが、大きく変化し始めようとしていた。
「アクラシエル、教えてください。神がいて、なぜ世界はこんなふうに、理想とはほど遠い状態になっているのですか?」
「これだけは、確かです。神はあらゆる手を尽くして、あなた達を救済しようとなさっています。わたし達、天使が休みなく、働いてきたのが、なによりの証拠なのです」
「いいえ、教えてください。人間が、けして願わない世界を、どうして神が創造されたのかを知りたいのです!」
「それは、神にとっても、けして願うことではなかったのです……」
「それなら、なぜ?」
「神でさえ、想像できなかった不幸なことが起こってしまったのです……」
「神でさえ? いったい…… ?」
「神は──あなたたち人間と、実はよく似ています。至上の芸術家としての性質を持っていて──創造の時、夢中になり、興奮に我を忘れるような一面を持っています。ありとあらゆる、全てのリスクについて熟知していたはずなのに、そんな神であっても、止めることのできないことが、ありました。とにかく今は──そうとしか、話せません…… そんな時、決定的な、たいへん不幸なことが起こったのです……」
「………………」
「天使界のトップに立つ、天使の中の天使、ルシファーが裏切ったのです……」
「……? 裏切った、とは……?」
「永遠の存在である神にとって、共に生き続けることのできる、愛する対象が必要でした。それは、我々天使ではなく、人間だったのです。だから、人間がいつ特別なものになったかと言うと、永遠に生き続ける心霊を持ったときからです。人間の形をした高等動物は、それまでもたくさんいましたが、アダムとエヴァは──神が、心霊を与えた初めての人間でした。その当時の神の関心のすべてが、彼ら二人に一心に注がれていたと言っても過言ではありませんでした」
「……………?」
「そんなアダムとエヴァを、ルシファーが奪い取って、拉致してしまったのです。完成域に達していない彼らは、神との関係を完全に絶たれ、ルシファーの命ずるままに、人類の歴史を歩み出すしかなかったのです」
「………………」
「聖書には、そんな人間が、神に追放されたのだと受け取れる記述があります。旧約聖書、創世記 第3章 24節にはこう書かれています。『神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた』 しかし、わたしの感想を述べさせていただくなら、本当にエデンを追い出されたのは、むしろ神の方じゃないかと思います。神が人と共に暮らすつもりだったエデンをルシファーに奪われたからです…… その時からルシファーは、悪魔、サタンと呼ばれるようになりました。そして、多くの天使達もルシファーに従って、天使界を、つまり神のもとを去って行きました…… エデンは、あの日から地獄と化してしまったのです。そう、あなたたちの今いるこの世界が、他ならぬエデンだったです」
隆一は、聖書を棚から手に取り、新約聖書の終わりごろのページを開いた。そして、彼がよく読んでいた聖句を探し出し、声をあげて読み始めた。ヨハネの黙示録12章 7節から9節だった。
「『さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された
』ここに書かれている、龍とその使たちというのが、ルシファー達だったのですね?」
「はい、そうです」
「地に投げ落されと、ありますが…… ミカエルやあなた達が、戦って勝ったのではなかったのですか?」
「あの日、たしかに、ルシファーとミカエルは、激しく言い争ってはいました。しかし、天使界で、けして天使どうしが剣などを振り回して戦争をしたわけではありません。神側とサタン側に別れた、人類に対しての情報戦のような闘いが、その時から始まったに過ぎなかったのです。ルシファー達は、天使界全体を説得することができないと分かって、去って行きました…… 神に挑戦するなど、わたし達には考えられないことです。どうして、こんなことになってしまったのか……」
「………………」
「サタンは今日まで、神は死んだ、神などいないと、人間を惑わしてきました。そして、ミカエルとわたし達は、神がいることを人間達に知らせてきたのです。これが、神側とサタン側に別れた戦争なのです。黙示録は預言の書です。彼らが、地に投げ落とされるとは、これから起こるべきことなのです。わたし達は、勝利するでしょう! 必ず!」
その夜のアクラシエルの言葉は、あまりにも衝撃的過ぎて、隆一にとって生涯忘れることができないものになった。
「神は今、たとえて言うなら、たった一人で、エデンの亡命政府にいるのです。あれは、ルシファー達が起こした──いわば、クーデターだったのです!」
それが、人類歴史の最初の一歩だったというのだから。
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