空白

クソザコナメクジ

空白



“まるで、世界が死んで逝くみたい”。



 ◇◆◇


 ――部屋を片付けて欲しい。


 そう私に依頼してきたのは、同じ職場の先輩のリカさんだった。

 天真爛漫な性格なので、周りの評価はどちらかと言えば妹寄りなのだけれど、どん臭い私に対して何かと世話を焼いてくれるので、私にとってはお姉さんに近い。そんなリカさんが、私に部屋の片付けを依頼してきた。

 とは言っても、彼女の部屋ではない。もちろん私の部屋でもなく、そもそも私はこの部屋の主を知らない。ただ一つだけ言えることは、この部屋の主はもうこの世にはいないということだけだった。


「お疲れー、まだやってたんだ?」


 どたばたと騒がしい音がしたかと思うと、私に依頼した当の本人であるリカさんが飛び込んできた。スーツを着ているので、また何処かで仕事でもしてきたらしい。私と同じく、誰かの部屋の片付けだろう。


「あー疲れた」

「お疲れ様。……リカさんも掃除?」

「あー、うん、そうそう、そんな感じよ。今日はあんたに伝えなきゃいけないことがあってねー、飛んできたの」

「珍しい。どうしたんですか?」

「んー、まあね。なんていうか……」


 リカさんは埃だらけの椅子の上に、畏まって座る。

 ばつの悪そうに視線を泳がせてから、やがてゆっくりと言葉を落とした。


「なんていうか、ね」

「……?」

「此処、封鎖されるみたい」


 まるで煙草の煙を吐くみたいに、誰かの溜息のように。

 重く降りた言葉は、一瞬で空間を支配した。雑多な部屋への気怠さから、部屋の主への憐みへ。自分勝手なその感情はすぐに、この街一帯へのものへと広がった。


「……そう」


 けれど口から洩れたのは、諦め。憐みなどという感情は、いつだって傍観への踏み台でしかない。綺麗に見える言葉を踏みにじって、やがてはすべてを忘れ去る。人間というのは、そういった仕組みでできている。


「……ここが最後の住人だったんだ」

「いいえ。此処ではないの。最後の住人の部屋は、もう私が片づけたわ」

「そうでしたか」

「だからもう、終わりよ。……残念だけれど」

「何にだって、寿命はあります」


 窓の外の景色へと、思いを馳せた。ここ何か月か通っていたので、すでに馴染みが深い。水の枯れた噴水。明かりのないビル。何も通らない車道。信号だけが点滅する交差点――。


「本当に、忽然と消えちゃうもんだねえ。半年前までは、あんなに人でいっぱいだったはずなのに」


 死という概念は、いつの頃だったからか、全く別の概念へと覆った。

 肉体は残らず、記憶も残らず、それどころか存在自体がなかったことにされる。残るのはその人の所持物と、空白だけ。そこに何があて嵌められていたのか、どんな形をしていたのか、そもそも本当にそこに何かがあったのかさえ、存在の消失とともに曖昧になる。

 

 ――私たちは、掃除屋と呼ばれている。

 前のセカイの常識でいう、葬儀屋にあたる職業だ。

 人が消えた部屋を、その人の代わりに掃除する。


 家財道具とか、私物とか、無くなった人が残したモノを処分していくだけの役目。放っておいても勝手に消滅はするのだけれど、消えた誰かの思念が宿ったものは、消えゆく瞬間、他の何かを道連れにすることがある――と、言われている。

 自分だけ消えるのが寂しいから、普通に生きている人を連れていく。死者の魂、とでもいうのだろうか。そんな報われない思いを弔うために、彼らの痕跡を葬っている。


 消える、という現象の対象は、人間も無機物も変わらない。

 ――消えた街の痕跡は、その記憶にさえ、残らない。


「街ひとつ消えるってのは、慣れないモンだわ」


 リカさんは、どこか寂しそうだった。

 そういえば、この街に友達ができた、と言っていた気がする。


「私たちも、もう出なくちゃいけないんですね」

「あんたは初めてだっけ、撤収は」

「まあ。恐らく。リカさんもそうでしょう?」

「わかんないわ。多分、そうだと思うけど。でもなんとなく、知っているような気もするのよね」

「私も。なんとなく誰かに、何かを頼まれたような」

「消えそうな誰かに?」

「おかしな話ですけど」

「あり得る話よ」


 いつも元気な彼女の顔が、ぼんやりと陰って見えて、今にも消えてしまいそうだと思った。衝動的に腕をつかみたくなる、そんな奇妙な感覚。


「明日には迎えが来るそうよ。あんたも、荷物を纏めときなさい。それと、今夜はゆっくり休んで」

「はい。ありがとうございます」


 この部屋の片づけはもういい、ということだろう。


「あ、それと」

「はい?」

「後処理もあるし、私は先に帰って待ってるから。あんた一人でちゃんと帰るのよ」

「あれ、そうなんですか?」

「ええ。……ごめんなさいね」


 活気のない笑みを浮かべて、彼女は踵を返した。

 その挙動に、違和感を感じる。けれどそのわずかなほころびの正体が、私にはわからなかった。


「じゃあね。家に帰るまでが任務よ。しっかり帰りなさい」


 彼女が遠ざかっていく。

 コツコツと、響くヒールの音。足音がフェードアウトしていくのを聞きながら、私は無人の部屋を見つめていた。


「……まるで世界が死んで逝くみたい」


 不意に口をついた言葉は、真新しかった。

 何故、と全身が奮い立つ。

 反射的に、自らの存在を確かめるように、手のひらを握る。

 誰の言葉だっただろうか。

 もう、覚えていない。どこにもない。

 それなのに。


「どうしてこんなに、名残惜しいんだろう」


 掻き消えた記憶を観測できない、というのは、不便なものだ。

 いつからこうなったのか、いつからそう思うようになったのか。もう覚えていないが、漠然とした不安はいつだって胸の中にある。きっとその正体もわからないまま、私は消えていくのだろう。この街と同じように、いつか観測したかもしれない人々と同じように。

 ――私は、それが寂しいんだろうか。

 朧げな焦りと混沌の中。

 可愛らしくも綺麗な、あのリカさんの声が、淡く蘇って、忘却へ掻き消えた。


 ◇◆◇


 翌朝、迎えの車と対面したのは、当初の予定通り、私一人だけだった。ただ一つ違うのは、彼女の話を振った時の運転手の反応。


「……どなたでしょうか? この街から戻る掃除屋は、あなた一人のはずです」

「……ご存じ、ないんですか?」

「ええ。そもそも派遣されたのは、あなた一人だったはずです」


 運転手は、もうリカさんを勘定に入れてはいなかった。私だけが派遣され、私だけが仕事を終えて戻っていく。そういうことになっていた。そこで初めて、彼女が昨日の晩のうちに、あの街に呑まれてしまったのだと悟る。

 私に残ったのはリカさんの朧げな記憶と、胸に落ちる空しさ。そうして、曖昧な既視感と、わけのわからない焦燥感。


「大丈夫ですか?」


 落ち着いた声色の男が言った。

 私はこの人を知らないが、この人は私を知っている。


「……誰かと一緒に、仕事をしていた気がするんです」

「そうですか」

「とても可愛らしい方でしたわ」

「それはお会いしてみたかったな」

「会っていました、貴方も」

「そうかもしれませんね」

「……どうして、忘れてしまうのかしら」


 運転手は、まっすぐ、荒れた道を進む。

 整備する人間も消えて、荒れ果ててしまった、この道。きっと此処も、すぐに消えてしまうのだろう。あの街が消えてしまったら、人も通ることはなくなる。あとはただ、消滅を待つのみだ。死に行く街道を踏みつけて、車は進む。

 人の記憶から消えて、世界から消えて。このまま消滅を繰り返していったら、この継ぎはぎだらけの世界も消えていくだろう。誰かが言っていた。死なないものはない。永遠など存在しないのだと、誰かが言っていた。


「まるで、世界が死んで逝くみたい」


 ――口をついて出た言葉は、本当に自分の言葉だっただろうか。

 そういえば私は、私はどうして、こんなところで仕事をしているんだろう。

 その正体さえ、曖昧になる。


「……もどして、ください」


 気が付けば、訴えかけていた。

 一つの街の終り、一つの区切りへ向かっていた車内が、再びあの街の終りへ引き戻される。


「お願いします。引き返して。街に、戻して……!」


 それは本当に、私の知っている私の願いだったんだろうか。

 それでも脳裏によぎったのは、あの時のリカさんの。とても悲しそうな、あの笑みだった。


 ◇◆◇


 街へと続く道は、まだはっきりと残っていた。

 しかし、街の記憶が曖昧で、自分が今まで立っていた場所の曖昧さを思い知らされる。

 これ以上は進めない。そう運転手が告げたのは、昼と夜の区別さえもつかなくなったころだった。そんな当たり前の概念さえも、死んだ街の周辺ではぼやけてしまう。そんな空間に呑まれたリカさんのことを思いながら、私は車を降りた。


「……戻れたら、また会いましょう」

「お気をつけて」


 短い挨拶をかわし、私は整備された道を進む。無音の世界。車の走り去る音だけが、街につくまでの間、聞いた音の最後だった。

 静寂。鼓膜が圧迫されるほどの静けさに、鳥肌が立つ。

 無人の街の明かりが見えたのは、それから、気が遠くなるほどの時間が経ってからだった。


「……リカさん」


 見慣れた街の景色。ただ人だけが消えた街。

 廃墟と化した大通りを、私は歩く。

 人が消えても、自動稼働している発電所は動いているらしい。街にはつけっぱなしの明かりが輝き、光の灯った街灯が並んでいた。


「リカさん。……まだ、いますか」


 無人のはずの街を、たった一人の先輩を求めて彷徨う。

 きっとまだ、残っている。私の記憶に残っているということは、まだ、彼女はこの街のどこかにいる。この街が、この街の明かりがまだ残っているうちは、きっと。

 街の外へ出た瞬間、私の中で、リカさんの存在が曖昧になった。それがとても恐ろしかった。それどころか、街の記憶さえも朧気になった。覚えていたはずの道さえも分からなくて、何度も違う場所に出た。街へたどり着いたのは、とてもとても長い時間が経ってからだった。

 一度人が消えると、そこからの消滅への道は速い。一度街を出ると、車でもたどり着くことはできない。下手をすると、車ごと消滅に巻き込まれる。

 だから皆、近づかない。掃除屋の送迎を最後に、その街へ立ち入ることは禁じられる。――もっとも、守らない人間がいたとして、誰からも認知されることはないのだが。

 それでも自分から消滅しようという人間は、そう多くはないだろう。


「……」


 どれくらいの時間、そうして彷徨い歩いていたのだろう。

 もう足も草臥れて、息も上がってきた頃。


「あんたも奇特よねえ」


 不意にふわりと、聞き覚えのある声が、頭上から降った。


「……リカさん」

「一人で帰りなさいって言ったのに。家に帰るまでが任務だって、ちゃんと言ったでしょ?」


 まだ、そんな風に感じるほど、時間は経っていないはずなのに。それどころか、昨夜声を聴いたばかりだというのに、その気だるげな声に、懐かしさがこみ上げる。

 彼女は、二階建ての民家の窓から身を乗り出して、こちらを見下ろしていた。随分大きなお屋敷だ。和風のつくりで、よほどの名家だったことが伺える。

 彼女の赤毛が、淡く輝いている。街の明かりだろうか。風があったら、もっときれいに揺らめいて見せただろう。けれどその色は、とても暖かく、そして懐かしかった。

 久しい友人に会ったような感覚を覚えるくらい、彼女の存在は、私の中で曖昧になっていたのだ。


「リカさん、どうして」

「こっちに上がってらっしゃい。鍵は開いてるから」


 私の問いを阻んで、彼女は自嘲気味に笑った。


 玄関の引き戸を開けると、畳の井草の匂いが香った。

 中へ入ると、外観の印象よりも、大分広く感じられる。かつては大勢の人が出入りしていたのだろう、一見しただけで、客室らしき部屋がいくつもあった。

 家の中には、まだ家具や衣類などが残っていた。名前が記されていただろう電話帳や、書類の類は見当たらなかったが、恐らくつい最近まで住人がいたことはわかる。もしかしたら、ここの住人が最後の住人だったのかもしれない。それほどに、生活の名残が色濃く残っていた。


「いらっしゃい」


 階段を上がって、襖の空いている部屋へ足を踏み入れると、いつもと変わらぬ笑顔の彼女が、私を出迎えた。


「お帰りなさい、って言った方が良いのかしらね。この場合」

「一緒に帰りましょう」

「率直ねえ。もう少し、ゆっくりお話してくれたって良いじゃない」

「時間がないんです」

「時間ならあるわ。あんたが考えているよりは」

「なにを……」


 早くここを出ないと、私も、リカさんも、この街に取り込まれる。今すぐに此処を出れば、二人で一緒に帰ることができるかもしれない。一刻も早く――そんな焦りが、私を掻き立てていた。むしろ、何故彼女がこんなにも悠長に、こんな場所に留まっているのかも理解できなかった。

 けれどリカさんは、そんな私の焦燥を、いとも容易く断ち切る。


「残念だけれど、もう手遅れよ」


 彼女はそっと私に近づいて、指先で私の頬を突いた。


「え……」

 否、突いたように、見せた。

 私は目を凝らす。彼女の指先へ、彼女の掌へ。そこに在るはずの、彼女のぬくもりへと。

 しかし、どれだけ目を凝らしても、いつも通りの彼女の体は、其処になかった。あるはずの指先は目視では確認できず、手を伸ばしてやっと、其処に何かがあると感じられる、それだけだった。

 糸を切るように、急いていた心が静まる。


「リカ、さん?」

「急ぐ必要はないわ。ゆっくりお話ししましょう」


 穏やかに、彼女は告げる。どこまでも優しい声色で、彼女は笑う。

 私の中に、絶望が注がれる。空の水槽を水で満たすように、じわじわと、絶望で埋められていく。


「どうして……」

「そんな顔をしないで。あたしの空白も、すぐに埋められるもの」

「そうじゃない。そうじゃない……」

「じゃあ、なあに?」

「私はただ、リカさんと一緒に帰りたくて……」

「それで、戻ってきたのね」

「そう、そうだった、そうなんです、……でも、もう」


 全身から力が抜ける。私はなす術なく、その場で崩れ落ちた。

 続きを口にすることは、恐ろしくてできなかった。いや、それは恐怖だっただろうか。悲しみや、やるせなさの類だったかもしれない。


「ほんと、さ」

「……」

「そんなこと、してくれなくたって良かったのに」

「だって」

「なんで、アンタまで巻き込まれちゃうかねえ。私が好きで残っただけなのに」

「……だって」

「まるで、世界が死んで逝くみたい」


 ふと、私の言葉を遮るように、リカさんが呟いた。

 見上げると、部屋は橙色に染まっていた。昼と夜の間。今は夕暮れ時、だっただろうか。その認識が正しいのかすら、もう曖昧になっている。

 彼女の瞳はセピアに照らされて、鮮やかな夕陽色を映す。

 その足元はもう透けて、向う側の景色が見えていた。


「人が消える瞬間はね、夕暮れに似てるのよ」

「……え?」

「悲しいくらいに綺麗だなって、そう思ったの。あれだけ皆、消滅を恐れているのに、消える瞬間は嘘みたいに静かで……色々考えた。その人の人生とか、この世界の経緯とか。そうして最終的に、あんたがよく言う、その言葉を思い出した」

「……」

「この屋敷の御主人はね、孤独な人だった。病にかかって、使用人も皆消えちゃって。たった一人で残って、私の目の前で消えていったの」


 語る彼女の周りを、橙の光が取り囲む。これが、人が消える瞬間の、光なのだろうか。見たこともないはずなのに、なぜだか既視感がある。

 これは、この感覚はなんだろう。絶望ばかりじゃない、切なさにもよく似ている。あるいは、懐古。あるいは、後悔。


「彼は、消える前によく話していたわ。一人になるのが怖い、皆に忘れ去られるのが怖い、ってね。だから私は、彼のことを覚えていようと思った。覚えていたいから、この街と一緒に消えようって、そう思った」


 恋慕だったのだろうか。この屋敷の主人に抱いていた感情は。それとも、もう疲れてしまったんだろうか。掃除屋という、消滅に近い場所に。


「忘れたくなかったのよ。あの人と過ごした時間を。私の中に、留めておきたかったの」

「……そんな。だって」

「一緒に過ごした時間さえも奪われるなんて、おかしいでしょう。でも、これからもこんなことが繰り返されるのよ。誰かを知っても、その誰かの存在は、その記憶ごと消える。それがね、なんだかとても、寂しく思えたのよ」

「それでも、私は」

「……ねえ、覚えてる? 私ね、貴方に、あの人の話をいっぱい、してたのよ」

「え?」

「貴方は、素敵な人ですねって、いつも笑っていた。そんな穏やかな時間もあったのよ」


 脳髄を冷やされるような衝撃。

 覚えがなかった。どれだけ記憶をたどっても、そんな記憶は存在しない。誰かに破り取られたように、見えてこない。


「わかってるわ。消えてしまったんだもの。覚えてるはずがない」

「……」

「本当に、空しいくらいに綺麗だった。おかしいわよね。人が一人消えるのに、こんなに綺麗なのよ。世界の終りみたいな夕焼け色。あんたが言ってた通りだわ」


 リカさんの瞳に、涙がたまっていた。しかし、それが零れ落ちることはない。溢れる前に、消滅の一部と化している。けれど声は震えていて、嗚呼、彼女は泣きたいのだと思った。


「私があのまま帰っていたら、あんたと同じように生きていたかもしれないのね」

「……リカさん?」

「巻き込んでしまって、ごめんなさい」


 それが、最期の言葉だった。

 彼女の色が、橙に染まる。部屋が、街が、橙の光で覆いつくされる。

 夕暮れ色に、連れ去られていく。

 私の意識も、彼女の声も、全て、全て。


 ◇◆◇


 夢を見た。

 白い教会の夢だった。


 雨が降っている。現実世界で見た夕日は、そこにはない。しかし、黒い喪服を着た人々が、聖堂いっぱいを埋め尽くしていた。

 皆一様に胸の前で手を組んで、祈りを捧げている。几帳面すぎるほどにまっすぐ並んで、祭壇を仰いでいる。

 祭壇の前には、白いドレスを着た花嫁が、ぽつんと一人きりで佇んでいた。


「誰……」


 美しい貌をしていた。艶やかな黒髪をサイドアップにして、赤い花のブーケを両手に抱いている。幸せを絵に描いたような花嫁。ただ一つ、愁いを帯びた伏し目を除いては。

 そういえば、隣に立つはずの男性がいない。だから彼女は、悲しげなのだろうか。夫となるはずのひとが来ないから、あんなにも辛そうにしているのだろうか。


「……」


 彼女が私を見る。こちらをとらえた瞬間、黒檀の瞳がゆらりと揺らいだ。赤い紅をさされた唇が、かすかに開く。何かを伝えようとしている。私は聞かなければならない。聞いて、覚えておかなければならない。本能的にそう感じた。


「――」


 その時。

 乾いた小さな銃声が、白と黒の空間を支配した。


「え……」

 鼻腔に火薬の匂いがつく。

 背後で、どさりと鈍い音がした。

 誰かが撃ち抜かれたのだ、と感じた時には、足元に赤い血だまりが広がっていた。


「……!」


 振り返ると、そこには無数の骸の山が積み上がっている。次いで鼓膜を突く誰かの絶叫。それに呼応してあがる、無数の悲鳴。低い声、高い声、子供の声、赤ん坊の声。大小さまざまな悲鳴が、教会を覆い尽くしている。


「貴方達はね、忘れたかったのよ」


 耳元で、秘め事を告げるような声がした。


「愛する人がいたという事実さえ、いずれは悲しみに繋がるわ。それならもう、忘れてしまった方が幸せでしょう」


 ウェディンググローブに覆われた指先が、ぱちん、と軽く音を鳴らす。瞬間、鳴り響いていた絶叫が押し黙る。

 静寂に蝕まれた空間で、花嫁が、私の耳元へ囁きかけた。


「腐敗し、やがて朽ちていく肉体も。伴う悲しみも。亡くした瞬間の絶望も。アナタの中には、残らなくていいのよ」


 いつの間にか花嫁の手には、小ぶりの拳銃が握られている。白いウェディンググローブは、指先が赤黒く染まっていた。

 骸の山からは、嗅いだことのない悪臭が立ち込めている。甘ったるいような、それでいて、この場を離れたくなるような。これが、人の腐敗する過程で出るソレなのだろうか。

 骸の山をよく見ると、様々な死骸があった。胸を貫かれ、そのまま息絶えているもの。特に外傷はないが、腐敗が進んだためか、眼球が腐って飛び出しているもの。同じく外傷はないものの、やせ細って、腹部だけがはち切れんばかりに膨らんでいるもの。どろどろに溶け、他の死骸に混じって、原型がわからないもの。


「ね、醜いでしょう?」


 骸の山を指差して、花嫁が言った。


「会った事さえ、なかったことにできたらいいのに」


 赤い唇が呪詛を紡ぐ。


「関わった事実ごと、この記憶から消えてしまえばいい」


 こつん、とヒールの音がした。背後の気配が遠のいていく。


「そうやって、みんなが願ったのよ」


 後ろを見ると、祭壇の上に純白の花嫁姿。彼女はゆっくりと、小さな銃口を自らのこめかみに添える。


「世界が、死の病に侵されることも厭わずに」


 ――銃声。

 瞬間、つんざくような悲鳴が、空間を覆った。


 ◇◆◇


 目が覚めた瞬間、私は逃げるように部屋を飛び出した。

 とにかく街から、いや、世界から逃れたい、その一心だった。

 気を抜けば、夢の中の花嫁が、骸が、私を追ってくるような気がした。


(全然、綺麗なんかじゃない……!)


 ――私があのまま帰っていたら。

 ――あんたと同じように、生きていたかもしれないのね。


 私を現実へと引きずり出したのは、リカさんが最期に語っていた言葉だった。

 意識の覚醒はいつだって、眠る前の絶望を引き立たせる。リカさんが消えたという事実は、夢という隔たりを超えてなお、私の中に重く落ちていた。


(……え?)


 そうして私は気づく。リカさんの消失を。この胸に落ちる消失の重圧に、違和感を覚えた。ずっと長い間、忘れていた記憶。知らないと思いこまされていた感覚。これは、――この感覚は、本来ないものではないのか、と。


(……どうして私、彼女の記憶を……)


 街は尚、消滅へと転がり続けている。リカさんと同じように、夕焼け色の光を放って、少しずつ少しずつ、この世界の色を失っていく。

 彼女の面影は、この世界から完全に消えていた。彼女の消失の記憶は、確かに私の中に残っている。しかし、何故。何故私は、彼女の消失を覚えているのだろう。完全に消えた人間は、誰の記憶にも残らない。残るとすればそれはきっと、世界の巡りから外れた者。リカさんみたいに、誰かの死に引き込まれた者だけ。


(私も、消えるんだわ)


 改めて考えると、なんて今更なんだろう。きっと街に戻ってきた時点で、私の運命は決まっていた。リカさんも助けられず、何も残せず、ただ無情に消えていく。――あの人みたいに。


「……?」

 違和感。と同時に、既視感への不安。


「あのひと、って」


 誰だっただろう。

 思い出せない。

 歩くことにも疲れてしまって、私はその場に座り込んだ。

 すべて、諦めてしまおう。生きることも、誰かを想うことも。自分の記憶さえも。

 橙の夕焼けが、私の視界を染めている。世界の終りみたいな、夕焼け色。やがてはこの消失の朱に、私も蝕まれていくのだろう。


「まるで、世界が死んで逝くみたい」


 この言葉は、誰の言葉だったか。

 全てを諦めた脳で、思い起こしてみる。もう何もわからない。何もかも、忘れてしまった。

 自分の存在さえ、まっさらになっていく。


 全てが、虚無に還る。



 ――まるで世界が死んで逝くみたい。

 ――醜いでしょう?

 ――空しいくらいに綺麗だった。

 ――世界が死んでも、君を愛してる。

 ――結婚おめでとう。

 ――お気の毒に。

 ――忘れたくなんてない。


「……誰」


 ――可哀想に。結婚式の日にお婿さんが……

 ――こんな世の中とはいえ……

 ――こんな世の中で、まだ良かったのかもしれないわねえ……


 頭の中に、記憶にない言葉が蘇る。

 街の雑音(ノイズ)のように、むせ返る。

 それぞれが誰の言葉だったのか、もうわからない。ただ、台詞の応酬だけが、脳内で繰り返される。


 夢の中の花嫁が、誰かと一緒に歩いている。

 白いタキシードを着た、背の高い男性。

 世界はすでに死に蝕まれていて、式に集まる人々は僅かだった。

 自暴自棄。

 誰かがタキシードの男に、彼に、銃口を向ける。


 ――どうせ皆、忘れるんだ。人を殺したって罪にはならない。

 ――お願い、目を覚まして。

 ――血が、こんなにたくさん

 ――ねえ、お願い、貴方が世界のすべてなの!

 ――……君だけでも生きて。たとえ忘れてしまうとしても。

 ――まるで、世界が死んでいくみたい。

 

「……そっか」


 これが走馬灯、と呼ばれるものなのだろう。

 けれど今の世界では、単なるバグに過ぎない。消えたはずの記憶を、ただ無意味に再生し続ける。残っていないはずの誰かを、無意味に見せつける。私も誰かの走馬灯の一部になるんだろうか。世界が終わる、その時まで。誰かが消える度に、流れ続けるんだろうか。

 白の二人が赤に染まる前に、私の意識は、夕焼け色に飲み込まれた。

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