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 鮎子が、塀の上から人間を見下ろす野良猫に似た眼差しで校庭を眺めている。すぐ背後を女子の塊が賑やかに通過しても瞬きすらしない。目を細め下界を眺め続ける瞳は、どこか一点を見つめていて動かなかった。

「何見てるの?」という私の問いに、いつも「何も見てない」と答える鮎子は、別に嘘をいっていたわけじゃないのかもしれない。


 表情を見ても何を考えているのか分からないのは、髪型のせいじゃないかと最近思う。丸く整ったマッシュルームカットなのに、前髪だけが切り方をしくじったんじゃないかと疑いたくなるほど短く不揃いで、そのアンバランスさがマネキンによく似ていた。

 丸出しの細い眉毛も、黒目がちで切れ長な目も、下だけぽってりとした唇も、兄の部屋にある頭だけのマネキン、パトリシアさん(兄命名)にそっくりなのだ。


 兄の美容室を紹介するまで、鮎子は腰にまで届きそうなロングヘアーだった。そのままのときもあれば、頭の上で大きなお団子にしたり、左右に束ねたり、編み込んだり、時にはふざけて美少女戦士を真似してきたり、日毎に変わる鮎子の髪型は、おぼろくんを意識する前の私にとって学校に来る一番の楽しみでもあった。


 あろうことか、兄はそれをばっさりと切った。「全然似合ってない」とへらへら笑いながら、解くこともせずに三つ編みを一刀両断、ぶった切ったのだ。血の気が引き後頭部が冷たくなっていく感覚を、今でもはっきりと覚えている。凍りついたままの鮎子の表情と、徐々に出来上がっていくパトリシアさんカットを見守りながら、私は唯一の友達を失う覚悟までしていた。


 だけど、今日も鮎子は私の目の前にいる。三ヶ月以上たった今でもあの日と変わらぬ髪型をしているのだから、自ら所望してパトリシアさんカットを維持しているに違いなかった。


「何見てるの?」


 声を掛けると、鮎子はようやくこちらを向いた。私が隣にいたことも忘れていたような、相変わらずの無表情だ。目が合うと、口がだらしなく半開きになり、中から白い前歯が覗く。元気に飛び出た長い前歯と鮮やかな歯茎の色を見て、それでこそ鮎子だと思う。

 平たくいえば、出っ歯だ。気にしているのか、いつも窮屈そうに唇で前歯を封じている。それなのに、猫が飼い主にだけ腹を見せるように、鮎子は私にだけ躊躇うことなく前歯を見せる。私は、この瞬間がなかなか気に入っていた。


「別に。何も見てない」


 言葉と共に降りてきた唇が、大きな前歯に張り付く。もぞもぞと鼻の下を伸ばしたり、艶やかな唇で前歯が隠れたり現れたり、鮎子の鼻から下はいつも慌ただしい。反動で目と眉毛はあまり動かないのかもしれない。


 私も窓から顔を出し、鮎子が本当に何も見ていなかったのかを確認してみる。空には美味しそうな形の雲も浮かんでいないし、鳥も飛行機も飛んでいなくて、見上げても眩しいだけだ。視線を落としてみても、校庭には昼食を食べたばかりだというのに無邪気に走り回っている生徒がちらほらいるだけだった。


「あっ!」


 体育館の隅にいるふたつの人影を見つけ、思わず声が飛び出た。すかさず鮎子が首を伸ばしてくる。


「なになに?」


「な、なんでもない」


「そんな声出しといてなんでもないはないでしょ。気になる。気になって気になって気持ち悪い。あぁもう小春のせいで絶対今夜眠れない」


「本当になんでもないんだってば」


「小春、あんたその癖直したほうがいいよ。自覚してないんだろうけど、三日に一回はその思わせぶりな態度であたしをイライラさせてるんだからね」


 苛立ちを微塵も感じさせない無表情のまま、鮎子は校庭に目を走らせている。体育館の陰では、おぼろくんと鈴木くんがカゴにどっさりと入ったサッカーボールを数えていた。適当に足でボールを捌く鈴木くんの隣で、おぼろくんは布でボールを磨くような動作をしている。

 外で蹴り倒されるモノを拭いたところで無意味なのにと思っていたら、鈴木くんがそのボールを乱暴に奪った。人差し指を突きつけ、何か文句をいっている。


「すぐ汚れるんだからそんなことしなくていーんだよ」


「でも、こんなに汚れてたら白と黒が分からなくてサッカーボールに見えないよ。これじゃあただの砂の塊みたいだよ」


「蹴れりゃ何でもいーんだよ。つーかアレだぞ、オレが蹴ったら球が速すぎて新品のサッカーボールもただの丸い塊にしか見えねぇぞ」


「わぁ、鈴ちゃん、すごーい!」


 ふたりの会話を想像して、頬が緩んだ。我ながら気持ち悪い行為だけど、会話の内容は強ち間違っていないと思う。だってほら、おぼろくんが鈴木くんに向けて大袈裟に拍手を送っている。


 部員でもないのに、こうしてサッカー部の雑用を手伝っているおぼろくんの姿を時々見かけた。いっそのこと入部しちゃえばいいのにと思っていたけど、今なら理由が分かる。女の子なら、選手よりマネジャーに憧れるのも当然だ。


 そんな気持ちを鈴木くんが利用して便利に使っているとしたら許せないけど、心配はきっと必要ない。余計なことばかりしているおぼろくんはあまり役に立っていないし、何よりおぼろくんが選んだ友達が、そんな悪い奴なわけがない。


「いい加減教えなさいよ。一体何を見つけたの?」


「鮎子こそ、そのしつこく食い下がる癖をなんとかしたほうがいいと思う」


「何よ、可愛くないなぁ。どうせ、朧でも見つけたんでしょ」


 鮎子のいやらしい鋭さに三秒ほど絶句したあと、取り繕うため慌てて口を開く。


「何でおぼろくん? 鈴木くんを見ていたかもしれないよ」


「前々から気になってたんだけどあの二人ってさ、顔を足して二で割ったら丁度いいのに。鈴木は濃すぎだし、おぼろは薄すぎだし。そんなふたりが一緒にいるのって、かなり滑稽」


 背が高くてほっそりな鮎子と、背が低くて太っちょな私の組み合わせもなかなか滑稽だけど、認めたくないから口には出さないことにする。代わりにおぼろくんと鈴木くんを頭の中で足して割ってみた。……おぼろくんが台無しになった。


「だめだめ、割り切れないよ。ていうか、おぼろくんは足したり割ったりしなくても、それほど変じゃないかと、思うんだけど、なぁ……」


「変でしょ。あんな白い男、絶対変でしょ。あれ以上白くなってどうするつもりなんだろう。家が近所で小学生のときから知ってるけど、その頃から日焼け止め臭かったんだから、あいつ」


「あぁっ!」


「ったく、今度は何?……はいはい、もう聞きませんよーだ!」


 返答に困っていただけなのに、気の短い鮎子は下唇と前歯を突き出し威嚇してくる。普段無表情の癖に、突然こういう顔をするから心臓に悪い。兄の部屋で、パトリシアさんが夜な夜なこんな顔をしていたらと思うと、おちおちトイレにも行けなくなるじゃないか。


「鮎子はすごいね。おぼろくんは海の匂いがするって思ってたけど、そっか日焼け止めか。私今まで気付かなかったよ」


「海水浴のときにしか日焼け止めつけない小春のほうがすごいと思うけど。海っていったら普通、磯の香りでしょ」


 鮎子は信じられないとばかりに大袈裟なため息を吐いた。陶器を連想させる白く滑らかな肌をした鮎子にいわれると、返す言葉がない。鮎子も今、日焼け止めをつけているのだろうか。鼻を近づけてみても、強い香水の匂いばかりが鼻腔を刺激してくる。


「鮎子、今も持ってる? 日焼け止め」


「当たり前。夏は手離せないもんなのよ、普通はね」


 ポケットから小さな容器を取り出した鮎子は、見せびらかすように私の目線の高さで振った。上下に動くたびチャプチャプと小気味よい音が鳴る。


「ほら。手、出して」


 私はお手を命じられた犬のように、素早く右手を差し出す。キャップを外した鮎子は、十円玉大の日焼け止めを手のひらに恵んでくれた。手に落とされた乳白色の液体からは、確かに心の奥がきゅっと縮まる匂いがする。


 おぼろくんはいつもこれをつけているのだと、手のひらを見つめ噛み締めた。何のために? という野暮な疑問には、答えを出さないことにする。今はただ、手のひらに舞い降りた海の匂いの正体に感動するばかりだった。


「何してんの気持ち悪い。それは嗅ぐものじゃなくて、塗るものなんだけど」


 鮎子のからかうような視線で、頭に描かれ始めた海のイメージが一気に弾け飛ぶ。


「わ、分かってるもん!」


 でも、好きなんだこの匂い。――初恋の香り。自分でそんなことを考えて、急に恥ずかしくなった。

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