百姓ハ可愛キ事也
結城藍人
第1話 老僧
「似ている……」
その顔が、己にそっくりであったからだ。
「御坊、名は何と申す?
「これは、お殿様でございましたか。拙僧は
問うた相手がこの地を治める領主と聞いても、礼節は保ちながら臆した様子もなく答える老僧、随風。
「随風な。宗旨は?」
「天台にございます」
「天台……よい度胸をしておる」
近江坂本は天台宗の総本山、
「
「よく存じておるな」
光秀は秘かに舌を巻いた。確かに彼の主君、前
そして、信長を「前右府」と呼んだ。それはすなわち信長が二年前に辞官したことも知っているということに他ならない。叡山はもとより朝廷との縁が深いのだから、天台の僧ならその程度は知っていても不思議はないが、それだけの伝手があるということでもある。この老僧、凡百の
「御坊、儂の城に参らぬか? ひとつ頼みがあるでな」
「お殿様のお誘いとあらば、お断りはできますまい」
随風を坂本城に連れ帰った光秀は、腹心である家老、明智
「儂の影になってはくれぬか」
顔のみならず、背格好もよく似ていたのだ。影武者として最適である。
「殿、この者、信用できるのですかな?」
利三は疑いの眼で随風を見ている。薄汚い托鉢僧、それも天台宗と聞けば疑うのも当然だろう。
「それは、今後の働きで見ていけばよろしいでしょう。殿に近侍するのです。
秀満の方は賛成した。影武者として用いるなら、主君の身近、すなわち最も警備が厳重な所に常に居続けるのだ。外部との連絡を取ることは困難であり、光秀を狙うような怪しい動きを見せたならば、その時点で切ってもよいのだ。そこで老僧一人に主君を討たせるほど明智家の近習は甘くはない。毒味役もいるので毒を盛ることも難しいだろう。
危険性以上に、光秀そっくりという身体的特徴の方が役に立つ。そこを割り切って使えばよい。光秀の現実主義は家臣にも浸透しており、中でも一番弟子と言えるのが女婿でもある秀満である。
「であろう。返答は
「左様ですな……」
光秀の問いに、随風は即答せず、少し考えてから口を開く。
「もとより、断れる立場でないことは承知しております。これより誠心誠意お仕えいたしましょう。ですが、愚僧の働きをお認めいただけましたならば、ひとつだけ叶えていただきたい事柄がございます」
「貴様!」
条件闘争をしかけてきた随風に、いきり立つ利三。だが、それを制したのは光秀本人だった。
「よい。儂に叶えられることならば考慮しよう。それで、何が望みじゃ?」
「今とは申しませぬ。いつか上様の勘気を解いて
信長を「上様」と呼ぶ。それは信長の家臣である光秀に本気で仕える気があるということを表している。そのことに気付いた光秀はかすかに口の端に笑みを浮かべながら答える。
「すべては上様のお気持ち次第じゃ。確約はできぬぞ。じゃが、働きかけだけはしてみよう。それから、儂の影になるということは、還俗するということじゃが、よいのか?」
叡山再興を目指すほど信心に励んでいる身で還俗してもよいのか、と問う。僧形でなくなり、光秀と同じ生臭物を食す必要がある。日々の
「形だけ出家するお侍もおりましょう。ならば、逆に姿形だけ俗世に戻っても心に御仏の教えを守っている者がいてもよいではありませんか。それで叡山の再興がなるなら、これも
その言葉を聞いた光秀の口の端の形が、微笑から皮肉げな笑みに変わる。
「方便、な。これからは
「武略、でございますか?」
光秀の言葉の意味をつかめず、問い返す随風。
「左様じゃ。仏の嘘を方便と言うなら、武士の嘘は武略と言うのでな」
そこまでは皮肉げな口調の光秀であったが、そこでフッと自嘲するように笑って、ぼそりと呟く。
「そう考えると、土民や百姓は何と可愛いことか」
そして、思わず絶句した随風に「これからは宜しく頼むぞ」と声をかけて座を立つのであった。
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