第95話
佳子「温泉は、あとね。きょうはまず食事から」
あら、温泉ではないんですか。
でもまあ、人の家に来ているわけだから、
佳子さんの言うとおりにしないと、申し訳ない。
そこで僕は食事に向かう支度をして、鍵と財布とスマホを持った。
一方、佳子さんは、何も持たない。
あれ、先日は名刺入れのような何かのケースだけ持っていたけど、
それもないのか。
僕は念のため、聞いた。
僕 「佳子さん、何も持っていかなくて、いいの?」
佳子「うん、いいの」
僕は佳子さんがいいと言ったので、それ以上は気にしなかった。
前回と同じように、薄暗い廊下を歩き、
スリッパをパタパタさせて広間に近づくと、
まるで自動ドアであるかのように、広間の入り口のふすまが開いた。
いいタイミングで開けるなあ。
きょうもさすが大観光。
中に入ると、30畳ほどのだだっ広い広間に
お膳が3つだけ、並べられていた。
これも前回と同じだった。ほどなくして、じじが入ってきた。
じじ「おう、待たせたな」
僕 「いえ、今来たばかりです」
じじ「どうじゃ、仲良くしとるか?」
じじはまた、直球を投げてきた。恒例だ。
すかさず、佳子さんが返した。
佳子「はい。仲良くさせていただきます」
前回と同じような答えをして、話は終わった。
あれ?「いただきます」ってなんだ?
「いただいています」だったらわかるけど、なんで未来形?
僕は少し気になったが、
じじが返事をする前に、すぐに食事が運ばれてきた。
それを見て、少し驚いた。山芋料理ばかりだっだ。
オクラ入りのとろろ汁、山芋のたたきの磯辺和え、
水菜と納豆と山芋のサラダ、山芋の豆乳シチュー、山芋のそぼろ煮。
そして大きなどんぶりに並々と山芋がすられていた。
じじ「きょうは箱根名物・山芋フェアじゃからな、存分に食べてな」
こういう、ひとつの食材にこだわった夕食も出しているのか。
僕は遠慮なくいただいた。佳子さんももりもり食べていた。
ひとしきり食べた後、じじは、少し酒を口に含ませてから、口を開いた。
じじ「そういえば、石井君は、気象予報士じゃが、
大学では、何を勉強していた?」
僕 「あの、法律です」
じじ「法律?すると法学部か」
僕 「はい」
じじ「法学部を出て、気象予報士になるとは珍しいのう」
僕 「ま、それほど珍しいわけではないですが、少ないですね」
じじ「どうして文系を出て、予報士になろうと思ったんじゃ?」
僕 「分野が違うことをやってみたかったから、です」
じじ「分野が、違うこと?」
僕 「はい。法学部を出て、弁護士になったり、検事になったり、
金融の仕事で法律の知識を生かしたりするっていうのも
あると思うんですけど、
全然違う分野で、法律の勉強で得たものを
生かせないかって考えたんです」
じじ「具体的に、何か役に立ったことは、あるか?」
僕 「はい。気象の世界は、気象業務法とか災害対策基本法とか、
案外法律が多いですし、
予報を一般の人に伝えるためには、わかりやすく、
伝えないといけないんですけど、
そのときに、法律を一般の人に伝えるやり方が、役に立っています」
じじ「なるほどな。異世界で、自分の分野を生かしておるわけだな」
僕 「いえ、まだ道半ばです」
じじ「そんなことはないぞ。石井君は立派にいろいろ話せておる。
佳っちゃんは、ほんとにいい男を見つけてきおったなあ」
佳子「いいでしょう」
じじ「うむ。佳っちゃんも、異世界だからな。よろしく頼むよ」
佳子さんが、異世界。
確かに、一般の人とは違う、たぐいまれな頭の良さをしていると思う。
記憶力も抜群だし、問題解決力もすごい。
この異世界を頼むと言われ、僕は少し身震いした。
僕 「いえ、でも、僕には身に余る役で」
じじ「身に余るところを、詰めていくから、力がつくのよ。
石井君、しっかり頼むぞ。じゃな」
じじはそう言うと、少し足元をふらつかせながら、広間を後にした。
僕 「じじ、ずいぶん早くいなくなっちゃったね」
佳子「たぶん、気を遣ってくれたのよ」
僕 「そっか、ありがたいね」
佳子「そうね」
気がつくと、佳子さんも食べ終わったようだった。
僕たちは、部屋に戻った。
15畳の部屋の中には、前回と同様に、
布団が仲良く2つ並べられていた。
僕は、今回は何も言わなかった。佳子さんも、何も言わない。
佳子「じゃあ、温泉行こうか」
佳子さんは、いつものように甘く、しかし、少し高めの声でそう言った。
本当にわずかに、高かった。
ひょっとして、佳子さんが緊張しているのか?
僕はちょっと意外な展開に驚いた。
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