ドラゴンブラッド・クロニクル
上野遊
第1話 戴冠式の凶行
城の正門から堂々と出るのは初めてかもしれないな、と彼は思った。
続いて、こんな機会は二度とないだろうな、と思った。
何も門を通ることを禁じられているわけではない。そもそも、この国で彼の行動を禁止できるものなど一人もいなかった。しかし実際問題として、彼が昼日中に徒歩で門を抜けたりしようものなら、たちまち門番に足止めされ、衛士に連れ戻されることになる。彼は、そういう立場にいる。
彼の名は、ガム・セルダン二世。
当時二十歳になったばかり。この竜王国の第一王位継承権者。上にも下にも兄弟はなく、事実上唯一の、王家を継ぐ者である。
王族と言えば絶対権力者のように思われがちだが、些細な問題に関しては、民衆よりもはるかに不便な境遇を強いられている。例えば、ガムが変装し、こっそり寝所を抜け出して下町で一杯引っかけたとしよう。翌朝の新聞にはたちまち、飲み屋の名前、酒の種類はおろか、つまみに混じっている小魚の干物だけを残したことまで書かれてしまう。ガムは干物が苦手だった。
このようなことは実際に幾度かあった。新聞は「ガム王子」とは書かなかったが、読めば誰のことかは分かるような文章で、王子の夜遊びを報じたのである。
これからはそう言うことも出来なくなるな、と彼は思った。
本日正午を持って、ガムは竜王国の五代目国王となる。これまで以上の責任を背負う立場になれば、衛士を丸め込んで城下に出かけるのが不可能になるのは、言うまでもない。
さらばそれなりに自由だった日々よ――と嘆く気持ちはほとんどない。
ゆっくりと正門が開く。同時に跳ね橋が降りる。ぎりぎりときしむ鎖の音をかき消して、民衆の大歓声が聞こえてきた。ガムは自分が王になることを実感した。
「陛下」
門番が、ガムの歩を促した。
「まだ早いよ」
小声で返して、ガムは跳ね橋に足をかけた。あつらえたばかりの革靴が、跳ね橋を踏む。これが王家だ、と王子は思った。荘厳たる王宮でも無敗を誇る軍でもなく、民衆と政治の場をつなぐこの橋こそ、王家そのものに思える。
跳ね橋を渡り、待っていた無蓋馬車に登る。左右に笑みを送ってから、王子は前方を見た。一キロにも及ぶ、王都の凱旋街道。四頭引きの戦車が四列に並んでもまだ余裕のあるはずの通りが、今日はひしめく民衆のおかげで狭く見える。割れんばかりの歓声に負けないように、楽団が行進曲のボリュームを上げる。
侍従を全て乗せると、馬車はゆっくりと動き出した。
王子のすぐ後ろに控えていた、銀髪の女性がちらりと手首を見た。視線を御者に向けて言う。
「予定より三分遅れていますね。……急ぎなさい」
「いいよ」と王子は言った。「民の顔を見ておきたい。今の速度で」
王子は横を向き、笑顔を民衆に向けていた。
「公式行事だけど、杓子定規にやるものじゃないよ、ジル。僕の顔を見るだけで喜ぶなら、多少の遅れは気にするものでもない」
「かしこまりました、殿下」
ジルと呼ばれた女性が慇懃に答える。
王子は微苦笑を漏らした。
「どうなさいました?」
「君も緊張することがあるんだなあ、と思って」
「……王子がいつも通り過ぎるのです」
「王になったところで何が変わるわけでもないしね」
今日の戴冠式は半年も前から予定されていた。現王はすでに退位を表明しており、政治の場にもほとんど口を出していない。実質的には、ガムは既に王としての職務を果たしている。
半年も待ったのは、ガムが二十歳になるのを待っていたからである。たった二十歳、では若すぎるのも事実だが、現王が齢七十を数え、近年は健康問題を抱えることもあり、これ以上引き延ばすのは得策とは言えない状況だった。王家は礎、王家は橋――。国家を一つの装置とするなら、王の不在は、民衆を束ね、つなぎ合わせる金具の消失を意味する。
さらに言うならば、国民は若すぎる王に違和感を抱かないはずだ。ガムの父である現国王も、即位は二十歳になってすぐだった。先王の即位は式典も何もなく、隣国バスキアとの戦争の最中に慌ただしく行われた。二代前の王――ガムの祖父が戦死したのだ。
水と豊かな農地に恵まれた竜王国は同時に、周囲を山脈と湖に囲まれる立地にあって、大陸中央部でありながら孤立していた。バスキアのみが諸国への出入り口だったのである。この状況を嫌ったガムの祖父はバスキアへ侵攻、「やられる前にやれ」という攻撃的な思想は、大陸が乱戦期にあった当時としては誰もが納得できるものだった。
が、ガムの祖父はいささか血の気が多すぎた。山脈と湖の国の部隊は、平野の国の集団戦法――それこそが戦争のあり方を一変させた――に敗れ去った。いや、敗れ去る寸前まで追い込まれた。
それから五十年。現在の竜王国は、大陸でも有数の強国となった。
涙を流して彼の名を連呼する老人を見ながら、若い王子は失ってはならないものを心に刻みつけていた。
「殿下」ジルが小声で言った。「警備の配置を修正するため、多少お時間を頂きます」
「何かトラブルが??」
ジルはさらに声をひそめて言った。
「……バスキアに不穏な動きがあるようです」
「いつの情報?」
「たった今です。諜報部が独自に不穏分子確保に動いていたようです」
報告に来たと言うことは、確保は失敗したのだろう。
王子は笑顔のままでため息をついた。傍目には、短い深呼吸――そういうものがあるとすれば、だが――に見えただろう。内面を全て隠した表情を作るのは、王族のたしなみの一つだ。
「申し訳ありません」
「君が謝ることではないよ」
隣国との軋轢は、二代前から続くやっかいな宿題だ。原因はガムの祖父がバスキアに侵攻したことだが『大陸は統一されるべきだ』という思想はそれこそ大陸を席巻していた。
遅かれ早かれ、どちらかがことを起こすのは必然的な流れといえた。天下平定のための変化の時代、戦争は避けて通れない外交問題であり、どの国も紛争の一つ二つは常時抱えているのが当然という時代であった。この時期、バスキアのさらに南には沿岸諸国を統一した帝国が成立し、王国から川を挟んで東方には、十二都市国家連合が、緩やかながら一つのまとまりとして結束した。この戦争が終わるとき王国は消失しているだろう、と当時の一般市民は誰もが思っていた。
だが、そうはならなかった。
王国は『新兵器』を投入し、陥落寸前の状況からバスキア軍を撤退に追い込んだ。これより、帝国と十二都市連合は、予定していた大陸中央部への侵攻を見送った。
踏みつぶされるはずの小国が、大陸を押さえる要石になってしまったのである。
王子を乗せた馬車は、ゆっくりと広場に入った。
「ここで二分使って下さい」
「こんな広い場所で?」
「ここの方が安全です」
ジルが断言する根拠はわからなかったが、王子は腰を浮かせた。警備の配置変更のための時間つぶしだが、まさか演説を始めるわけには行くまい。二分であれば民衆に手を振り続けてごまかせる時間ではあるが、そのためだけに馬車を止めたと思われてはだめだ。民衆にバスキアの間者が混じっているなら、パレードが止まったというそれだけで、警備の動きを察知するだろう。やや考えてから、王子は広場の中央にある石像に祈りを捧げた。
王子の動きを見て、民衆のざわめきがやんだ。
竜に乗った騎士を象った石像だ。巨大な台座は戦没者慰霊碑となっており、無数の名が刻まれている。公式にはこの騎士像のモデルはいない。あえて言うなら無名の戦士たち、である。どちらかというと印象派の造型だが、じっと目をこらせば、モデルになった人物の見当はつく。現国王、セルダン一世だ。
五十年前、滅亡の危機にあった王国を救ったのはこの男であり、戦線に投入された『新兵器』というのが、伝説の生き物であった空を舞う巨大生物――竜だった。
セルダン一世がどこから竜を連れてきたのか、それは誰も知らない。王妃は知っていたはずだが、何も語らないまま、十年以上前に天寿を全うした。
歴史的事実だけを言えば、騎士の時代が終わり、戦争が兵士の数で決まるという考えが主流になりつつあった当時、竜は圧倒的な戦闘力を誇った。一騎当千、などというレベルの話ではない。航空戦力そのものが、この瞬間まで存在していなかったのだ。
油壺と火矢を持っただけの騎手と一匹の竜が、数千人の敵兵がひしめく砦を攻略できた。セルダン一世が従えた竜は二十四匹。その気になればバスキア全土を焦土にすることも可能だったのだ。さすがに運用上の問題と、戦後の政策との影響があって、大規模作戦は行われなかったが、バスキア首都空襲計画はかなりの段階まで練られていた。それがどこからか漏れ聞こえたのだろう、バスキアにおける反王国感情は根強い。従って、今日の戴冠式をバスキアが妨害する恐れは十分にあった。
セルダン一世がバスキアを滅ぼさなかった理由はもう一つある。さらに南方の、版図を急拡大しつつあった帝国と、国境を接したくなかったのだ。つまり、バスキアは滅亡を免れた代わりに、軍事的緩衝地帯となることを義務づけられた。むこうとしては面白くないだろう。だが、和平条約を不服として王国に挑んでも、竜と御者――戦後、正規軍に編成されて竜騎兵隊となっている。同時に国名の改正があり、王国は公式に竜王国を名乗ることとなった――の前には手も足も出ない。
戦争して勝てないのなら首長の暗殺を。自分がバスキアの軍人だとしたら、やはりそう考えるだろうな、と王子は思った。
やっかいな宿題だ。
この隣国との関係をどうにかしなければならない。
だが、王子は暗い気持ちになりはしなかった。国王たるものやっかいな問題の一つや二つ抱えていて当たり前だ。父や祖父と違って、自分はとりあえず、国家存亡の危機にいるわけではない。じっくりと時間をかければ、解決できない問題ではない。
決意を新たにしたところでジルが「時間です」と告げた。
王子は目を開き、民衆を見回した。
「竜王国のために散った英霊たちに感謝を!」
再び沸き立つ民衆の間を、馬車がゆっくりと進んでいく。
凱旋通りの途中で向きを変え、パレードは祝福の路へと進む。その先には、王宮に負けずとも劣らない、壮麗な建物が待ちかまえている。注意せずとも、この通りが宗教的色彩に染まっているのがわかる。王宮が現世――政治と社会の中心なら、聖堂は信仰――儀礼と精神性の中心だ。
聖堂の入り口には長い階段があった。そのてっぺんに、老いてはいるがたくましい男が立っていた。病身であるようにはとても見えない。
セルダン一世。竜王の名で知られる君主。ガムの父親だ。
階段の下で、王子は馬車を降りた。ジルを含めた側近を遠ざけ、一人で階段に足をかける。
階段の途中で、王子は待っていた司祭の一人から、古ぼけた本を受け取った。
王の交代は一種の宗教的儀式だ。現在の王から新たな王へ、知識と力と証を継承することで成立する。知識は書物。力は剣、証は指輪。
左の脇に本を抱え、王子は階段を登っていく。
王の左手に、抜かれた指輪が見えた。本来であれば、指輪を後継者に渡すのは王妃の役目だ。しかし、病弱だった王妃エレノアは既に他界している。母の顔を思い出し、ガムはわずかに寂しさを思い出した。振り切る。今はその時ではない。
王は後継者に剣を与え、祝福の言葉をかけた後、背後の聖堂へと入ることになっている。聖なる領域の住人になり、政治から決別するという意味がある。
その瞬間から、王子は王となり、王は先王となる。
歴史的瞬間まで残り十五段。
段上の父が微笑んでいた。自分は愛されている、と王子は思った。父からも、国民からも。それを裏切ってはならない。そのためになすべきことは多いが、皆の愛が、自分を助けてくれる。
残り七段。王がふと顔を上げた。気にはなったが、王子は振り向かなかった。聖堂に尻を向けるなど許されることではない。
だが、さらに二段上がったところで、宗教的儀礼など吹き飛んでしまった。
翼を打ち鳴らす音が聞こえたのだ。
まず考えたのは、竜騎兵隊のことだった。
竜王国の代名詞にして世界唯一の、そして最強の空戦部隊。来るはずがない。そのほとんどは国境警備に配置されており、王都近郊の一番隊に所属する六騎の――いや、五騎だったか――竜は、全て通常待機にあるはずだ。
振り返る。飛翔していたのは、確かに竜だった。小柄な騎手の姿が見えた。まだ距離があるので、顔かたちまでは判別できない。
国境で何か緊急事態が発生して伝令が出たのだろうか――あって欲しくない事態だが、妥当な推測に思えた。馬よりもずっと早い上に乗り継ぐ必要もない竜は、伝令にはうってつけである。しかし、それによる戦力の減少は無視できない。竜騎が伝令に出るのは、非常事態に限られている。だが、王子が考えた通りなら、竜は王宮に向かうはずだった。軍事上の問題であれば、まずは将軍たちの指示を仰がなければならない。王は国家の最高責任者であるが、軍略の専門家ではない。一報を入れるのは幕僚を集めてからで十分。伝令にも理解できることだ。理解できなくても「誰それに知らせろ」という指示があって当然だった。それを曲げて王のところに来たのだとすると、よほどのことが発生したことになる。
竜は、祝福の路に平行に、まっすぐにこちらに向かってくる。乗っているのがうら若い少女だと判別できる距離に来ても、王子は特に驚かなかった。
竜の負担を減らすため、竜騎兵には小柄で軽いことが求められる。結果、竜騎兵隊の隊員は一人残らずうら若い女性になった。少女が竜に乗っているのは、当たり前のことなのだ。
民衆は余計なことを何も考えなかった。王国繁栄の立役者である竜騎兵が、今日の晴れの日に姿を現すのは、むしろ当然とさえ考え、盛大な拍手と歓声を送った。竜王国の戴冠式に竜がいないのは、具のないスープのようなものだと思う者すらいた。
竜が高度を落とした。
王子はここで、「何かおかしい」感じた。しかし、竜が伝令であるという考えを捨てるには至っていなかった。竜騎兵は普段から軽装だが、少女が鎧をまるっきりつけていないのは、急ぎの伝令で、少しでも軽量化するためだろう。竜につける鞍がないのも同じ理由で納得できる。装備に関しても、自国民の上を飛ぶのに油壺など持ってくるはずがない。装備は細い薙刀のみ。 王子は知らなかった。竜騎兵が白兵戦用のの装備を持たないことを。
空飛ぶ部隊が、いったい誰と切り結ぶというのか。それが本物の竜王国の竜騎兵であるなら、薙刀ではなく弩を携えているはずだった。
竜は加速と急降下を同時に行った。騎乗している少女が薙刀の穂を頭上に構え、竜が体躯を横に半回転させた。上下逆さまになった穂先が王子に迫る。
「殿下!」
誰かが叫ぶ声。
すさまじい風圧に、王子は目を閉じた。王冠が載る予定の空間を白刃が通過した。吹き飛ばされた。あるいは、誰かに引っ張られたような気もした。どちらであったのか、よくわからない。
竜はわずかに高度を上げた。
刃もわずかに高度を上げる。
その先には、セルダン一世がいた。
竜が低空を駆け抜ける。
その時には、居並ぶ神官も民衆も、全て突風に吹き飛ばされ、折り重なって倒れていた。
悲鳴と喧噪がたちまち生まれる。その混乱の中にあって、とん、とん、とん……、という、やけに軽やかな音が、響いた。
突風のをやり過ごした王子が目を開ける。
神殿の前に、刎ねられた父の首が転がっていた。
警備の兵士がざわめき、賊を捉えようと動き出すがもう遅い。暗殺者は空の彼方へと飛び去って行く。
セルダン一世の死に顔は、殉教者のように安らかだったと伝えられている。
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