ホリデイ・イン・ニューヨーク~噓つきたちの休日~
逢坂一加
第1話
その年の冬、ちょっとした事件が起きた。
ユーラシア大陸のアジア圏とヨーロッパ圏の境にある小国。長年、鎖国をしていた国の第一王子・ゼーフィリヤが、公務として世界の国々を回った。学業に響かないよう、冬季休暇中に。
各国の重要人物たちとの会談、博物館や公共施設への視察やマスコミへの対応など。過密なスケジュールに、ゼーフィリヤは疲れた顔ひとつ見せなかった。
常に堂々と振る舞い、礼儀作法も完璧。だが真面目一辺倒ではなく、他人の話を聞いている時に、くるくると表情が変わる。ジョークには笑い、悲惨な歴史には真摯に向き合う。
そんな彼を、各国のマスコミは好意的に受け入れた。
<高貴な十二歳>
連日の報道で、この表現が頻繁に使われた。
そして、ゼーフィリヤ王子は、最後の訪問国―――アメリカへ訪れた。
***
雪が降り始めた夕方。
ニューヨーク・ヒルトン・ミッドタウンのスイートルーム。
ゼーフィリヤは姿勢を正して、巨大なスクリーンを見ていた。訪れた先で演説をした、自分の姿を。
≪これからは、アメリカはもちろん、世界各国の国々とも友好を結んでいき≫
「再三申し上げましたのに、どうして原稿に目を落としてしまうんです」
お説教をしている高齢の侍従は、老眼鏡をクイッと上げて、ゼーフィリヤの返答を待つ。すぐに答えないと、また別方向のお説教が始まりそうだ。
「大事な部分だからこそ、噛んだり間違えたりしたくなくって、確認したくなったんだ」
「それでしたら、この前の段階で」
侍従は映像を巻き戻した。再生されたゼーフィリヤは、≪我が国は長い間、鎖国をしており≫と話し出す。
「一度原稿に目を落とし、先の部分を確認すべきです」
「そんなことしたら、かえって頭がごちゃごちゃするよ」
ゼーフィリヤの反論に、別の侍従が淡々と指摘した。
「王子、お言葉に気を付けてください。そこは『混乱する』もしくは『言い間違える』と言うべきです」
「……そんなことしたら、かえって混乱してしまうよ」
うんざりした気持ちを出さないよう、ゼーフィリヤは全力を注いだ。少しでも不貞腐れた態度を取ったら、お説教が長くなるだけだ。
やっと反省会が終わり、明日のスケジュール確認をする。
朝の起床時間は6時。昼食は50分。会談は、演説は、インタビューは……何時何分、何分間。視察旅行は常にスケジュールがみっちりだ。
確認をしながら、ゼーフィリヤは巨大なスクリーンを見た。せっかくの高画質なら、真面目な表情の自分より、もっと違うものが見たい。『ジュラシック・ワールド』とか、『ナイト・ミュージアム』とか。
「以上を終え、帰国します」
あれ、とゼーフィリヤは疑問に思った。もう一度脳内で、侍従が告げたスケジュールを確認する。
「タイムズ・スクエアの散策と、JAZZバーは?」
そう。ゼーフィリヤが私的な理由でリクエストした観光が、全く入っていないのだ。公務の後の、ちょっとしたお楽しみとして。
侍従は咳払いをして、スケジュール帳を閉じた。
「殿下。今回の訪問は公務でございます。遊びに来たのではありません」
「でも、ちょっとだけなら、行ってもいいって」
「必要ございません。視察目的である“他国の歴史や文化を理解するため”の場所は、これで充分です」
「タイムズ・スクエアは、このホテルへ来るときに通過して、ご覧になったでしょう?」
「それに、JAZZなんて低俗な音楽、王族に相応しくありません」
「殿下、あらゆる国のすべての文化を理解しようとなさる心意気はご立派ですが、それでは疲れてしまいます」
「王族として必要なものだけ理解していれば、充分ですよ」
「なんっだよそれ!!」
噛みついてしまった。
ゼーフィリヤは、椅子から立ち上がった。だが、侍従たちは一様に驚き、まるで犬に吠えられたように仰け反った。
「国にいる時は、行ってもいいって言ったじゃないか! それなのに当日になって無しだなんてズルいじゃないか! 嘘吐き!!」
「殿下、ど、どうか落ち着いて」
「怒らせたのはお前たちだろう!」
偉い大人たちと会うのも、見知らぬ大勢の前で慣れない外国語でのスピーチも、複雑な歴史の話を聞くのも、公務だからというのもあるけど、二つの楽しみが支えでもあった。
頑張った後に、楽しみがある。そう思えたからこそ、疲れていてもそれを出さないようにしていたのに。
「殿下がいくらお怒りになろうとも」
高齢の侍従は、眼鏡の位置を直しつつ、姿勢を正した。
「スケジュールに変更はできません。JAZZバーもタイムズスクイル(・・・・・・・・)とやらも、今回は諦めてください」
「……次の視察では、ちゃんと取り入れてくれる?」
侍従は答えなかった。襟を正して、まっすぐにゼーフィリヤを見つめる。ゼーフィリヤがいくら睨み返しても、彼は怯まなかった。さっき仰け反ったのは、単に驚いたからだろう。
他の侍従たちが見守る中、ゼーフィリヤが先に視線をそらした。
「もう寝るよ。……疲れてイラついていたんだ、ごめん」
「疲れて苛立っていたのですね」
「連日のご公務も、明後日で最後ですよ」
「そうですね。明日のためにも、今夜はもうお休みになった方がよろしいでしょう」
ゼーフィリヤは、侍従たちを連れて寝室へ行った。母国でいつも着ている寝間着に着替えさせてもらい、ベッドの中へ入り込んだ。
「おやすみなさい、殿下。よい夢を」
「おやすみ」
いつもなら「また明日」と続けるゼーフィリヤだが、この日は言わなかった。侍従たちは不審に思わずに去っていく。きっと、拗ねていると思われたんだろう。
真っ暗になった部屋で、ゼーフィリヤは耳を澄ませた。国から着いてきた侍従たちが動いている。きっと、明日の準備をしているのだろう。
ときどき聞こえてくる、車のクラクションを数える。
10回数えたところで、ゼーフィリヤは身体を起こした。毛布をめくる音、絨毯を歩く足音、クローゼットを開ける音を最小限に抑える。
服を着替えようとした時、寝室に近付く足音が聞こえた。
中途半端な状態だったが、間一髪のところで毛布の下へもぐりこむ。後ろから光が差し込み、すぐにまた暗闇になった。
足音が遠ざかるまでの間、ゼーフィリヤはもそもそと着替えを再開した。体格が似ている同級生に借りた、ユニクロのセーターとジーンズ。枕の下に手を入れて、手帳を引き出す。クローゼットから上着と帽子、そして鞄を取り出すと、ドアの前で耳をすませる。
足音、なし。物音、あり。
油断しないようにドアを開け、こそこそと部屋を移動する。スイートの広さを呪ったのは、今日が初めてかもしれない。部屋を出るまでの間、ゼーフィリヤの心臓はどきどきしっ放しだった。
だけど、部屋を出てしまえば、後は楽だった。12歳のゼーフィリヤが1人で行動していても、まだ9時だからか、ホテルの守衛は何も言わなかった。
ホテルの外に出ると、身体が震えた。暖房の効いた室内から、雪が積もった外へ出たからだ。吐く息は白いし、吸い込む空気も冷たい。
自分が泊まっているスイートルームの方を見上げ、ゼーフィリヤは微笑んだ。
「すぐに帰ってきまーす」
手袋に包まれた手をさすりながら、ゼーフィリヤは歩き出した。タイムズ・スクエアに向かって。
ゼーフィリヤが泊まるホテルからタイムズ・スクエアまでは、地下鉄で三駅先。歩いて行っても、迷うような道のりではない。地下鉄も地上の風景も見たかったから、徒歩で行って、地下鉄で戻ることにした。
寒くはあったけど、苦痛ではなかった。暗くなり、キラキラと賑やかに光る街並みや、自分と同じようにはしゃぐ観光客を観るのは、とても楽しい。建物や自分にカメラを向けたり、「ここがあの!」と騒いだり。
ゼーフィリヤの気持ちがさらに嬉しくなったのは、片言の英語で、
「写真、撮ってもらっていい?」
と話しかけられたことだ。男性2人組に。もちろん、喜んで引き受けた。彼らはゼーフィリヤの写真の腕を褒め、お礼にキャンディーをくれた。
「気を付けて帰るんだよ」
別れ際の言葉に、ゼーフィリヤは満面の笑みで手を振った。
―――自分はニューヨーカーに間違われたんだ! 彼らと同じ外国人なのに!!
嬉しい気持ちが最高潮に達したのは、タイムズ・スクエアの三角広場についた時だった。
大勢の人が、忙しなく通り過ぎる横断歩道。その中央にそびえ立つ、大小様々のビルボードには、いろんな広告が掲示されている。
信号が切り替わると、今度は車が忙しなく走り出す。あらゆるものがスピーディーに動いている。
歩行者用の信号が青になった瞬間、ゼーフィリヤは横断歩道を渡る群衆をなぞるように、右から左へ手を動かした。そしてすぐに、反対方向へ動かす。『LUCY』と違って、人々の動く速度は変わらなかった。
―――きっと、まだ脳が覚醒してないからだ。
謎の自己満足感を得て、ゼーフィリヤは身体の向きを変えた。タイムズ・スクエアを横切る横断歩道へ行くために。ふと見れば、iPadを構えて、ゼーフィリヤと同じ動きをしている女性たちがいた。そっか、あの手があったか。
GPSが付いているから、ゼーフィリヤはスマホもタブレットも持って来なかった。デジカメを持ってくることも考えたが、後々見つかって叱られる危険を考え、やめにした。
横断歩道を渡りながら、ゼーフィリヤはまた広告が付いたビルを見た。いつでも思い出せるように、頭に焼き付けるように。
道路を渡り、ゼーフィリヤは鞄から手帳を取り出した。ガイドブックからコピーした地図で道順を確認する。大丈夫、間違えてはいない。
もう1つの目的地・JAZZバーへ向かう。予約なしでも入れて、現金での支払いにも対応しているところ。侍従たちがきちんと手はずを整えてくれていたら、ゼーフィリヤは、ブルーノートか『ターミナル』に出てきたラマダ・インのラウンジへ行けたのに……。いやいや。きっと、これから飛び込むJAZZバーだって素敵なところだ。
ガイドブックに「予約なしでもOK」と紹介されているJAZZバーは、見つけるのがとても難しかった。看板も目立たない。なかなか見つけられないどころか、実は何回か店の前を通り過ぎていたと分かった時、ゼーフィリヤは膝から力が抜けそうになった。
おそるおそる店のドアを開けると、サックスの独奏が盛り上がっているところだった。店内は薄暗く、小ぶりなシャンデリアと各テーブルに置かれたキャンドルだけが光っている。
ゼーフィリヤを見た瞬間、がたいのいい用心棒が「子どもは帰れ」と追い出しにかかる―――かと思ったが、そんなことはなかった。がたいのいい、ぶっきら棒な男には出迎えられたが。
「待ち合わせかい?」
「そ、そう。あとからパパが来る」
とっさに嘘を吐いた。が、効果はあった。仏頂面だった男は、途端に笑顔になった。
「カウンター席なら、店内が見渡せる。来たらすぐに気が付くぞ」
人懐っこく笑みを向けられ、ゼーフィリヤは肩の力が抜けた。
入口のすぐ横に電話があった。いざとなったら、電話を掛けるふりをして「来られなくなった」とでも言って出よう。勿論、代金は払った上で。
そこまで考えて、ゼーフィリヤは帽子とコートを脱ぎ、カウンター席へ着いた。
別の曲に切り替わる。今度はピアノがメインだ。
ステージで演奏されている楽器は見たことがあるものばかりだし、ゼーフィリヤ自身、一通り弾ける。演奏方法だって、特殊なものじゃない。なのに、自分が知っている楽器ではないような、不思議な曲を奏でている。
来てよかったなあ、と感慨にふけっていると、肩を軽くつかれた。人差し指で、つん、と。
「ねえ、キミも観光?」
****
カクテルに口を付けた瞬間、お気に入りの曲が始まった。喉の中へ流れ落ちるお酒や耳に心地いい音楽のおかげで、今日の疲れがほぐれていく。
―――いやいや、今日もよく頑張った。17歳のモデルにオバハン呼ばわりされても、笑顔を忘れず宥めて褒めて撮影し、アフターファイブは同僚の失恋話を聞いて以下同文。まだ週末までは2日もあるけど、見方を変えれば残り2日だ。今日少し息抜きをして、2日を乗り越えよう。
口の中に残るフルーツの香りを吐き出し、レイチェルは軽く仰け反った。
「大丈夫ですか?」
「ダイジョーブ。酔っぱらうには、あと5杯くらい必要かな」
レイチェルが空のグラスを差し出すと、バーテンは笑って受け取った。彼がシェーキーを振り始めると、奥の方から歓声が聞こえた。曲はまだ、終わっていないのに。
声の方を見ると、カウンター席の奥で、ティーンエイジャーたちがいた。二人で向かい合い、グラスを持った腕を、交差させて自分のドリンクを飲む。
このバーで観光客がはしゃぐなんて、日常茶飯事だ。そういう彼らを観る度に、レイチェルはつられて楽しくなる。だが、あのティーンエイジャー達は、何かが違う。
1人だけ12か13歳くらいで、あとはみんな15歳以上。
彼らは全員、笑い合っている。だけど、さっきから飲み続けているのは最年少の子ばかりだ。ゲームなら、全員で参加するはず。
1人だけに集中しているのは、余程の人気者か、生け贄か。
レイチェルへのカクテルを差し出しながら、バーテンも彼らを見た。
「アルコールは飲んでいないみたいね」
レイチェルの言葉に、バーテンは頷いた。
この店では、アルコールとソフトドリンクでグラスを分けている。彼らが持っているグラスは、全部ソフトドリンク用の細長い形をしていた。
今、また一人と飲み終わった。拍手喝采。せっかく盛り上がっているパートなのに、打ち消されてしまった。レイチェルは、観察するというより睨むような目つきになった。
―――いけないいけない。カクテルで落ち着こう。
最年少くんは、空になったグラスを年上の少年へ差し出した。
空のグラスを持った年上くんは、ティーンエイジャーの群れから離れた。カウンター席からも離れ、すいすいとテーブル席へ移動していく。
「本命は、あちらにいそうですね」
バーテンに小声で話しかけられ、危うくグラスを落としそうになった。どうやら、彼もレイチェルと同じように、年上くんに目を付けたらしい。
カウンターを見れば、バーテンたちがアイコンタクトを交わしていた。さり気なく動きながら、しっかりと目だけで行動を決める。こういうところも、この店のいいところだ。
カクテルをちびちびと舐めながら、レイチェルはもう一度ティーンエイジャーたちを見た。飲み続けて疲れたのか、最年少くんは、カウンターの椅子に寄りかかりながら「もういいよ」と手を振っている。まあいいじゃないか、と勧める少年。だが最年少くんは、俯いて首を振った。
ぐらり、と彼の身体が傾いた。本人も気付いて、元の姿勢に戻ろうとするが、またも大きくぐらりと傾く。
―――あれって……酔っている?
思わず立ち上がったレイチェルだが、新たな事実に気付いてゾッとした。
1番年下の子の様子がおかしいのに、ティーンエイジャーたちは誰も動かないのだ。大丈夫かとかしっかりしろよとか、そういう声は聞こえる。だけどそれは、すべて笑い声と共に発せられていて、心配という感情がない。
カウンター席の何人かの成人男性が、彼らへ注意を向けた。彼らとバーテンの人数がいれば、レイチェルが加勢してもやりやすいだろう。
ティーンエイジャーの一人が、最年少くんへ手を伸ばそうとして、弾かれたように逃げ出した。
「お前ら! なんてことしてくれたんだ!!」
「ずらかるぞ!!」
テーブル席を立った成人男性と、それを追いかけるバーテン。彼らが怒鳴った瞬間、ティーンエイジャーたちは、最年少くんを残して入口へ駈け出した。
カウンター席の客たちは、体当たりをしたり、華麗なアクションを駆使したりと、さまざまな方法で彼らの足止めをした。ちなみにレイチェルは、1番背が高い少年へ足払いをかけた。
あっという間に大騒動に包まれた店内。ステージの演奏も、アップテンポな曲へと切り替えた。テーブル席の客たちは、このハプニングに興奮し、参加したり野次を飛ばしたりとさまざまな反応を示した。
あまりにも興奮過ぎていて、最年少くんのことなんて、忘れられていた。
すぐ後ろで乱闘が始まったレイチェルは、人気のないスペースへ避難した。さすがに、重量級の相手はしたくない。
人がいなくなったスペースは、騒ぎの発端になった場所だった。カウンター席の奥。そこに、最年少くんがぐったりと椅子にもたれ掛っていた。
「ねえ! お水持って来て!!」
カウンターへ怒鳴るようにオーダーを入れると、レイチェルは膝をついた。
最年少くんの顔は赤く、目を閉じて呻きながら、頭をゆらゆら揺らしている。
「ねえ! 大丈夫? わたしの声、聞こえる?」
「ん。……きこえる」
目を閉じたまま、最年少くんはガクンと首を前に倒した。頷いたつもりらしい。
すぐに頭を元の位置に戻すと、年嵩のバーテンが、グラスに注いだ水を持ってきた。引っ掴むように受け取り、最年少くんへ突き出す。
「ほら、お水飲んで。楽になるから」
「……ねむい」
「いいから飲んで」
「んー……」
唸り声をあげる唇に、レイチェルはグラスを押し付けた。意外にも、最年少くんはすんなりとグラスを受け取ってくれた。
「これを飲んだら、家に連絡するからね。ご家族の人に、迎えに来てもらいましょ」
「この子、確か父親と待ち合わせしていると言ってましたよ」
バーテンの説明に、レイチェルはほっとした。事情を説明するのは気が重いが、彼は危機を脱したのだから、よしとしよう。
興奮状態にあった店内は、少し落ち着きを取り戻していた。何人かの客が、最年少くんを気遣わしげに見ている。
水を飲み干した最年少くんへ、レイチェルは声をかけた。
「ねえ、キミ。名前は? どこから来たの?」
最年少くんは答えてくれた。外国語で。
周りの客たちも、きょとんとしている。どうやら、ここにいる全員が知らない言語のようだ。
「私の言葉、分かる? ホテルはどこ?」
「―――、ミレニアム・ブロード・ウェイ」
今度は英語で返してくれた。
待ち合わせている父親が店にいない為、最年少くんはホテルへ送られることになった。
千鳥足になっている最年少くんに肩を貸しながら、レイチェルはタクシーに乗った。
「いいんですか、お客さん」
気遣わしげなバーテンへ、レイチェルは手を振った。乗りかかった船だ。ちゃんと見届けておかないと、翌日の気分が晴れない。最年少くんの脈拍も呼吸も異常はなかったが、多分、明日は二日酔いになるかも知れないな。
ちなみに、タクシー代諸々は、きっちり彼の保護者に請求するつもりだ。
「ええと、ホテルの名前をもう一度言ってくれる?」
「トリップ・バイ・ウィンダム・ニューヨーク・タイムズ・スクエア」
さっきと違う。
「も、もう一度、言ってくれる?」
「ニューヨーク・マリオット・マーキース」
タクシー運転手も、怪訝な顔をしている。
「おい、ボーズ。自分がどこから来たのか、分かんねえのか?」
「ここよりずっと……」
答えはそこで途切れた。最年少くんは、座席シートにもたれ掛った。突然のことに、レイチェルは慌てて脈を取り、呼吸を調べた。脈拍は正常で、呼吸は非常に穏やかだ。
最年少くんは、完璧に寝入っていた。引っ叩いても怒鳴っても、起きる気配はない。
「どうすんの、この子!」
「どうするっつわれてもなあ……」
喚くレイチェルに、運転手も困ったように鼻を掻いた。
***
身体を伸ばすと、違和感があった。縦に伸ばした手はベッドの柱にぶつかり、横へ広げれば、手首から先にベッドがなかった。
目を開けると、シャンデリアではなく、シンプルな丸い電灯が見えた。身体を起こして辺りを見て、仰天した。
ゼーフィリヤは、全く知らない部屋にいた。白い壁に黒いカーペット。壁には、カラー写真が無造作に張られている。暖房も切ってあるようで、驚くほど寒い。着ているのは、シンプルなパジャマとガウンだった。ボタンはちぐはぐで、結び目もぐちゃぐちゃだから、寒く感じたのだろう。どちらも女性用のパステルカラーで、サイズはぶかぶかだ。
「えっと……なんで?」
思わず独り言が漏れた。だが、誰も答えてくれない。
ベッド下のスリッパを発見し、それに足を通す。もこもこした布地なのに、ひんやりと冷たい。指先をこすりながら、ゼーフィリヤはカーテンまで移動した。ダークグレイの遮光カーテンを引くと、明るい空と、電線とヨーロピアンなアパートメントが見えた。多分、通りをはさんで向かい合うように建っているのだろう。
通りに目を落とすと、スクールバスを待っている子どもたちや、スーツ姿で歩いている大人たちが見える。
子どもたちが学校へ行き、大人たちが会社へ行く時間―――そのことに気付いた瞬間、ゼーフィリヤは顔から血の気が引いた。やばい。公務に間に合わない!
かなり遠くにタイムズ・スクエアが見えた。とりあえず、自分はまだニューヨーク市内にいることに、ゼーフィリヤはほっとした。
カーテンを引いて部屋を見回すと、ベッド脇の椅子の上に、ゼーフィリヤが来ていた服が置かれていた。ドアを見れば、コートもハンガーに吊るしてある。
―――着替えたらお礼を言って、すぐに戻ろう。
―――絶対、叱られるんだろうなあ。僕が悪いんだけど。あーあ。
侍従たちから何を言われるのか。簡単に想像できてしまい、憂鬱なため息が出た。だが、気持ちとは裏腹に、ゼーフィリヤの足はすぐに椅子へと移動した。
しかし、ガウンを脱いだところで、ドアがノックされた。
****
結局、レイチェルは最年少くんを自宅まで連れ帰ることにした。
この寒空の下、10代の少年を放っておくのは忍びなかったし、警察へ預けるにしても、不安要素しかなかった。外国人の子どもで、飲酒してて、英語も通じなくって。うん。良い扱いは受けそうにない。
ただ、最年少くんはタクシーの中で少し回復したらしい。レイチェルが住むアパートメントへ着くと、彼女の肩を借りながら歩いてくれた。パジャマも、半分くらいは自力で着てくれた。
途中途中で、何かモゴモゴと言っていたが、英語の時もあったし、外国語の時もあった。もしかしたら、スイスとかルクセンブルクとか、多言語を使うのが当たり前の国から来たのかもしれない。
最年少くんを寝かしつけた後、ウォッカ入りのホット・チョコレートを飲んで、レイチェルはリビングのソファで眠った。出張で使っている寝間着とヒートテックが、とても役に立った。
翌朝は、寒さのせいでとても早く目が覚めた。窓の向こうでは、まだ日の出ていない濃いコバルトブルーの空が広がっている。
熱いシャワーと濃いめのコーヒーで身体を暖め、TVを点けた。
≪ロイヤル・プリンス、NYにて風邪をひく?≫
≪高貴なる十二歳、ゼーフィリヤ殿下が体調不良に≫
≪前日まで快活な姿を見せていた王子が、突然の体調不良に!≫
≪今シーズンの流行病にご用心! ゼーフィリヤ王子が脅威にさらされる!≫
TVで流れる王子・ゼーフィリヤの映像に、レイチェルの目は釘付けになった。
「うちに、いるんですけど……」
―――いやいやいや、他人の空似じゃない?
落ち着くために、そおっと寝室へ入り、最年少くんの顔を見る。
見れば見るほど、TVが映すゼーフィリヤ王子その人だった。こんなそっくりさんが二人もいたら、そっちのほうがすごい。
寝室のドアを閉じたレイチェルは、仕事用のヘアクリップを取り出し、髪をまとめた。
―――彼がゼーフィリヤ王子だとしたら、昨日は、いわゆる“お忍び”てことよね?
―――品行方正な王子の、意外なプライベート。
―――このネタは……いくらになるんだろう?
売れるとは思うが、具体的な数字が想像つかなかった。なので、八時になるまでの間、レイチェルはケータイを前に悶々と悩むことになった。寝室から、王子が出てこないように祈りながら。
デジタル時計が8時を示した瞬間、レイチェルは速攻で部屋を出て、ボスへ電話した。
「すみません! 今日はちょっとお休みしたいんですが!!」
『せめて申し訳なさそうなフリくらいしろ!!』
突然の休みの申し出に、ボスはやっぱりいい返事をしなかった。当然だ。いきなり休むなんて非常識、許せるものではない。
「ところですね、王室関係のネタっていくらになるんでしょう?」
『なんだ、ゼーフィリヤ殿下の病状について、なんか掴んだのか?』
「いえ別に」
病気については知らないが、彼については、これから記事にする。だから、嘘はついていない。
「それで、いくらになるんです? 例えばそのう……彼の意外なプライベートショットとか」
『掴んだんだな? 早く寄越せ』
「たとえば、ですよ。たとえば」
『た・と・え・ば、ねえ』
ボスはゆったりと復唱した。疑り深い。
『ものにもよるが、写真一枚なら600ドルはいくだろうな』
「意外とするんですね」
『あの国はガードが固すぎるから、なかなか手に入らないんだよ。……それこそたとえば、伝統衣装を着ていない王族ってだけでも』
レイチェルは、寝室で寝ているゼーフィリヤを思い浮かべた。いや、あれはダメだ。ボタンを掛け違えた女性物のパジャマ、それも持ち主はレイチェルだ。飛び火しかねない。
『それで、お前が今日休む理由はなんだ?』
「えーっと……特ダネを探しに」
ボスは黙ってしまった。やばい、気付かれたかも。
『確実に取ってこないと、無断欠勤にするからな』
「がんばります!」
通話終了ボタンを押した途端、レイチェルは長いため息を吐いた。とりあえず、休みは確保できた。あとは、記事を書くライターが必要だ。
彼女へ電話を掛ける前に、レイチェルは部屋の中へ戻った。ゼーフィリヤは、まだ寝室の中にいるようで、廊下もリビングも静かだ。
念のため、起きていないか確認しようと、レイチェルは寝室のドアをノックした。
「どうぞ」
返事があった。
***
ドアから現れた女性は、レイチェル・ブラッドリーと名乗った。ゼーフィリヤの母親よりは若いが、姉というほど歳は近くないだろう。
名前を聞かれたゼーフィリヤは、咄嗟に<リーヤ>と偽名を名乗った。
「よく覚えていないんですけど、あなたがここまで運んでくれたんですか?」
「ええ、そうよ。具合はどう?」
「……えっと、少し、頭が痛いです」
正直に答えると、レイチェルはゼーフィリヤに近付いてきた。
「ちょっと失礼」
答える間もなく、彼女はゼーフィリヤへ手を伸ばす。避けようとすると、腕を掴まれた。額や頬を触られ、顔をじろじろと覗きこまれる。
「な、なんですか!?」
「ああ、ごめんね」
堪らず不満の声をあげれば、レイチェルはすぐに両手を離した。不審な目で見るが、まったく怯まずに彼女は続けた。
「あなた、昨夜お酒を飲まされたから、二日酔いになってないか心配で……」
「お酒!?」
「そう、お酒。昨夜、JAZZバーで」
レイチェルに言われ、ゼーフィリヤは昨夜のことを思い出す。
JAZZバーのカウンター席で、女の子に話しかけられた。親戚と一緒にNYへ旅行に来ていて、彼らとも話をした。ゼーフィリヤが知らない映画の話をたくさんしてくれて、旅の思い出として乾杯をした。古い映画に出てくる、少しカッコつけた飲み方をして……。そこから先が、上手く思い出せないことに、ゼーフィリヤは背筋が寒くなった。
「君に飲ませる分だけ、アルコールを混ぜていたみたい。多分、酔わせてからお金を取る気だったのかも」
「でも……あの子たちも僕も、子どもなのに」
「うん、たまにいるの。大人に指示されて、子どもを騙す子どもが」
なんでも無いことのように言われ、ゼーフィリヤは絶句した。膝に力が上手く入らなくなって、ベッドに座り込む。ホテルのより硬いから、そのまま倒れ込みはしなかった。
ちょっとした、冒険のつもりだった。深夜にもなっていない時間帯で、ガイドブックに載っている場所で、自分より少し年上の子たちと仲良くなって。危険を排除した上での、安全な遊びをしたつもりだったのに。
「大丈夫?」
顔を上げれば、ゼーフィリヤの視線に合わせるように、レイチェルが屈み込んでいた。
―――ああ、そうだ。この人がいたから、最悪の事態にならずに済んだんだ。
そのことに気付くと、ゼーフィリヤは笑顔を作った。落ち込んでいる気持ちはともかく、彼女の善意に感謝しなくてはならない。
立ち上がったゼーフィリヤは、レイチェルの目をまっすぐ見た。
「ご心配には及びません。……ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません。そして、助けてくださったこと、心より感謝いたします」
感謝の意を告げたのに、レイチェルは固まってしまった。反応に困っているようだ。なぜだろう。何か表現を間違えたか。
「えっと」
「あ、ごめん。……こんなに丁寧な言い方をされるとは、思っていなかったから」
しまった、とゼーフィリヤは己の失態に気付いた。自分がただの観光客ではないと知った途端、態度が変わってしまうのは嫌だ。変にかしこまられるのも、昨夜のことをネタにされるのも。
「学校では、こう教わりましたが……」
「そうなのよね。外国人の方が、丁寧な話し方ができるのよ。……アメリカ教育最大の欠点だわ」
はー、と肩をすくめるレイチェルを見て、ゼーフィリヤはほっとした。どうやら彼女は、これまでにも観光客から丁寧な話し方をされて、驚いたようだ。
その後、なんとゼーフィリヤはシャワーまで借りることになった。これから帰るにあたって、まずは身体を暖めた方がいい、と押し切られた。幸いにも服は汚れておらず、昨日と同じ格好でも気にならない。
朝食を採ろうとしたところで、レイチェルは冷蔵庫を覗き込み、固まってしまった。
「どうしました?」
「えっと……。ゴメン、朝ご飯なんだけど、これから外で食べない? ていうか、何食べたい?」
言いにくそうに切り出されたが、ゼーフィリヤにとっては、願ってもない提案だった。
****
財布を探すふりをして、レイチェルはちゃっかり小型カメラを身に付けた。腕時計に組み込まれているから、いじっても不自然ではない。
アパートメントのドアに鍵を掛けながら、レイチェルは念を押した。
「本当に、スタバでいいの?」
「はい!」
「NYで有名なベーグル屋とか、なんならカップケーキのお店とかもあるよ?」
鍵を鞄にしまい、ゼーフィリヤを見る。彼は首を横に振り、無邪気に笑った。
「スターバックスがいいんです。えっと、僕の国には、あんまりないから」
「……ああ。場所によっては、すごく少ないわよね」
言われてみれば、ゼーフィリヤの国にはスターバックスだけではなく、マクドナルドも進出していない。自国以外の企業は、徹底して排除しているのだ。
「映画によく出てくるから、一度は行ってみたくって」
「へえ、映画好きなんだ」
はしゃぐゼーフィリヤに、レイチェルは自然と笑みがこぼれた。王子の意外な趣味だ。
「ハリウッド映画、好き?」
「はい! SFとかアクションが特に」
「……もしかして、アメコミ系も好き? ミュータント・タートルズとか」
「飛行機の中で観ました。ゴジラも!」
―――高貴な12歳は、アメコミ系がお好き。……ゴジラは違うか。
レイチェルはスマホを取り出し、ささっと友人へメールを出した。【214Vストリートのスタバ、特ダネ有。すぐに来い】
エレベーターが到着すると、ゼーフィリヤは一歩遅れて入ってきた。どうやら操作が分からなかったようで、レイチェルがボタンを押す姿をマジマジと見ている。
「あなたは、最近どんな映画観ました?」
レイチェルは考え込んでしまった。実を言うと、最近の映画はあまり観ていない。もっぱら、昔見逃した映画をレンタルしてばっかりだ。
「す、少し前のしか観ていないかなぁ……」
―――恋愛映画の話題を子どもに振るのもなんだし、男の子だから『アナと雪の女王』は興味がないかもしれないし……えーっと。
「ナイト・ミュージアム、かな。そういえば、あの博物館は、もう行った?」
「はい。ティラノサウルスの実物が見られて、感激しました」
その時のことを思い出したのか、ゼーフィリヤはうっとりした表情になった。レイチェルは、TV画面を思い浮かべた。アメリカ自然史博物館に訪れた彼は、優雅に微笑んで、学芸員の話を聞いていた。
「学芸員と、映画の話は出来た?」
「いえ、あまり。……混んでいたから」
歯切れの悪い言い方だった。おそらく、勤勉な学芸員はティラノサウルスの学術的な話をしたし、ゼーフィリヤも真面目に聞いたのだろう。
アパートメントを出ると、冷たい空気が服の隙間から入り込んできた。寒さに慣れていないゼーフィリヤは、時々手や腕をさすりながら、レイチェルの隣を歩く。
レイチェルは彼に、当たり障りのない質問をした。観光客相手なら、普通に訊くようなことを。NYに来てどれくらい? どこへ行ったの? ご両親は何しているの?
ゼーフィリヤは、ときどき歯切れが悪くなったり、考え込んだりしながら答えてくれた。
一方的に質問ばかりしては警戒されるので、レイチェルはある程度、自分の事も話した。出身地はフィラデルフィア、NYでお気に入りの場所はメトロポリタン美術館。
「絵画が好きなんですか?」
「好きなのは彫刻。大好きな小説に出てきて、でも親は連れて行ってくれなかったから、大人になって自力で来たの」
「すごーい」
ゼーフィリヤは感嘆したように、息を吐いた。
レイチェルは、少しくすぐったい気持ちになった。もっとすごい夢を持ってNYへ上京した人を何人も知っているから、自分のちっぽけな動機が、感心されるとは思わなかったのだ。
「なんていう小説ですか?」
「えっと、カニグズバークの……あらぁ?」
わざとらしく声をあげれば、スターバックスの前にいた女性がレイチェルの方を向いた。顔は不機嫌だが、化粧も髪型もバッチリ決まっている。
「ウェンディ! 偶然じゃない」
「いやいや、あんたが呼んだんでしょー……ガッ」
余計なことを言いそうになった友人の足を、レイチェルはさり気なく蹴っ飛ばした。
「ウェンディもこれから朝ご飯? よかったら一緒にどう?」
呻き声で答えられた。
ゼーフィリヤを見れば、ぽかんとしていた。突然現れたウェンディに戸惑っているようだ。
「リーヤ、こちらはウェンディ。……司書をしているの」
「はあ? あたしはジャー……あ痛!」
「お店、ちょっと混んでいるみたいだから、一緒に食べようと思うんだけど、いいかな?」
「僕が邪魔じゃないなら……」
「邪魔じゃないわよ。ね、ウェンディ?」
レイチェルが念押しすると、ウェンディは睨んできた。だが、罪のないゼーフィリヤについては、すぐによそ行きの表情を作って「ええ」と頷いた。
「それで悪いんだけど、先に並んでてくれる? 私たちは席を確保してから、合流するから」
「分かりました」
ゼーフィリヤは店の中へ歩き出した。その後ろ姿へ、レイチェルは腕時計を構え、シャッターを切る。
「高貴なる12歳、スタバ、初体験」
「なんだってのよ。それ」
つねられた手の甲をさするウェンディに、レイチェルは身体を寄せた。
「あの子の顔、どっかで見たことない?」
「どっかって、どこよ?」
「新聞とかTVとか」
「売出し中の子役の記事をかかせるつもり?」
本当にジャーナリストなのか。レイチェルは呆れつつ、スマホのネット記事を友人に見せた。他人の記事を見せられて、ウェンディは眉間に皺を寄せたが、記事の写真を見て、目を見開いた。
「うっそ」
「現実なのよ、ラッキーなことに」
「どんな魔法を使ったの?」
「クリスマスになかった奇跡が、時間差でやって来たみたい。……ちなみにあの子、こっそり抜け出しているから、完全にプライベートよ」
「え。え、でも待って。この後、どうするの?」
「遊ばせるに決まっているでしょ。私服姿の写真1枚で600ドルよ。がっつり撮って特ダネにするんだから。説得、協力してくれるわよね?」
高速で首を振ってから、ウェンディは何度も深呼吸をした。
***
「もしかして、何か約束があるんですか?」
「えっ!?」
ゼーフィリヤが訊くと、向かいに座るレイチェルの肩が跳ねた。
「さっきから、腕時計をいじっているから」
「あ。あー……違うの、これは癖なのよ。今日は何の予定もないの」
レイチェルの答えに、ゼーフィリヤはほっとした。もし、予定があるのに自分に構っているのだとしたら、申し訳なかったから。
「リーヤくんは? ホテルに戻ったら、どこ行くの?」
右隣に座るウェンディに、ゼーフィリヤは少し考え込んだ。
多分、今日訪問するはずだった場所やインタビューはキャンセルになっている。今から戻っても、帰国のまでホテルにいるだけだ。出発までの間、ずーっとお説教されて。
「多分、どこにも行かないと思います」
「そっか。もう、あらかた巡っちゃって、あとは帰るだけってカンジ?」
「はい」
事実、自由の女神像をはじめとしたNYの名所は、ひととおり公務で見てきた。ところが、ウェンディは全く予想外のことを訊いてきた。
「スケート滑ったり、ブルックリンのカフェに行ったりしたんだ?」
どちらもしていない。
「夏のNYといえば野球観戦だけど、冬はスケートなのよ。スケート靴もレンタルできるし」
「もしかして、セントラル・パークで滑るんですか?」
ゼーフィリヤは想像した。通り過ぎるだけだったあの巨大な公園で、たくさんの人が滑っているところを。戻る前に、ちょっとだけ行ってみてもいいかもしれない。
ウェンディはちょっと考え込むように「そうねえ」と言って、カップに口を付けた。彼女が頼んだのはブレンドコーヒーだが、注文後にクリームや砂糖でいろいろカスタマイズしていた。初めて頼むゼーフィリヤに、メニューについて教えてくれたし、常連なのかもしれない。
「一番有名だし、広いのはあそこだけど、あたしはチェルシー・ピアがオススメかな」
「そっちの方が広いんですか?」
「ここから近いし、観光客が少ないからのびのびできんの。屋内だから手摺もあるし、初めての人はあそこがオススメ。滑った後は、近くのお店でランチも出来るし」
「ああ、そうね。セントラル・パークは広い分、大勢人が来るから、毎年衝突事故が起きるのよね」
ヨーグルトを混ぜながら、レイチェルが相槌を打った。彼女の朝ご飯は、三人中で一番少ない。豆乳ラテとグラノーラ&ヨーグルトだけ。ちなみにウェンディはサンドイッチとブレンドコーヒーで、ゼーフィリヤはキッシュとカフェオレを頼んだ。
「観光ってさ、自分での移動を除くと、基本的に受け身になりがちよね。お芝居もスポーツも博物館も、用意してもらったものを観んの」
ウェンディの説明は、もっともな部分があった。確かに、公務では常に与えられたものを『観る』ことに集中していた。準備をしてくれたのは、とても大変だったと思うし、有り難いと思う。博物館や会談も、楽しめる部分はあった。
「だから、最近は自分の身体を動かせるところが、結構注目されてんのよ。お祭りのダンスに参加したり、何かを作ったり」
「そうなんですか」
頷いて、ゼーフィリヤはカフェオレを一口飲んだ。この飲み物だって、キッシュだって、自分で注文して、自分でお金を払った。レイチェルは奢ると言ったが、断った。これ以上迷惑をかけることに申し訳ない気持ちと、自分でやりたい気持ちがあったから。
そうだ。選ぶこと。それが『足りない』ところだ。
今回の旅は公務で、遊びではない。それは分かっている。だけど、少ない時間を捻出してまで、ゼーフィリヤは『選んで』みたかったのだ。いつもと違うこと、体験できないことを。昨夜、それは達成した―――つもりだった。
「どうしたの? 考え込んで」
レイチェルに話しかけられ、ゼーフィリヤは彼女を見た。スプーンを持っていない方の手で、レイチェルは眉間を指さした。
「皺が寄っていたわ。なにか心配事?」
「いえ……。ちょっと……」
「うん?」
ゼーフィリヤから視線を外さず、レイチェルは首を傾けた。続きを促しているらしい。
言うだけ。言うだけだから、と自身に言い聞かせながら、ゼーフィリヤは続きを口にした。
「……もうちょっと、いろいろしたいなぁ、なんて、考えてました」
「ああ、わかるわ。帰りが近いと、まだしてないことを思い出すのよね」
レイチェルの言葉に、ウェンディが何度も頷いた。
「そうそう。もっとああしておけばとか、これやりたかったなとか……旅行の未練って、10年引きずるのよね。失恋以上よ」
「じゃあ、満足したら10年間は幸福なんですね」
「そうでもないかも」
レイチェルの言葉が、ゼーフィリヤには意外だった。
「10年どころか、一生の思い出になると思うな」
「一生はおおげさじゃない?」
怪訝な表情をするウェンディに、レイチェルは首を振った。
「私の祖母がね、物忘れが激しくなっちゃって、ついさっきのことは忘れちゃうのよ。でも、楽しかった昔の旅の思い出は忘れなくって、何度も何度も、話してくれるわ」
「おばあ様は、旅行が好きだったんですか?」
「ううん、生涯に2回だけ。友達と家出して遠くへ行ったときと、祖父との新婚旅行」
言いながら、レイチェルはくすくすと笑い出した。多分、彼女の祖母が話している時を思い出しているのだろう。
「何回も聞いてて、ちょっとうんざりするんだけど、話している祖母が楽しそうでね。今を忘れても、思い出すたびに幸福になれる過去があるのは、いいことかもって思える」
聴きながら、ゼーフィリヤは考えた。このまま戻ろうか、もう少しだけ、帰る時間を先延ばしにしようか。どちらなら、振り返った時に後悔が少ないだろう。
「あの、チェルシー・ピアって、ここからどう行けばいいんですか?」
****
ウェンディが言った通り、チェルシー・ピアは空いていた。初心者が滑って転んでも、ぶつかる心配はなさそうなほどに。
「すごいわね、リーヤくん! 本当にはじめて?」
「ありがとうございます。えへへ」
ウェンディに指導を受けたゼーフィリヤは、あっという間に滑れるようになり、リンクをすいすい移動していた。動いている内に熱くなってきたようで、コートは脱いでいる。
レイチェルは、リンクの隅っこで必死にバランスを取っていた。ぶれないように細心の注意を払いながら、並走するゼーフィリヤとウェンディへ腕時計を向ける。
1人でチェルシー・ピアへ行こうとするゼーフィリヤを、ウェンディと2人係りで説得した。彼女はスケート経験者なので、教師役として。レイチェルは「暇だから」というかなり苦しい言い訳で、なんとか同行へ持っていった。
―――思い出づくりなら、てことで強引に奢っちゃうしね。こうと決めたら押しが強いから、声をかけて正解だったな。
滑りながら、ゼーフィリヤは時々スピンの真似事をしていた。初心者であるレイチェルから見ても、まったく軸がぶれておらず、綺麗に回転している。ひょっとしたら、ジャンプも教えれば出来るかもしれない。
――――異国の王子、次の訪問地は銀盤! ……ひねりすぎて伝わらないか。
ただ、平日の朝なので、ゼーフィリヤと年の近い子どもがいないことが残念だった。せっかくなら、子ども同士で交流したほうがゼーフィリヤももっと楽しめて、いい表情が撮れただろう。
「ミズ・ブラッドリー!」
そんなことを考えていたら、ゼーフィリヤが近付いてきた。止まり方まで完璧だ。
「見てたわ。すごいわね、もっと練習したら、フィギュアスケートも出来そう」
「ありがとうございます。……あの、ミズ・ブラッドリーは大丈夫ですか?」
気を遣われていたことが申し訳なくて、レイチェルは言葉に詰まった。そこへ、豪快に笑いながら、ウェンディが近付いてきた。
「いやぁ、まさか立っているだけでやっとだとは思わなかったわ。陸でやるスポーツはそこそこなのに」
「ぐっ……」
レイチェルは反論できなかった。なにせ、片手を手摺から離しただけで、必ず転ぶのだ。もともと滑りやすい氷の上に、パンプスよりも不安定なスケート靴での移動は、想像以上にぐらぐらした。腕時計型カメラだけは死守したが。
そして、ゼーフィリヤの写真が撮れればいいや、と開き直ることにした。この仕事が終わってからでも、練習は出来る。
そのゼーフィリヤを見れば、少し考え込んでいた。伏し目で腕を組みしている姿は、本番前のフィギュアスケーターにも見える。
―――その姿、いただき。
「ミズ・ブラッドリー」
シャッターを切った瞬間、ゼーフィリヤに声をかけられた。
「は、はい!?」
「手を出してください」
時が止まった気がした。ウェンディを見れば、目を見開いている。
腕時計を見ないように意識しつつ、レイチェルは視線を泳がせた。どうやってごまかそう、何処を見よう。そんな考えが、頭の中でぐるぐるしている。
「片方は手すりにつかまったままで、もう片方を僕が持ちます。きっと、バランスを取りながら、少しずつ進んでみましょう」
「……。……そ、そっか。ありがとう」
一瞬にして、気が抜けた。ゼーフィリヤを見れば、曇りのない目でレイチェルに笑いかけていた。
「腕時計は、あたしが預かるわよ。大事なものなんだし」
「じゃ、お願いするわ」
渡す際、レイチェルは、レンズとシャッターの位置をハンドサインで伝えた。ウェンディはさり気なく頷くと、手を繋いだ二人の前に立ち、先導役になった。
ゼーフィリヤはレイチェルの手を取りながら、彼女のペースに合わせて、ゆっくりと進行していった。
「姿勢はできるだけまっすぐに。軽く氷を蹴ってみてください」
「う……は、はい」
ちょっとだけ、情けなかった。相手は一国の王子。年は10以上も下だし、背丈は低いし、手だってレイチェルより小さい男の子。
だけど、とまたレイチェルは思った。だけど、ゼーフィリヤに支えられ、アドバイスの通りに足を動かしていけば、だんだんと滑れるようになっていった。氷の表面を片足で蹴れば、残った足が滑る。今度は逆の足で蹴る。常に足を動かさない方が、かえって転びにくい。
「あ! なんか、分かって来たかも!」
「さすがです! その調子」
レイチェルの滑る距離が長くなればなるほど、ゼーフィリヤは嬉しそうに笑った。彼に比べたら、全然、出来がよくないのに。
結局、残り時間いっぱい、レイチェルはスケートリンクの入口から10メートル進めるようになった。たかが、10メートルなのに、ゼーフィリヤは自分のことのように喜んでくれた。
リンク傍のベンチで靴を履き替えながら、レイチェルは改めて、お礼を言った。
「ありがとう。……それと、ごめんね。結局、ほとんどの時間を私の練習に付き合せちゃって」
「いいんです。せっかくなら、滑れるようになった方が楽しいかなって」
レイチェルの言葉に、ゼーフィリヤは靴を履き替えながら、照れくさそうに笑った。
****
地下鉄のドアが閉まり、座席についた瞬間、レイチェルは小さく息を吐いた。美味しいものでお腹が満たされ、幸せだ。
「面白いところでしたね、チェルシー・マーケット」
「わたしも初めて行ったけど、面白かったわー」
旧ナビスコ工場を改造したフードマーケットは、お昼時にかなり混雑した。イートインでの席の確保や注文も苦労したが、ゼーフィリヤはそれさえも楽しんでいるようだった。
「なんていうか、リーヤくんって、もっと静かなところが好きだと思ったわ」
ウェンディのコメントに、ゼーフィリヤの肩が跳ねる。
「いつもなら、ちゃんとしたレストランでコース料理食べている感じ。……でしょ?」
何いきなり言い出すんだ、とレイチェルが睨みつけるが、ウェンディはしれっとしている。2人でゼーフィリヤをはさむように座っているから、今、レイチェルは彼の旋毛しか見えない。
「……僕は寄宿学校にいるから、食べるのは学食ばかりですよ」
「でも、家に帰った時は違うでしょ?」
「そうですね。……家か学食ばかりだから、ああやって食事したの、初めてです」
「家ではお母さんが作るの?」
「そういう時もあります」
ゼーフィリヤの解答を聞いて、レイチェルは気が付いた。嘘は言っていないが、本当のことも言っていない。そして、表情は笑っているが、どこか作り物めいて見える。
「お母さんじゃない人が作るって、どういう……」
「ウェンディの家みたいに、交替制にしているんじゃない?」
つい、口をはさんでしまった。案の定、ウェンディには微妙に嫌な顔をされた。ただ、ゼーフィリヤが「そうなんです」とほっとしたように頷いたので、申し訳ないけど、言ってよかったと思った。
ゼーフィリヤは大人しく座席に座り、広告や路面図を見ていた。なんてことない地下鉄なのに、ゆっくり首を回し、隅々まで見ているから、だんだん、ここが特別な地下鉄に思えてくる。だが、好奇心に輝いていた目に、緊張が走った。
彼の視線を追うと、ホームに数人の黒スーツの男性がいた。体つきや歩き方から、SPだろう。その内の1人と、レイチェルは目が合った。こちらへ近付いて来る!
「こっち来て!」
ほとんど反射的に、ゼーフィリヤの腕を引っ張っていた。それと同時に、SPが電車へ乗りこむ。
「え、なにごと?」
ウェンディがようやく事態を把握し、椅子から立ち上がる。駆け足で車両を移動すると、後ろから追いかける足音と怒声が来る。発車ベルギリギリのところで、レイチェルたちは電車から降りる。駆け込み乗車ならぬ、駆け出し降車だ。
「あー、焦った」
ウェンディが呑気なコメントをしたが、残念なことに、まだ終わっていない。
無事にホームへ降りたSPと最初からホームに残っていたSPがいた。挟み撃ちされそうな状況だ。どうしよう―――と考えていると、ゼーフィリヤが先に動いた。あろうことは、二人を置いてエスカレーターへ駈け出したのだ!
「え、うそ!?」
―――特ダネがぱあになる!
口には出さず、レイチェルとウェンディは同時に駆け出した。SP達には後れを取ったが、根性で取り戻そう。
せっかくのチャンスを『途中で捕まってしまったのでおしまい』なんて、つまらない終わり方にしたくない。その一心でわざわざ怪談を駆け上がり、SPを追い抜いて行く。1人で逃げていくゼーフィリヤは、エスカレーターから適当な通路へかけていった。
振り向きもしない。その態度に、レイチェルは少しムカッとした。だが、その気持ちはエスカレーターを上がってくるほうのSP達で発散する。八つ当たりだ。そして効率的だ。
整髪スプレーの缶を、エスカレーターへ転がした。先頭のSPが足場を崩し、後ろのSP達が支える。エスカレーターで追いかけてきたウェンディは、階段の方へ催涙スプレーを噴射していた。上にいるレイチェルへ、ウェンディは怒鳴りつける。
「早く行って!」
レイチェルは駆け出した。地上へ出る通路と、乗換用の通路。ゼーフィリヤは、どちらへ行った?
―――わたし達を置いて行くとは思えない。彼は捕まる気でいた。なら……
乗換用の通路を進むが、ちっともゼーフィリヤの姿が見えない。間違えたのだろうか。だとしたら、ウェンディに見つけてもらわないと。スマホを取り出し、電話をかける。その間にも、レイチェルは辺りを見回す。停車中の電車にも、ゼーフィリヤはいない。
たくさんの足音が聞こえ、レイチェルは駆け出した。思った通り、追いついたSP達が、ホームになだれ込んできた。3人ほど、レイチェルへ駆け寄ってくる。ただならぬ雰囲気に、周囲の人々は戸惑っている。
―――もしかして、もう捕まっちゃった?
通話は繋がらないのに、発車ベルが鳴った。たった1人で逃げることが、こんなにも心細いなんて、レイチェルは初めて知った。フェイントをかけるように、レイチェルは車両から一度離れる。
「ミズ・ブラッドリー!」
ゼーフィリヤは、いた。レイチェルへ向かって、手を差し伸べている。レイチェルは即座に彼の手を取り、車両へ駆け込んだ。
ベルが鳴り終わり、SP達の前で、ドアがぴしゃりと閉まった。
「あー……終わったわ」
息を切らせる二人に、周囲の人々が「ブラボー!」と声をかけてきた。どうやら、映画の撮影のように思われたらしい。
とりあえず笑ってごまかしつつ、二人は人気のない車両へ移動した。静かなところで、レイチェルたちはぐったりして座席に腰を下ろした。
呼吸を整えていると、スマホが震えた。ウェンディからだ。
「とりあえず巻いたけど、逆方向の急行に乗っちゃったみたい」
「え!?」
「落ち合うのは難しそうね」
「ご、ごめんなさい。……俺の所為で」
半分はそうだけど、もう半分はレイチェルたちの所為だ。だから、躊躇いなく首を横に振った。
「あの人達は……学校の人?」
「そ、そう」
「厳しいところだと、ボディーガード雇って、脱走した生徒を連れ戻すって聞いたけど、本当なんだ」
「そうなんです」
レイチェルがでっちあげた適当な設定を、これ幸いとばかりに、ゼーフィリヤは必死で肯定した。
「礼儀作法とかすごく厳しくて、何人ものお目付け役に細かいところまで注意されて……好きなことも制限が」
「え。じゃあ、音楽もゲームも許可がないとできないの?」
「……はい」
気まずそうに、ゼーフィリヤは頷いた。
「映画は、だいぶ自由に見られるようになりましたけど」
ボソボソと付け足されたが、それはささやかすぎる自由だ。
「ねえ、もしかして抜け出してJAZZバーなんかに行ったのも」
「禁止、とまでいかなくても、聴こうとすると反対されるんです。……頭が悪くなるって」
ゼーフィリヤの説明に、レイチェルは頭を抱えた。そんな化石みたいな考え、まだ実在しているのか。
「でも、俺はそう思わなかった。演奏方法とか、確かにちょっと変わっているけど、でも、聴いててすごく楽しくなります」
「演奏したいとは、思わない?」
ゼーフィリヤは首を振った。忙しくて時間がないのか、説得しても意味がないのか。どちらなのだろう。
「でも、JAZZバーで生演奏聴けたから、よかったです」
レイチェルには、そうは思えなかった。
「ちゃんと、お酒を飲む前のことも覚えています。とっても、素敵な演奏でした」
目を伏せて、ゼーフィリヤは自分の握り合わせた手を見ている。レイチェルではなく、自分自身へ語りかけているようだ。これでいいんだ、満足だ、と。
そんな彼を見て、レイチェルは大人げないことを思いついた。
「ねえ、逃げちゃおっか?」
「……え」
冗談めかして提案すると、ゼーフィリヤは、目に見えて動揺した。虚を突かれ、視線をあちこちに泳がせる。
「でも、帰らないと……困る人が、いるから」
―――ああ。この子って、ホントに大人なんだなぁ。
どこか悲しい気持ちで、レイチェルはその事実に気付いてしまった。12歳のレイチェルだったら、「困る人がいる」なんて考えつかない。せいぜい、『親が怒る』か『親が困る』くらいだ。後者を想像して、少しいい気味だと思うかもしれない。そして、その期間は出来るだけ長い方がいい。
でも、ゼーフィリヤは違った。困ったように指先を擦り合わせ、なんとか自分の気持ちを、言葉にしようとしている。
「帰りたくないです、本当は」
ぽつり、とゼーフィリヤは呟いた。下手をしたら、地下鉄の騒音に掻き消されてしまう、小さな声で。
「でも、帰らないといけないんです」
「誰かが、困るから?」
「……そうです。俺、そんなこと考えて過ごすの、1日が限界なんです。弱いから」
「強いわよ、君は。すっごーく、我慢強い」
口を大袈裟に動かして言うと、ゼーフィリヤは笑った。
「褒められるなんて、思わなかったです」
***
2人並んで、地下鉄の入口へと向かう。行きは徒歩で、帰りは地下鉄で。最初に予定していた通りだ。時間は、予定より、だいぶ遅くなったけど。
「今日、すごく、楽しかったです」
ルートも、予定よりだいぶ違った。近付いて来る出口を見上げながら、ゼーフィリヤはその先を想像する。地上に出て、ホテルへ戻る。それから……
あまり楽しくない未来を振り払うように、レイチェルを見た。
「いろんなことを見るのはそうだけど、するのも、楽しかったです」
「そっか。……また、ニューヨークに来たい?」
「はい」
ゼーフィリヤが頷けば、レイチェルは静かに「そっか」とだけ返した。それきり、黙ってしまう。
冷たい風がどんどん強くなり、車のクラクションが大きくなる。地上が近い。
ちゃんと帰るつもりでいたのに、もう少しだけ、終わりの時間を伸ばしたくなった。ゼーフィリヤは、不意に今朝の会話を思い出した。
「あの、ミズ・ブラッドリー」
「うん?」
「今朝、言っていた、メトロポリタン美術館で見たかった彫刻って、どれですか?」
「天使像よ。製作者不明の」
ゼーフィリヤは、考え込むように口元に手を当てた。たくさんあった展示物、その中の彫刻を思い浮かべる。天使像はで製作者が不明のものが
「その小説の主人公はね、家出して、メトロポリタン美術館にこっそり忍び込んで……そこを隠れ家にして住んじゃうのよ」
「美術館に、家出!?」
素っ頓狂な声をあげるゼーフィリヤを見て、レイチェルは笑った。
「そう、びっくりよね。それで、生活している内に、天使像を見つけて、実はあれを作ったのは、かの有名なミケランジェロだったんじゃないか確かめる、てわけ」
声をあげた時以上に、ゼーフィリヤは驚いた。
メトロポリタン美術館の名物にして、謎多き天使像。製作者もその時代もよく分かっていない。その謎を解いたなんて、すごい本だ。
「どうやって解いたんですか?」
「それは……」
説明しようとして、レイチェルは口を閉ざした。
「できれば、読んで確かめた方がいいかな。それに、あのお話の本筋は、天使像の謎そのものじゃないのよ」
「それじゃあ、なにが……」
続きを訊こうとしたが、ゼーフィリヤは口を閉ざした。
紫がかった空からは赤みが消え、藍色が深くなっている。もう、戻らなくてはいけない時間だ。
「なに? 何を訊きたいの?」
ゼーフィリヤが訊けば、レイチェルは困った顔ひとつせず、答えてくれるだろう。親切な人だから。だからこそ、いつまでも甘えてはいけない。
戻ると決めたのは、ゼーフィリヤだから。
「なんていうタイトルですか?」
「『クローディアの秘密』よ」
言いながら、レイチェルは人差し指をぴんと立てて、唇に当てた。ゼーフィリヤも真似る。上手く真似出来たからか、レイチェルは笑ってくれた。
「探してみます。……ありがとう、ミズ・ブラッドリー」
「どういたしまして」
「そして、さようなら」
ゼーフィリヤが切り出すと、レイチェルはほんの一瞬だけ、寂しそうな顔になった。その表情を見て、ゼーフィリヤは踏ん切りがついた。
―――寂しいのは、俺だけじゃないんだ。
すぐに笑顔に切り替えたレイチェルは、ゼーフィリヤへ手を振った。
「さようなら。気を付けてね」
ゼーフィリヤも手を振り返しながら、歩き出した。彼女との距離が離れる度に、道行く人とぶつからないように気を付ける。出来るだけ長い間、レイチェルを見続けていたかった。だけど、後ろを見ながら前進するのは、難しい。
結局、進んでいく内に人が増え、レイチェルの姿は見えなくなった。
ホテルの部屋へ戻ったゼーフィリヤを出迎えたのは、湯気が立ちそうなほど怒った侍従たちだった。
彼らを存分に怒鳴らせた後、静かにゼーフィリヤは告げた。
「皆に心配をかけたことは、詫びましょう。しかし、今日1日、何処にいたかを言うつもりはありません」
「それは少々、勝手が過ぎるのではありませんかな!?」
「勝手が許されぬ身だと知ったからこそ、戻ったのです。僕は王家の人間として、責務を果たします。これからも、今まで以上に」
****
人込みにもまれながら、レイチェルは会社の現像室へ向かった。もっと興奮するかと思ったが、意外にも、少し気分が落ち込んでいる。
―――疲れた、かな?
だが、身体は怠くない。もやもやしているのは、あくまで気持ちだ。そんな事を考えつつ、写真を現像した。手慣れた作業をしている内に、もやもやは少し軽くなった。
現像室から、明るいオフィスへ出る。既に退社時刻は過ぎているため、オフィスは静かだった。
インスタント・コーヒーを飲みながら、現像した写真を見る。我ながらいい出来だ。
食べている時や何気なく歩く姿は、育ちの良さがうかがえる。だが、スケートではしゃいだり、コスプレイヤーたちと映画ごっこに興じたりするさまは、普通のティーンエイジャーだ。
見ている内に、シャッターを切った時の状況やその前後のやりとりを思い出す。気付けば、1人で小さく笑っていた。
「ちっさい割に、よく撮れてんじゃーん」
「腕がいいからね」
ふふん、と胸を張れば、ウェンディは「よ! プロフェッショナル!」と持ち上げてきた。
ウェンディは、1枚の写真を手に取った。スター・バックスで朝食をとるゼーフィリヤだ。
「スター・バックス、王室御用達しに昇格?」
笑いながら、レイチェルは思い出す。ゼーフィリヤは、あの硬くて厚いキッシュを、器用に切り分けて食べていた。
「これは―――王子、銀盤の舞踏会へ」
レイチェルの手を引くゼーフィリヤがいた。
「ちょ、いつの間に!」
「あたしの腕もなかなかよね。……だーいじょうぶ、本誌に使うのはこっちだから」
ウェンディが差し出した別の写真を見て、レイチェルはほっとした。あの写真が世に出回るなんて、堪えられない。
「あ! これもいいんじゃない?」
ウェンディは次々と写真を手にとっては、見出しと簡単な記事の概要を口にしていく。とうとう、ノートを取り出して、紙面のレイアウトまで考え始めた。
その仕事ぶりを見ていると、明日載りそうな記事が、ありありと想像できた。レイチェルが撮った写真が、どの位置で、どれくらい拡大されて、どんな風に報道されていくか。そして、その熱風はいつまで続くのか。
「記事も写真も高く売れるだろうし、しばらくはバカンスに行けちゃうわねー」
「いいわねえ、バカンス。どこに……」
相槌を打ちながら、レイチェルはそこから先を続けられなかった。うっかり、想像してしまったのだ。
楽しいはずのバカンス。日常から抜け出し、カメラマンではないレイチェルを、後日、知らない誰かが、面白半分の記事にしたら。
―――祖母は、たまたま良い方にボケてくれたけど。大叔母さんは、いつも『楽しかった後の嫌な出来事』をずっと覚えていたな。結婚式も、旅行も、子どもの卒業式も。
最後に2人で階段を上がった時を思い出す。レイチェルは、もう少しだけ、彼に『クローディアの秘密』について教えてあげたかった。けれど、ゼーフィリヤは地上に出ると、寂しそうに笑って帰っていった。何度もこちらを振り返りながら。
―――あの思い出も、みんなに見せてしまうの?
「起こされた時はマジふざけんなって思ったけど、写真1枚で600ドルになるんだから、早起きも得よね」
ウェンディの言葉に、だんだん、気持ちが冷えていく。
さっきまで上出来だと思っていた写真が、とても嫌なものに見える。いろんな場所で、いろんな表情をしていた。その時その時、彼自身の気持ちが、素直に出ている。
「王子もあんたに懐いていたしね。出会ったのがアタシだったら、こうはいかないわ」
この写真を大勢の人に見せる。そう思っただけで、写真に触れるレイチェルの指先は、冷たくなっていく。それは嫌だ、と強い拒否感も。
「それにしても、よくあんなたとえ話思いついたわよね」
「たとえ話?」
「ボケちゃったおばあちゃんが覚えている、たった2回の旅行」
「……たとえ話じゃ、ないのよ」
否定する声は、思ったよりも硬いものになった。ウェンディの顔色が変わる。気まずそうに目を泳がせて、小さく「ごめん」と言われた。
レイチェルは首を振った。
今、たった今、分かった。ウェンディが気づかせてくれた。どうして自己嫌悪に陥ったのか。どうして、自分の写真が急に嫌なものに見えたのか。
そして同時に、解決方法は、親友を裏切る行為だとも、気付いてしまった。
「ごめん。これ、記事にはできない」
「は?」
案の定、ウェンディは固まってしまった。
「え。待って、なんで? アタシじゃダメだった?」
「違う、違うのウェンディ」
首を振りながら、レイチェルはウェンディを見る。
「記事には、したくない。彼が、これからずっと振り返る思い出を、お金にしたくないの」
―――たった2回の旅行が、10年どころか、一生の思い出になる。
レイチェルの祖母の話で、ゼーフィリヤはお忍びを決めた。彼は言っていた『こんなに好きなように動いたのは、人生で初めてです』と。
まだ12年しか生きていないのに、初めて。では、この先は? 今日以上に、自由を満喫できるのだろうか? 開国間もない、次期王位継承者として?
そこまで考えたら、レイチェルは、写真も記事も公開したくない。公開して、彼が傷付いたら、きっとレイチェルは自分の仕事が―――自分が許せなくなりそうだ。
どうしようもないほど、ワガママな結論だった。
「ウェンディ、ごめん……。ごめんなさい」
「……それでいいの? 本当に、よく考えた?」
怒るでもなく、優しいのでもなく。ウェンディの、感情をあまり感じさせない、平坦な声が聞こえる。その声音が、レイチェルの目から溢れる涙を、なんとか踏みとどまらせた。
「昨日一日、仕事も休んでもらって、いろいろ助けてくれた。……それには本当に、感謝しているし、申し訳ないと思う」
顔を上げると、腕を組んでいるウェンディと目が合った。
「でも、ごめんなさい。彼のことを―――彼が過ごした休日を、記事にしたくないの」
ウェンディは無表情で、レイチェルを見つめる。レイチェルも、真っ直ぐに彼女を見返した。
「……モデルとの合コン。オールド・ホームステッド・ステーキハウスでおごり。バター・レーン・ベーカリーのカップケーキ。アサヒビール。ジャムウのアロマ。ラックタシードのボディスクラブ」
指を折って数え終えたウェンディは、唇を尖らせて、腕を組んだ。
「とりあえず、この6つを揃えてよね」
「……任せて」
優しい友人を持って幸せだ。レイチェルは、泣くのを堪え、笑って親指を立てた。
***
会場についたゼーフィリヤは、危うく「あ」と驚きの声をあげそうになった。
記者たちの中に、レイチェルとウェンディの姿が見えたのだ。
―――知っていたんだ、俺のこと。
思い返してみれば、レイチェルは一度もゼーフィリヤを『リーヤ』と呼ばなかった。ウェンディの流れるような質問は、本業がジャーナリストだからか。
―――昨日のこと、記事にするのかな。
少し不安を抱えながら、演説を始めた。
****
「いろいろな国へ行き、さまざまなものを見聞きしました。中には、持ち帰りたくなるくらい、素晴らしいものもありました」
ここでゼーフィリヤが笑ったので、記者団たちも笑った。一瞬だけ、ゼーフィリヤはレイチェルと目を合わせた。
「だから、思い出として、記憶として持ち帰らせてください」
声音は、先ほどと同じように穏やかなものだった。レイチェルは、目尻がじんわりと濡れてきた事に気付いた。マスカラがちょっと滲んでいるかもしれない。でも、そんなことより、ゼーフィリヤに頷く方が先だ。
―――大丈夫。記事になんか、しないから。
レイチェルが何度も首を振ると、ゼーフィリヤは少しホッとしたように、息を吐いた。
「今回の訪問は、これからの我が国と他の国々との、よりよい繋がりを作るために、とても意義あるものでした。意義あるものであったと語れる未来を、私は築いていきたいと思います」
ゼーフィリヤはもう、別の記者を見ている。レイチェル以外の記者を、1人1人、穏やかに微笑んで見つめながら、演説を続ける。
「勿論、それは1人ではできません。国と国、国民の友好があればこそ、です。そして、まずは私から、友好を示していきたいと思います」
大きな拍手と、眩いフラッシュがゼーフィリヤを包む。レイチェルも負けじと、ゼーフィリヤをシャッターへ収める。昨日とは違う、王族然とした彼を。
***
各社ごとに、ゼーフィリヤへの簡単な挨拶をする時間になった。ウェンディの番になると、彼女はいきなりやってくれた。
「ペーハーコリント社のグレッグです。殿下のご快復、心よりお喜び申し上げます。僭越ながら、殿下にお渡ししたいものがございます」
「勝手な贈り物は……」
侍従が前に出ようとするが、ゼーフィリヤは視線だけで制した。
「お心遣い、感謝致します」
「こちらです」
まず、ウェンディが封筒を差し出した。中を開けると、ゼーフィリヤを撮った写真が数枚、出てきた。大口を開けてキッシュを食べ、スケートリンクを滑り、コーヒーに苦い顔をする。気付かなかった。同時に、なんだかくすぐったくなった。
ウェンディを見れば、彼女はにっこり笑って、レイチェルを指さした。正確には、腕時計を。
レイチェルと目が合い、ゼーフィリヤはあえて頬を膨らませる。気まずそうに身をよじるレイチェルを見て、すぐに笑顔に戻す。途端、彼女も安心したように微笑んだ。
「ペーハーコリント社のブラッドリーです。社員一同、心から、今後の殿下並びに王家の皆々様のご健康とご発展をお祈りしております」
「感謝いたします」
レイチェルは、完璧な最高敬語を話した。答えるゼーフィリヤも、王族らしく敬語で返す。
今のゼーフィリヤはリーヤではない。レイチェルが発している言葉も、彼女個人ではなく、ペーハーコリント社としての言葉だ。
昨日のような口調で話すことは、きっと、これから先、一生ないのだろう。そのことを寂しく思っていると、レイチェルが1冊の本を差し出した。
「最後になりますが、贈り物がございます。わたくし個人から、殿下へ」
「どうも、ありがとうございます」
受け取ってすぐに、ゼーフィリヤは中身を確認した。本のタイトルは、『クローディアの秘密』。レイチェルが好きな、メトロポリタン美術館へ家出した、女の子の話。
レイチェルを見れば、優しく微笑んでいた。
「とても素敵な物語です。きっと、殿下のお気に召すでしょう」
「……これ以上ないほどの、贈り物です」
ゼーフィリヤは、封筒と本を丁寧に指でなぞった。侍従が持ち運ぼうとするのを止め、皺にならないよう、大切に持つ。
自分の胸の中だけにしまおうとしていた思い出が、形になって返ってきた。
―――ありがとう、ミズ・ブラッドリー。
ゼーフィリヤが背を向け、退場を始めたところで、会見はお開きとなった。
ぱらぱらと散っていく人混みに乗って、レイチェルとウェンディも、会場を後にする。
一度だけ、レイチェルは会場を振り返った。
ドアの向こうへ消えていく、ゼーフィリヤが見えた。彼はこちらへ振り返らない。
小さくなる背中を見て、レイチェルはまた正面を向いた。そのまま、ウェンディとくだらない話をしながら、会場から出て行った。
寒い、ある冬の日のことだった。
ホリデイ・イン・ニューヨーク~噓つきたちの休日~ 逢坂一加 @liddel
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