2-4

「鮎子、一緒に帰ろ。そして遊びに行こ!」


「金曜は部活だって、一体何度いえば覚えてくれるわけ?」


 背負っていた黒い楽器ケースを、鮎子はこれ見よがしに揺すってみせる。力強く揺らすから、中で楽器が可哀想な音を立てた。自分が悪いのに、鮎子は小春のせいだといわんばかりに鼻筋に皺を寄せ叫ぶ。


「あぁ! あたしの大事なサックスちゃん!」


 ホームルームが終わったばかりで混雑する廊下にしゃがみ込み、楽器のケースを広げ出す。周囲から迷惑気な視線が集まってもお構いなしだ。

 ケースの中で寛ぐサックスは、細身の体にボタンだらけで、私の目からは無事なのか重症なのかも分からなかった。何事もなかったようにケースを閉じ、鮎子はいう。


「小春も吹奏楽部、入ればいいのに。ちっこい小春がチューバとかでっかい楽器やったら絶対面白いよ」


「やだやだ、私に楽器なんて絶対無理」


「じゃあタンバリンとかカスタネットとかマラカスとか手拍子とかのパートも作ってもらうように、あたしが部長に直談判してあげるから」


 捻くれた物言いを深読みすると、小春にでもできそうな楽器を見つけてあげるから一緒に音楽やろうよ、という意味なのだろうけど、私はあえて気付かないふりをして首を横に振った。


「私は帰宅部の部長を目指してるからいいの」


 家庭の事情で部活動を控えているとは、さすがに鮎子にだっていい辛い。私は小学校の頃から、誰もいない家に帰る侘しさを独り占めし続けている。誰よりも先に家に帰り、立ち込める侘しさを残らず回収し、明かりをつけて家族の帰りを待つのだ。

 それは、干しっぱなしの洗濯物を取り込むことよりも、流しに積み上げられた食器を片付けることよりも、はるかに重大な任務だ。もちろん、部活よりも大事なことに決まっている。


「あっそ。じゃ、あたし行くから」


「いってらっしゃい。サックスちゃん、頑張って」


「あたしもいつか部長になるからさ、そしたら小春、うちの部と帰宅部掛け持ちしなよ。部長様の譜面台の役をやらせてあげるわ。それまでせいぜい、帰宅部に励むことね」


 サックスを手にすると、鮎子は決まって上機嫌になる。スカート翻し、颯爽と大股で遠ざかっていく背中を眺めながら、若いなぁ青春だなぁと他人事のようにしみじみ思う。


 夢中になれること。私はまだ、おぼろくん観察以外、何も見つけられていない。周りを見渡しても、ラケットを持っていたりスケッチブックを持っていたりと、辺りはこれから部活動に向かう生徒で溢れていた。週末前の最後の平日だもの。みんなここぞとばかりに勤しむのだろう。今日は兄が休みで家にいるのだ。私にとっても貴重な平日だった。


 鮎子の後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、踵を返す。こんなところで疎外感を噛み締めていたって仕方がない。心行くまでサックスちゃんに励むがよい、とわたしは無理やり心を広げた。


「ちょ、ちょっと待って!」


 取り乱した声は、悲鳴に近かった。振り返るより先に背後から手を掴まれ、私は動けなくなる。女の子のそれとは違う、長く大きな手の感覚が誰のものか、振り返らずとも分かってしまった。

 おぼろくんがすぐ後ろに立っているのだと思うと体が動かない。さっきはあのまま徹底的に無視を続けたというのに、おぼろくんは不屈の精神の持ち主だ。


「昨日のお礼がしたい」


 掴まれた手を引き寄せられ、短く耳元で囁かれた。捕らわれた手は、ちくりとも動かせぬほど彼の手の中に包まれている。やっぱり男の子だ。手が大きい。長い指は、世にも美味しいおむすびを生み出せそうなほど柔らかだ。


 だけど、次に耳に届いた「だから一緒に帰ろうぜ」というおぼろくんの声で、私の緊張は一気にもぎ取られた。そんな喋り方をされたら興醒めだ。


「お礼なんて、いいってば」


 手を払いのけ、私は振り返る。語尾に「ぜ」をつける不自然なおぼろくんは、私の好きなおぼろくんではなかった。見上げるほど高い位置にある顔も、心なしかいつもより不細工に見える。


「でも、それじゃあ僕の気持ちが収まらないし……」


 口ごもりながら眉毛を下げたおぼろくんは、懲りずにもう一度、しかも今度は両手で私の手を取った。鈴木くんに見られたらどうするんだと、なぜだか後ろめたい気持ちが湧いてくるから困る。それが顔に出たのか、おぼろくんの眉毛がさらに降下した。同時に、握られた手にどんどん力を込めてくる。

 指よりも先に心臓がちぎれそうになって、私は降参! とばかりにしぶしぶ頷いた。


「分かった、分かったよ。それじゃあお言葉に甘えて、何かご馳走になります」


「えっ、僕まだご馳走するなんてひとこともいってないのに」


「お礼といったらスイーツでしょ。女の子の常識だよ」


 女の子という言葉に反応したおぼろくんは、急に周りの目を気にし出し、私の手を捨てるように離した。解放されて楽になったはずなのに、心臓の痛みは消えない。それどころか、昨夜から増す一方だ。


 今しかない。深呼吸をして、なけなしの勇気を振り絞る。


「おぼろくんは、気持ち悪くなんてないよ」


 昨日伝えられなくて途方もなく後悔していたことを、私は放課後の喧騒に紛れてようやく口にした。

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