4.木の生えた廃ビル

『別に俺は構わないぞ』


 電話の向こうで、この一帯の管轄を行っている男は軽い調子で言った。


「随分あっさり言うじゃないか、秋月院。阿波の人間に管轄を踏み荒らされるんだぞ?」


 右手に持った携帯端末に話しかけながら、宗雪は意外そうな表情を浮かべる。それは当然相手には見えなかったが、まるでそれを見透かしたような言葉が返ってくる。


『まぁ普段なら断固として断るが、そっちの木のあたりは静かなんだろう?』

「あぁ、マシラとかも見ないな」

『その木が生えた影響か知らないが、こっちは色々なところでマシラが発生していてね、正直緊急度が高い方を片付けたい。お前がやるなら、ある程度信頼はあるしな』

「緊急度で判断したら、確かにその通りだな。じゃあこっちで調べ……」

『ちょっと待て』


 電話の向こうの声が宗雪を制止した。


『其処に、青也がいたりしないだろうな』

「なんでそんなこと聞くんだよ」

『こういうのを見て、しかも雨の日に、じっと大人しくしているとは思えない』

「それもそうだな」


 宗雪は傍らで意味のない鼻歌を歌っている青也を一瞥した。


「まぁ、いるけど」

『即刻追い返せ』

「なんでだよ、可哀想だろ」

『そういう問題じゃない。お前だってわかってるだろう、そいつの立場は』


 その言葉に対して宗雪は何も言わなかったが、電話の向こうの声は言い聞かせるような口調で続ける。


『青也は東都の中では自由が認められているが、それは完全なものじゃない。もし他流派の管轄で問題でも起こしてみろ。他の十妖老共が喜んで罰するぞ』

「まるであんたはその頭数に入っていないみたいじゃないか」

『俺は青也に関する扱いに賛成していない』

「反対もしてないけどな」


 間髪入れずに宗雪が指摘すると、相手は黙り込んだ。

 統帥職についておらず、しがらみが少ない宗雪は、青也に対する他の十妖老の振る舞いに一定の理解をしていた。


 恐らく、青也に対する処置が適切だと思っている者は少ない。しかしそれを誰も口にしないのは、その処置に反対するのが怖いからではない。

 十二年前に自らが裏青蓮院流に被せた罪を、今一度被ることを恐れている。


 非正当性を主張すれば、自分達の罪を認めることになる。

 だから誰もが、青也だけに負担を強いて黙り込み、毒にも薬にもならない「寛容」でもって見守っている。

 いつか本当に青也が罪人になることを願って。


「じゃあこうしよう。青也の身柄は東白扇が持つ。それなら文句ないだろ」

『それは雪正統帥も同意見か?』

「勿論」


 その場にいない人間について軽々と保障した宗雪は、相手の返事を待つ。何秒かの沈黙を挟んで、相手が承諾の台詞を吐くと、即座に通話を終了した。


「ったく、秋月院の野郎はこれだから苦手なんだよ。善人ぶりやがって」

「話終わった?」

「終わった。これ以上ここで立ち往生していても無駄だし、早いところ調査しちまおう」


 電話しているうちに、雨は一層激しくなっていた。地面に落ちては跳ね返る飛沫が、二人の足元を濡らしている。


 当分止みそうにない雨は、少なくとも青也のことを喜ばせ、宗雪を落胆させることだけは成功していた。


「雨の中で木登りとか、超最高じゃねぇ?」

「いや、最悪だろう。しかも何があるかわからないのに」

「なんで? 木も雨の方が嬉しいだろ?」

「だとしても人間まで嬉しくはならないんだよ」


 宗雪は傘を差したまま廃ビルの方に向かう。青也はその後を追いかけながら話しかけた。


「中から登んの?」

「外からでもいいんだけどな、野次馬共が煩いだろ」


 名実ともに潰れてしまったビルの入り口をくぐると、木が放つ泥のような臭いと、剥き出しになった鉄骨の匂いが二人の鼻をついた。

 宗雪はすぐ傍に赤錆の浮いた傘立てを見つけると、ビニール傘を畳んで放り込む。だが既に朽ちる寸前だったのか、傘が入った衝撃で外枠が音を立てて崩れた。


「随分放置されてるんだな、此処」


 肩を竦めながら宗雪が言うと、青也がそれに同意した。


「灼龍事件で経営者が死んで、そのまま倒産した会社のビルらしいぜ。さっき、オッサンが電話してる間に野次馬が話してるの聞こえた」

「へぇ。東都にはそういうの結構あるんだろうなぁ」


 ビルの中は、十二年も放置されている割には落書きや不法占拠の痕跡はなかった。木の根によって掻き混ぜられた壁や天井の隙間からは、大量のケーブルがはみ出しているが、電気が止まっているため危険度は低い。


「こっち側は登れないな。奥に入ろう」


 ビルの中にマシラの気配がないのを確認してから、宗雪は奥へ進む。ドアだったのか窓だったのかもわからない、ひしゃげた場所を潜り抜けると、デスクの並んだ部屋が現れた。


 二十メートル四方の広い空間は、灰色のデスクと椅子がその殆どを形成している。何故かコンピュータのマウスやキーボードだけがいくつも床に転がっていた。


 部屋を縦横する木の根は、入口の状態と比較すると安定しており、上に登るのも比較的容易になっている。


「デスクを踏み台にすればいけるか? って、青也?」

「なぁなぁ、面白いの見つけた」

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