2-3
日焼け止めを塗ったときから常に香っていたせいで、サッカーボールの整備を終えて帰ってきた彼が隣に腰を下ろしても、おぼろくん自身の匂いを感じることができなかった。
手を洗ってきたのか、おぼろくんはハンカチで丁寧に指を拭いている。いかにもおじさんが持っていそうな、渋い紺色のハンカチだ。
「やっべ! 次数学じゃん。オレ、宿題やってきてねぇや」
「えっ、じゃあ僕の写す?」
ハンカチをいそいそとポケットに収めながら反対の手でノートを広げるおぼろくんを、うわーあたしもやってきてないやと思いながらガラス越しに眺める。鮎子に写させてと頼んだら、間違いなくひとつ返事で「いやだ」というだろう。
シャーペンの芯を額でノックして出している鈴木くんに、私は今日何度目か分からない嫉妬をする。
「お前の字、相変わらずちっこくて見にくいな」
「鈴ちゃんの字が大きすぎるんだよ。文句いう暇あったらさっさと写して。間に合わなくても知らないよ」
几帳面に小さく纏まったおぼろくんの文字が、鈴木くんの手によって変形しながら徐々に写されていくのが分かる。実際、ガラス越しに文字までは見えない。だけど、後ろめたさを感じさせない豪快な鈴木くんの文字まで容易に想像できた。
「おい、何やってんだよお前。ここ間違ってるぞ」
「え、どこどこ?」
「ほれ、ここ。バーカここだっつーの」
「嘘、これ違う? どこが間違ってるの?」
「説明すんの面倒くせぇ。とりあえず答えは三。朧もついでに直しとけ」
「うん、ありがとう」
ちっとも悪くないおぼろくんが謝ったりお礼をいったりする様を、私はやきもきしながら見守る。この作業を行っているときの鈴木くんは、正直憎たらしいことこの上ない。間違いを瞬時に指摘できるのだから、おぼろくんより賢いはずなのに。
「うっわ、お前これも違うじゃん。まだこっからもう一回計算すんだよ。何すでに答え出した気になってんだこの早漏野郎。つーか間違った答え写しちったよ、早く消しゴム」
「ごめんごめん、僕が消すから」
下品に罵られているにも関わらず、消しゴムを片手におぼろくんはとても楽しげだった。勉強も運動も器用にこなす万能タイプの鈴木くんなのに、女子に人気がないのは、顔が濃すぎる以外にも理由があるのだと私は確信している。
その点、おぼろくんはどうだろう。もちろん、人気を集めるタイプではないことは分かっている。でも、私のような熱心な隠れファンがいてもおかしくはない。そんな仲間に出会ったら、おぼろくんの魅力について夜通し語り合いたいと思うのに、一方で口も聞きたくない気もするから不思議だ。
おぼろくんのことを考えると、私の心はゆらゆらと定まらなくなって、いつもわがままでいっぱいになる。今だって、おぼろくんに際どい発言をかましまくる鈴木くんに気を揉む反面、ふたりの仲睦まじさを微笑ましく感じている自分もいる。
おまけに、昨日までは考えもしなかった別の感情まで押し寄せてくるから、心の中はいつもに増して忙しい。
おぼろくんの心の中は、もっと混沌としているに違いなかった。鈴木くんのセクハラ紛いの発言を、心の中の女の子はどんな気持ちで聞いているのだろう。
指摘された間違いを直し終えたおぼろくんは、高々と両手を持ち上げて背中を伸ばしている。山の頂上で繰り出す渾身の深呼吸のような、朗らかな伸びだった。
複雑な心根を隠しているとは思えぬ横顔に、いい知れぬ不安が過ぎる。心と体の不一致からくる歪みは、一体どこへ蓄積されているのだろう。
「ふぅー終わった。ギリギリセーフ」
鈴木くんの間延びした声につられ、私もあくびがこみ上げてくる。口を閉じたまま噛み殺すと、涙が滲んでガラスに映る輪郭が曖昧になった。慌てて指の腹で瞼を拭う。手のひらから濃密な海の香りがした。
「オレ、便所いってくるわ」
「え、もうすぐ授業始まるよ」
おぼろくんの忠告を、「小便だから楽勝楽勝」と聞き流しながら鈴木くんは席を立った。置き去りにされたおぼろくんは、背中が見えなくなるまで見送ってから、正面に向き直り姿勢を正す。
その横顔からは、忽然と笑みが消えていた。ひとりでいつまでも笑っているのも不気味だけど、突然の真顔も怖かった。そんな顔をして、何を考えているのだろう。聞こえるわけもないのに、私は無意識のうちに耳を澄ませていた。
「あのさ。今日の放課後、何か予定あるかな?」
待ちわびていた特徴的な鼻声は、驚くべきことに私自身に掛けられた。意識を根こそぎ聴覚に集中していたせいで、不意打ちに反応することができない。思い焦がれていた声が、感度全開の鼓膜に直撃したのだ。首を動かすこともできなかった。
このままだと無視をしたことになってしまう。分かっていても、心臓の音が激しくなるばかりで返事ができない。すぼまる喉が声を塞ぎ止めている。
「あれ、小春ちゃん。もしかして、目開けたまま寝てる?」
そんな高度な技持ってないよ! と内心で冷や汗を垂らしていたら、おぼろくんの顔がぬぃっと眼前に現れた。一瞬のうちに毛穴という毛穴から汗が噴出して、体中がピリピリする。
ずっと一重だと思っていたおぼろくんの瞼。近くで見たら奥二重だった。その奥ゆかしい瞼が、目の前で高速に瞬きを繰り返している。
昨日だって、至近距離でおぼろくんを見た。お喋りだってした。大丈夫、臆することは何もないのだと自分にいい聞かせる。早くしないとすっきりした鈴木くんが戻ってきてしまう。言葉を交わせるチャンスは今しかない。
でも駄目だった。ただただ、眼球の奥が燃えるように痛い。窓ガラスを通さずに見るおぼろくんは眩しすぎて、何の反応もできない。私は目が合わないよう一点を見つめて、おぼろくん以外の場所へ目の焦点を固定することに必死になった。
容赦なく乾いていく瞳を酷使して、瞬きを堪える。あろうことか私は、目を開けたままの寝たふりを決め込もうとしていた。
だって、おぼろくんが私のことを「小春ちゃん」と呼んだのだ。鮎子のことは、律儀に川島さんと名字で呼んでいたのに。それなのに、私のことは山本さんではなく小春ちゃんと呼んだのだ。
それだけで、溶け出してしまいそうだった。目を合わせたら、返事をしてしまったら、きっと私はとろけて実態をなくすだろう。今は自分の形を保つことだけに専念した。
「小春ちゃん? うそ、本当に寝てるの? もしもーし小春ちゃーん」
真の姿を知ってしまった厄介者の口を塞ぐために、おぼろくんは私を溶かそうとしている! そんな妄想を繰り広げながら、辛抱強く瞬きを堪える。
そのまま痩せ我慢は続き、結局私は授業が始まるまで目を開けたままのありえない寝たふりを貫き通した。
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