マドウ国

白発中

プロローグ

 この街を「霧の都」などと言い出したのはいったいどこの誰なのだろうか。一見ミステリアスな雰囲気を醸し出す字面ではあるが、蓋を開けてみれば蒸気機関が吐き出す煤煙がそこら中を闊歩する清潔CleanのCの字もないような街だ。「蓋を開ける」という表現を使ってみたが、空を見上げれば工場の煙がこのロンドンという街に蓋をしているよう。霧の都というより雲の都だ。

 三年前にようやく完成し、街の新しいシンボルとなったタワーブリッジも、この距離からでは霞んでしまって眺めることが出来ない。もっとも、この橋でさえも跳開部を稼働させるのに煙の排出を要しているので、この霞がロンドンの工場たちによるものなのかタワーブリッジ自身によるものなのかは定かではない。

 蒸気機関スチームエンジン。こいつの登場で世界は大きく変わった。

 見ての通りロンドンは煙に覆われた。

 機械という仕事の効率化を図る道具が次々と登場した。

 にもかかわらず、どういうわけか労働環境は劣悪になった。

 ヨーロッパの列強たちはこれを積んだ鋼鉄の船を連れてアジアやアフリカを蹂躙し始めた。具体的に例を挙げるとすれば、ぼくたち英国人がインド亜大陸をもはや自国のように歩けることや、元植民地アメリカの黒い蒸気船が、国交断絶を決め込んでいた極東のエドという名前の政府を脅して開国にまで至らせた──英国もこの件についてはかなり深いところまで関わっているのだが──ことや、アフリカにかつてあったであろう長い歴史とともに複雑さを身に付けた国境線が、ここわずか十数年の間に単純明快な直線になってしまったことなど、これに関しては列挙するのに時間がかかりすぎる。

 そんな歴史の煙に包まれた世界の中心を、ぼくはトランクケース型の携帯式解析機関ポータブルアナリティカルエンジンを片手に歩いていた。世界の中心というのはここロンドンのことで、国力や軍事力などの総合力はもちろん、蒸気機関技術、解析機関を軸とする情報技術は、自国贔屓とかそういう要素を一切除いても英国が群を抜いて優れている。軍事面で英国と拮抗し、「グレートゲーム」などと呼ばれる政治抗争を繰り広げているロシア帝国ですらこの分野はなおざりだ。

 以上のことを踏まえて、世界の中心は大英帝国、首都ロンドンであると一般的には考えられている。というより、英国が世界中にその版図を広げているうちになってしまったと言ったほうが正しい。

 国会議事堂ウェストミンスターを通り過ぎ、この地区の中では、というかどこにあっても異彩を放つであろうガラス張りの構造物が姿を現す。煤煙が支配する雲の切れ間からわずかに降り注ぐ薄明光線レンブラントレイを反射し、自身の存在を主張している。第二の水晶宮セカンドクリスタルパレスとも呼ばれるこの建物こそ、ぼくの目的地であり、出勤先であり、英国情報執行局と呼ばれる政府機関の庁舎だ。

 中に入り、懐から身分証明用パンチカードを取り出す。これをエントランスに並んでいるカードリーダに通し、地下に備えられた中枢解析機関マスターエンジンがあらかじめ保存された個人判別パンチパターンと照合、マッチすればようやく通行の許可が与えられるというわけだ。

 確かバベッジとかいう名前の数学者が解析機関という機械式汎用計算機を開発してからというもの、蒸気機関と同じようにいつの間にかぼくたちの日常に溶け込んでいた。古着屋の残り在庫。ストリートに並ぶ広告の掲示内容。王立取引所ロイヤルエクスチェンジの価格変動。ぼくの身分情報。何もかもがパンチカードの穿孔ホールに落とし込まれている。

 そして、解析機関が決定的に変えたものが一つある。魔導だ。

 かつて、この地球上には魔導と呼ばれる、人智を越え、発見されているあらゆる物理法則を用いても説明できない力が存在した。厳密には呼称的に「魔導」というものが既に存在しないという意味であって、今でも「導力どうりょく」という名前でその力は存在している。

 具体的にどういうことか説明すると、この導力を発生させるには「魔法陣」という特定の幾何学模様を「念じて」描画する必要があるのだが、この模様パターンがどのようなメカニズムで生成されるのか証明されておらず、魔法陣の数も一〇〇種類に満たないほどであった。ところが解析機関の登場でこのパターンのシミュレーションが容易に可能となり、また魔法陣生成に際してとある粒子が関わっていることが分かり、魔導の研究は爆発的に進んだ。

 結果、魔導は人智の及ぶところとなり、Magicという呼称は取り除かれ、導力Leading Powerという新しい言葉が出現した。粒子には「導子Leadron」という名前が付けられ、魔法陣も「導子回路どうしかいろ」という名前に置き換えられた。

 こうしてみると、魔導のすべてが人の手により暴かれたように見えるが、実際にはなぜ念じれば回路が出現するのかについては一切分かっていないし、この導子という粒子がなぜ自在に、回路によってあらゆる事象に変化するのかについてもまるで見当がついていない。あまりにもこの力の起源が理解できないものだから、学者たちは三〇年前に「言語の起源」という疑問に対して行ったのと同様に、このことについての議論を一切禁じて、魔導のことについてすべて理解した気になった、というのが実態だ。

 だが、解析機関による導力の解析が始まってから、導子回路の種類は数十万を超え、民間から軍事まで幅広い層で利用されているところを見ると、本当に魔導を完全に理解したような錯覚に陥ってしまう。

 この現代社会は三つの力によって支えられている。蒸気機関、解析機関、そして導力だ。もはやこれら無くしては世界経済は回らない。そして、これらが社会に浸透しているということは、それを用いた犯罪も当然だが増加する。

 ぼくの組織はそんな犯罪たちに向き合う組織だ。解析機関が吐き出す穿孔情報をもとに、社会が脅かされるのを防ぐための組織だ。英国政府はこのような時代の到来を見越していたのだろう。

 通行の許しを中枢解析機関マスターエンジンから得て、今日もぼくはいつもの場所へ歩を進める。すべては女王陛下とその臣民のために。太陽の沈まぬ国、大英帝国のために。

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