ウサギに贈る遺書

クソザコナメクジ

ウサギに贈る遺書

 私はきっと、もう疲れてしまったのだと思います。

 曖昧な言い方ですが、なんだか、自分の感情すらよくわからなくなってしまっているのです。こうして筆を走らせている間にも、様々な出来事が頭の中をぐるぐると廻って、自分の心臓を刃物で突き刺したくなるような衝動に駆られます。

 おかしな話ですね。「彼」は、私に伝える前に実行したのに。

 私はきっと、彼と同じ場所には立てていないのです。これだけ胸を抉られる思いをしても、まだ彼が味わった絶望には程遠いのです。

 これを書き終えた後、私がどんな行動に移るのかはまだわかりませんが、私がどんな選択をしても、世界にはさして影響を与えないでしょう。

 私の家族も、友人も、最初は私が齎(もたら)した空白に戸惑うかもしれませんが、大した損害ではありません。きっと一週間、長くたって一年もすれば私のいない生活に慣れて、各々に空白を埋めて、いつも通りの生活を送るでしょう。世界とは、そういうものです。


 嗚呼、けれど、彼はどうしたでしょうか。

 自分を殺して、私の心を殺した彼は。

 寂しいな、と、少しは泣いてくれたのでしょうか。

 ――今の、私のように。

(雪の降った、とある日。

 彼を見送った、三日後。――水城奏(みずしろかな))


 ◇◆◇


 彼は、女の私よりも華やかな子だった。うさぎみたいな紅い目と、雪の様に白い髪が印象的な、何処か浮世離れした雰囲気の。私が今までに見てきたどの女の子よりも綺麗で、それでいて、私が出会ったどの男の子よりも優しい、物語に出てきそうな、イヤな言い方をすればでき過ぎた子供だった。


 彼と初めて出会ったのは、紅葉が散って、山の色が消えたころ。おつかいに出かけた後、帰り道がわからなくなってしまった私は、大きな御屋敷に迷い込んでしまった。辺りも暗くなって、気が付けば、見た事もない家の庭――知らない景色の中、泣きそうになっていた私に声をかけてくれたのが、彼だった。


「見慣れない顔だ。使用人、じゃないよね」

 私よりも少し背の高い彼は、少しだけ身をかがめて、穏やかな声で語りかけてきた。


「どうやって此処に来たの、誰かに連れて来られたのかい? ――ああ、怖がらないで。僕はユキト。ゆきうさぎ、って書いて、ユキトって読むんだ。どうだい、可愛い名前だろ?」

 一瞬だけ、近づいてきた彼の紅い瞳が怖いと思ったけれど、彼が言う「ウサギ」という単語がそれをかき消した。


 今思うと彼は、私が一瞬抱いた感情を読みとって、それであんな事を言ったのかもしれない。彼はいつだって、人の気持ちに敏感だった。

 彼は私と、私のお父さんの名前を聞くと、奥にいたらしい人達を呼んで、何かを伝えた様だった。そうして黙ってその姿を見つめている私を振り返って、笑う。


「さて、君をお家に送る準備が整うまで、一緒にお話してようか。良いお茶菓子が入った所だから、ちょうど良かった」


 それは嬉しそうに、やわらかい声色で。


◇◆◇


「奏でる、と書いてカナか。綺麗な名前だね。羨ましいな」

 水城奏。その人に名を名乗ると、彼はかみ締めるようにして私の名前を繰り返し、口ずさんだ。何度も紡がれる響きに、私はなんだか恥ずかしくなって、まっすぐに私を見据えてくる視線から逃れる様に、殺風景な部屋の景色へと目を泳がせる。


 俺の部屋で、ゆっくりしようよ――目の前のその人にそう誘われるままに足を踏み入れた部屋は、とても無機質で、なんだか寂しい場所だった。

 部屋の奥に置かれた机と、壁に飾られた掛け軸。墨で模様が描かれた押し入れ――たったそれだけの、色のない部屋。彼の纏う着物は豪華で美しいのに、彼の部屋だと言われたそこは、想像していたよりもはるかに質素なものだった。小さな丸窓から射し込む光が無ければ、もっともっと暗くなっていた事だろうと思う。彼は本当に此処に住んでいるのかと、疑わしくなる程に。


「ここ、雪兎さんのお部屋、なんですか?」

「雪兎、でいいよ。敬語も要らない。歳は近いだろうし。……うん、そうだね、俺の部屋だよ。すこし広すぎる気もするけど」

「……そうなんだ」

「殺風景だって、そう思うかい?」

 全てを見透かす様な問い。私は少し考えてから、小さく頷く。


「正直で結構。特別に、君には理由を教えてあげよう」

「理由?」

「そう。と言っても、俺が話せる事って少ないから、そう面白い話もできないんだけどね。でも一番の理由は……まあ、ここが嫌いだからかな」

「嫌い?」

「そう。色々と事情があってね。いつでも出ていけるように、物を増やさない様にしてるのさ……お食べ」

 差し出されたお盆の上には、白い兎が二つ。私はその一つを手にとって、口に含んだ。

 甘美な味わいと共にうさぎの首が欠けて、ぽっかりと赤黒い穴が開く。顔がなくなったそれは、もう別物みたいだった。


「……おいしい」

「そ? 良かった。実はそれ、俺が作ったんだ。良いお茶菓子って自分で言っちゃったけど、口にあったなら良かったよ」

 彼の言葉は、私にとって衝撃的だった。かわいらしい装飾のされたお菓子と言うのは、それまで、お店にしかないものだと思っていたからだ。まさか自分とそんなに歳も違わない彼がそれを作り出せるなんて、想像もつかない。甘いものだって、この国では高価だ。私の家じゃ、とてもそこまでのお金はない。


「貴方は、お菓子屋さんなの?」


 興奮も醒めぬままに問いかけると、雪兎はひどく驚いたようだった。目を見開いて、きょとんとした顔でこちらを見る。


「お菓子屋? 俺が? そう見える?」

「……凄く、美味しいお菓子だから」

「ふ、ふふっ……あはははは! そっか、そう来たか、カナは面白いね、ふふ……!」


 雪兎の肩が小刻みに震えだしたかと思うと、心底おかしそうな笑い声が部屋を埋め尽くす。私は何を笑われているのかわからず、ただ、首を傾げるしかない。綺麗なお菓子といえばお店屋、という発想の、何がおかしかったんだろうか。


「ああでも、確かに。外の人間からしたら、そういう考えになるのかもしれない。こんな所に閉じこもってると、ついつい忘れちゃってさ。笑って悪かったよ」


 よくわからない事を言いながら、彼は私に謝ってくる。よくわからないままに頷いたけれど、内心では疑問符がたくさん浮かび上がっていた。


「残念だけど、もう時間だ。良かったらまたおいで。次は外の事、教えてよ」

 そうしてよくわからないまま、その日は別れの時間がやって来た。

 家までは、彼が手配したらしい使用人が送ってくれた。お土産のお菓子まで持たせて、雪兎は私を送り出してくれた。


 その日、帰って包みを開けると、彼の家までの地図が忍ばせてあった。



 ◇◆◇


 それから私達が友達と呼べるほどに仲良くなるまで、然程時間は要さなかった。私はあれから、毎日のように彼に会いに行ったし、彼も毎日、私を快く出迎えてくれる。呼び名だって、最初は互いに探り合っている節があったけれど、今はもうどちらも呼び捨てだ。カナ、と、事あるごとに彼は私の名を呼ぶし、私も彼の事を雪兎と呼んだ。


「ね、次は外の物も持って来てよ。紅葉とか、道に咲いてる花とか、そんなでいい。此処には無いものが見たい」


 彼がそう私に要求したのは、出会って何度日が巡った頃だったろうか。

 外の物が珍しいのだと、彼は私に笑いかけた。高級なものよりも、珍しいと言われているものよりも、ありふれたものが良いのだと。物を増やさない主義だと言っていたくせに、彼は私の持っていく物だけは大事そうに部屋に飾ったりして、少し照れくさく感じてしまう。

 紅葉は押し花に、両手いっぱいの花の束は干して鑑賞用に、道端に落ちていた木の枝には花の飾りをつけて。私が雪兎の部屋にお邪魔する度、殺風景な部屋に色が加わる。そしてそのお礼にと、毎回、手作りのお菓子をくれた。

 雪兎の出してくれるお菓子は、毎日変わった。恐らく全て彼の手作りだろうけど、全て美味しくて、真新しかった。彼にはお菓子作りの才能があると思う。

 店を開けば、それなりに客が入るのではないだろうか。そう思って勧めた事もあったが、彼はまた、何が可笑しいのか笑って、「それも良いかもね」と言った。


「雪兎って、普段は此処で何をしてるの?」

「何って、何かな。そこそこ普通に食べて、寝て、生活してるけど?」


 勇気を振り絞って、前々から気になっていた事を尋ねたら、上手くかわされてしまった。言いたくない事をしているんだろうか。

 それとも、本当に生活しているだけで、何もしていないのか。彼は嘘が上手いから、どちらだか判断が付かない。


「……そんな顔しないでよ、カナ。わかったから。少しだけ教えてあげる」

「ほんと?」

「本当、本当。でも、何て言ったら良いんだろうね。カナみたいな年頃の子には。……大人を喜ばせるお仕事とか?」


 私みたいな年頃って、自分だってそんなに変わらないくせに。珍しく言葉に困っている彼の姿を、そこか冷めた気持ちで見つめる。


「大人を喜ばせるって、お手伝い?」

「あー……うん、そうとも言えるかな。たぶん、カナが言ってるお手伝いとは少し意味が違うけど。大人になったらわかるよ」

「ふうん。楽しい?」

「楽しいか楽しくないかって聞かれると、微妙だな。最初は本当に嫌だったけどね。慣れちゃったら、何も感じなくなったよ」


 曖昧な答え、私の知らない世界。

 ふと、彼の顔が、いつもより強張っている事に気が付いた。笑顔がなんだかぎこちない。

 それ以上追及するのは、もうやめにした。これ以上聞いてしまうと、何かが変わってしまう気がして。彼は彼、私は私で、それぞれの生活がある。たまにこうやってお菓子を食べられるだけでも、幸せだと思いたい。


「満足した?」

「うん。無理に聞いちゃってごめんなさい」

「いいや。別に構わないさ……ああ、もうこんな時間か。ごめん、カナ。今日はこの後、用が入ってるんだ。またおいで」

「わかった。またね、雪兎。お邪魔しました」


 今日も、私たちの時間は終わりを告げる。私は彼の言う「用」が少し気になったけれど、やっぱり、深く追求する事は出来なかった。

 私を送り出す彼の瞳が、少し翳っているように見えたのは、気のせいだと言い聞かせた。


 それからしばらく、私は雪兎の元へ行く機会が極端に減った。寺子屋の勉強が難しくなり始めたのと、わずかだが、一緒に遊ぶ友達ができたからだった。

 用がある、といって帰された日から、一週間が経った頃。ようやく時間ができて、雪兎のもとへと足を運ぶことができた。


「カナ? カナ、だよね? なんだか久しぶりだ」


 いつものように窓から庭を眺めていたらしい彼は、私の姿を見つけると、なぜだか安堵したように表情を和らげた。私は、私を見つける前の彼の表情が、とても強張っていて恐ろしく見えたので、少し戸惑ってしまう。

 入りなよ、と、彼は言う。私は辺りを見回して、一週間ぶりに彼のいるお屋敷の玄関をくぐった。大きくて仰々しい、落ち着かない場所。彼の部屋は割りと好きなのだけれど、この、人の目を惹きつけるために作られたような入り口は、あまり好きではない。


 見慣れた襖を開けると、部屋の中央に、お行儀よく座る雪兎の姿があった。今日の着物の色は、水色。限りなく白に近くて、まるで、死んだ人が着る死装束みたい。


「最近来てくれなかったから、もう会えないのかと思った。外にお友達でもできた?」


 お茶の用意をしながら、拗ねたみたいに彼は言う。私が首を縦に振ると、何故だか、少し悲しそうな目をした。


「……そう。それは良い事だね」

 一言だけ呟いて、お茶を点て始める。

 今日のお茶は、雪兎の手作りらしい。珍しいな、と思った。

 彼はいつも、お菓子は作るけれど、お茶を点てることはあまりしない。苦手だからしないのかと思っていたけれど、手付きを見るに、そうでもないみたいだ。すごく手馴れているように見えるし、色も綺麗。お客さんに出しても恥ずかしくないような、見事な腕前だと思う。


「ちょっと寂しかったな。でも、カナにも生活があるものね。仕方ないか」


 お茶を点てる音と、彼の穏やかな声。胸が締め付けられるような感覚がして、慌てて口を開く。


「ごめんね。お勉強、ちょっと難しくて」

「ああ、寺子屋? 良かったら俺が教えようか。一応、一通りは覚えてると思うから」

「本当? あ、でもね、私頭悪いから、大変かも」

「そう? カナは賢い子に見えるけど。……でも、カナは勉強なんかしなくてもいいと思うな」

「どうして?」

「だってカナは……俺が、……る……から」

「え? ごめんね、もう一回言って欲しいな」


 肝心な部分が、聞こえなかった。その声を拾おうと身を乗り出したけど、彼はただ、自らの人差し指を唇にあてて微笑むだけだった。


「はい、できた。カナの口に合うかな」


 畳の上に、少し大きめの湯のみが置かれた。手にとって匂いをかぐと、慣れない香りがする。何か特別なお茶なのかもしれない。私は雪兎の言葉の続きが気になったけど、お茶が冷めるのも嫌だったので、大人しく口をつける。


「これ、苦くない……甘い」

「そ? まあ、俺は慣れてるからね。上手い人が点てると、お茶は甘くなるんだよ」


 雪兎は得意げに語りながら、一緒に小さなお菓子を差し出してきた。白くて丸い餡に、桃色のウサギの絵が描かれている。今まで彼が出したどのお菓子よりも綺麗で、美味しそうなお菓子だった。


「お菓子の腕、上がったね。お茶もおいしい。私が来られなかった間、練習してたの?」

「抹茶のほうは元々だよ。仕事でよく点てるんだ。お菓子は……作ってたかな。一人で退屈だったし、寂しかったし。そっちは練習してたよ」


 寂しかった。その一言が嬉しいような、けれど少し怖いような。彼がその言葉を口にする度、胸がざわざわと騒ぐ。これを胸騒ぎ、と呼ぶのだろうか。けれど、どうして?

 彼の視線から逃れるように――初めて会ったときと同じ――部屋の景色へと目を泳がせると、ふと、窓から蝶が入ってくるのが見えた。

 この季節に珍しい、と最初は思ったけれど、寒さから逃れたくて、ここに迷い込んできてしまったのかもしれない。


「ねえ、雪兎。珍しいね、この季節に」


 私が窓のほうを指差すと、彼は促されるままにその先を見て、そうして気怠げに息を吐いた。

 赤い瞳が、わずかに濁ったように見えた。


「待ってて、カナ。すぐ終わらせるから」


 彼はそう言って立ち上がって、窓のほうへと歩んで行った。優しい雪兎のことだから、命が絶えるまでは傍に置いてあげるんだろうか。そう思ったけれど、彼の行動は、私にとっては予想を超えるものだった。


 彼は、静かに蝶へと手を伸ばして、揺れる翅を指で捕らえる。

 次の瞬間、ぐしゃり、と、美しくも儚い翅は、形を失った。


「ゆき、と……?」


 目の前の光景が、信じられなかった。

 目を凝らしてみると、雪兎の手のひらには、潰れた蝶の残骸がこびりついていた。千切れた翅ははらりと宙を待って、畳の上へとひれ伏す。暖を求めていたであろうその生命は、あっけなく、一瞬でその未来を奪われた。


「カナ。冬の虫はね、蝶に限らず、長くは生きられないのさ」


 なんでもない事のように、彼は告げる。


「冬場は、花の蜜もないからね。飢えて死ぬのがオチだ。それならいっそ、ここで楽にしてやったほうが慈悲ってもんさ。いいかい、中途半端に施しをするほうが残酷なんだよ」


 湿った鱗粉を軽く払いのけながら、夕暮れの光を背に、彼は笑う。

 確かに虫の寿命は少ないというし、季節からして、もう命は長くないだろう。けれど、私には彼の言っていることがよく理解できない。あの蝶はきっと、死ぬ間際に、どこか暖かいところで眠りたかったんじゃないだろうか。決して、死に場所を求めてここに来たわけではないだろうに。


「……あとで掃除、しなきゃね」


 忌々しげに蝶の残骸を見下ろす彼の瞳から、狂気を感じた。何かがおかしい。彼は、こんな風に、生命をぞんざいに扱う人ではなかった筈だ。

 私がここに迷い込んだ時だって、家まで送ってくれたのに。私が来られなかった一週間。その間に、何があったというのだろう。空白の一週間で、確実に彼の心は、何かが欠けてしまっている。


「雪兎、何かあったの?」

「どうしたんだい。いきなりそんな事聞いて」

「だって、今日の雪兎……おかしいよ」

「じゃあ君は、もう動けず行き場のない蝶を、捕まえて飼殺しにすることが正しいと思うの?」

「え……」


 自分でも声が震えているのがわかる。初めて、彼を怖いと感じた。

 そんな私を見て、彼は我に返ったように目を見開いて、それから取り繕うように視線を泳がせた。


「ごめん、忘れて。なんでもないよ」

「……雪兎? どうしたの?」

「なんでもない……ほら、お菓子。せっかく作ったんだから食べてよ。カナのために作ったんだから。ね?」


 幼子をあやすように、彼が目線を合わせてくる。

 ――どうしてだろう、食べてはいけない気がした。食べてしまったら、想像もつかない恐ろしいことが起こるような、そんな予感がした。


「食べて」

「ゆきと……」

「食べて」

「っ!」

「ほら、食べて?」

「ゆきと、なんで――」

「食べてよ、カナ」


 私が紡ごうとする全ての言葉を遮って、雪兎はお菓子を差し出す。作られた仮面のような笑顔が威圧的にこちらを見下ろして、有無を言わさない雰囲気を創り出している。


「……っ!」

 限界だった。私は本能的な恐怖から、彼が押し付けてくるお菓子を手に取る。美味しそうだけど、少し怖い、ウサギのお菓子。

 思い切って口に含むと、あまりの甘さに吐き気がする。まるで、中に潜んでいるものを誤魔化そうとでも言うような、強烈な甘さ。顔をしかめると、彼の手のひらが口を塞いだ。死んだ蝶の匂いが鼻腔をついて、咳き込みそうになるけれど、口は彼に塞がれてしまった。飲み込むしか術はなく、私は無理やりそれを喉の奥へと押し込んだ。

 甘い、甘い、苦い、甘い、甘い、甘い――。


「食べたね、良い子だ」

 怖い。


 恐怖か、飲み下した何かのせいか。

 突如、部屋の景色が揺れる。

 見えるのは、彼の顔だけ。

 聞こえるのは、彼の声だけ。


「どうして……」

 呟きながら、でも心の中ではやっぱり、と思った。

 意識が薄れる。彼の声が降ってくる。


「昨日、蛙を殺したんだ。それからはもう、わけがわからなくなった」


 ぽつり、ぽつりと、彼は言の葉を落とす。


「狂っていると、恨めば良いさ。どうせ後戻りなんかできやしない。させやしない。あの醜い蛙も同じだ」


 彼が、私の知らない世界の話を始めた。普段の、私がいない時の彼の話。何処かで目を逸らし続け、彼が話題に出すことを避け続けてきた、彼の日常。

 でも、わからない。私は彼の事を何も知らない。だから、彼の世界の話をされたって、何も言ってあげられない。


「大嫌いな常連サンがさ、俺を身請けするって言うんだよ。見世物にされるのが可哀想だからって。本当は、自分が眺めていたい癖にね。俺の容姿がさぞ珍しいんだろう、だから人は嫌いなんだ」


 怒りを抑えた様な、震えた声。


「ああでも、カナは別だよ。カナは俺の目や髪を怖がらないし、好奇の目で見たりもしない。それに、何も躊躇わずに俺を認めてくれた。他の事は考えず、純粋に俺を評価してくれたんだ。支えだったんだよ。だから、カナを連れていこうって、そう思った」


 視界が霞む。彼の顔さえもうよく見えなくて、ぼやけた景色と声だけが、私に命の危機を知らせてくれる。

 彼が懐から、何か――きっと、短刀か何かだろう――を取り出した時、私の中の恐怖は、一斉に膨れ上がった。


「抵抗する君を殺める勇気は、俺には無かったんだ。だから、お菓子に薬を混ぜちゃった。でも、苦しくない筈だよ。そういう薬を選んであげたから……一緒に逝こうか」


 ――空気が震える。


「……やっと、居場所を決められたと思ったのに」


 泣きそうな雪兎の声。


「ねえ、君もそう思うだろ。……カナ」


 その言葉を最後に、何か気持ちの悪い音がしたかと思うと、鉄臭い、生ぬるい液体が私の顔を覆った。

 水音交じりの咳込む様な音、何かを吐きだす音、苦しそうな嗚咽。

 私の聴覚が機能しなくなったのか、部屋に動くものがなくなったのか。舞い降りた静寂の中、私は意識を手放した。


 そうしてそれを機に、憧れだった兎は、この世から消えた。

 私だけを、残して。


 ◇◆◇


 俺はもう、疲れてしまったのだと思う。恐らく、これは最後の俺の言葉、遺書となるだろう。

 俺の生は、生まれた時から呪われていた。紅い瞳も銀の髪も、皆が妖憑きだと言って、忌み嫌う。

 陽の光の下に出れば目が焼きつくように痛んで立っていられなくなるし、瞳の赤は血を連想させる。考えてみれば、そんな解釈だって無理もない。

 実の親でさえも不気味がって俺を売ったのだから、俺の居場所なんて、この揚屋くらいしか無かったんだろう。見世物にされ、弄ばれる事が金になる、腐りきったこの場所しか。

 カナだけが心の支えだった。ある種の依存かもしれない。昼間、カナとお菓子を食べる時間だけが、唯一安らぐ時間だった。

 あの気持ちの悪い、蛙の様な客が俺を買うと言いだした時、真っ先にカナの事が脳裏によぎった。此処を離れる事になったら、もうカナに会えなくなる。たった一つの支えさえも奪われるのかと思うと、気が狂いそうだった。

 だって、初めてだったんだ。あんなにも純粋に、俺を認めてくれる子は。身体を開かなくたって俺を慕ってくれる子は、今まで誰一人として居なかったんだ。……嬉しかった。

 ここ数日、カナが俺のところへ来てくれない。もう飽きてしまったんだろうか、もう来ないんだろうか。もしそうなら、俺はどうしたら良いんだろう。

 カナに別れを告げられぬまま、ここで一人で自害する事になるんだろうか。

 そう思うと、とてつもなく寂しくなる。彼女の前では大人ぶっているが、俺も人間で、子供だったんだなと実感する。そうして世界が、また憎くなる。

 彼女には未来があるが、俺にはない。その事実が辛い。きっと彼女は、俺のことなんてすぐ忘れてしまうだろうから……でももしそうなったのなら、そちらの方が彼女にとっては良いのかもしれない。

 俺が無理やりにでもあの子を連れて行けば、そんな杞憂も、泡へと還るわけだけれど。

 これは賭けだ。彼女が此処へ来て、俺に殺されるか。それとも、俺の末路を知らないまま、忘れていくのか。


 愛しいカナへ。万が一生きているなら、俺の事は忘れてくれていいよ。きっと君は、それで幸せになれるだろう。

 そう言いながら呪いの様に、俺の記憶を一生、背負い続けてくれたらとも思う。恐ろしい事に、きっとこれが俺の本心だ。

 もし君が後者を選ぶなら、この手紙はきっと、文字通り呪いのように見えるのだろうね。でも、それでもいいよ。

 カナが俺を選んでくれるなら。俺の記憶と一緒に生きてくれるなら。

 好きだったよ、カナ。

(蛙を殺して、君からまた遠くなった日。

       もうじき溶けてなくなる、雪兎より)


 ◇◆◇


 いつも彼が出迎えてくれた窓には、今は誰も居ない。

 私は、まだおぼつかない足取りで、閉め切られた窓へと近づく。雪兎、と、こっそり声をかけてみたけれど、答える声は何処にもない。

 白い障子のはられた窓には、まだ血の跡がこびりついている。あの、粉々に砕けた哀れな蝶はどうなっただろうか。今もまだ、あの暗い部屋に、その肢体を横たえているのだろうか。ぼんやりと考えを巡らせて、私は静かに泣いた。

 

 目が覚めると、お医者様のお家だった。

 このお家の大人の人達が、私達の異変に気づいて、慌てて呼んでくれたらしい。


 雪兎は辛うじて息はあったけれど、もう手遅れだった。短刀でお腹を切って、血がいっぱい出て死んでしまったのだと、誰かが教えてくれた。

 私はお菓子を半分しか食べなかったから、生き残ったみたいだった。それでも、お医者様が来るのが遅かったら危なかったらしい。


 雪兎は最後、私の懐に遺書を忍ばせていた。気が付かなかったけど、多分、私が動けなくなった後、こっそり入れて置いたんだろう。

 雪兎の部屋の押し入れには、何処かのお金持ちのおじさんの身体が押し込められていたらしい。私が来る前の日にお腹を開かれて、腸を引きずり出されて、死んだという話だ。これは寝込んでいた時、外から聞こえて来た会話だから、本当かどうかはわからない。けれどもし本当だったら、あの時、雪兎はどんな気持ちで私をあの部屋へ迎えたんだろう。

 

 ――雪兎は、本当に私を殺そうとしたんだろうか。

 ――本当はまだ、迷っていたんじゃないだろうか。


 そうでなかったらあの時、おじさんを殺したみたいに、私の腸を引きずりだすことだってできた筈だ。それをしないで自分のお腹を刺したのは、本当はまだ、私を殺すのが怖かったからじゃないだろうか。

 真実はわからない。ただ一つわかるのは、彼が死んで、私が生き残ってしまったと言う事だけ。

 

 雪兎が使っていたこの部屋は、もうすぐ私の部屋になる。

 淡く消え去った雪兎の空白は、皮肉にも、私が埋める事になった。彼の真実と絶望を知った私は、もう家へは戻して貰えないらしい。この揚屋で、雪兎と同じ様に、見世物にされて生きていくのだという。


 世間的には、私は死んだ事になった。水城奏という少女は、町外れの遊郭に迷いこみ、気の狂った男娼に殺された。それが世界に用意された真実だ。

 部屋がきれいになって、彼を見送ったら、遺書を書こうと思う。彼の様に不条理を受け入れられる程、私は強くはない。彼を背負う余裕も、この胸にはもう残っていない。


 これが私の結末。彼と私が辿りついた末路。誰にも宛てられない遺書を抱いて、私はこの地に還ろうと思う。彼へ贈る、最期の手紙を抱いて。

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