第六話

 あれから一週間が経った。基礎練習を続けた結果、どこを押さえればどんな風に音が出るのかわかるようになった。

 左手の指先が爬虫類の皮膚の様に分厚くなり、感覚がなくなってきている。


「ベーシストの宿命だね」


 俺の指を触りながら鈴葉は嬉しそうに微笑む。柔らかそうな手に似合わず、鈴葉の指先も爬虫類の皮膚のように硬かい。


「今までこんなに生き生きしてるヒロくんみたことないよ」

「それちょっと失礼じゃないか?」

「カノンちゃんのおかげかな?」


 逃れようにも手を握られているのでそれはできない。てか、いまさら女の子に手を握られていることに気づいてドキドキしてしまう。穴を開けるほどにこちらを見る鈴葉からは甘い香りが漂っている。


「君たち、人の店で何してんのさ」


 店長が俺たちの間に顔を挟む。鬚面のどアップはそれなりにきつい。


「ベースを弾くことを許したが青春を許した覚えはないよ。ほら、離れて離れて」

「店長って鬚だるまみたいですね」

「う……」


 鈴葉からの強烈な一撃に表情が固まる。


「ワイルドを演じたいのはわかりますけど、ちょっと清潔感に欠けます。顔が綺麗になったらお客さんも来るかもしれないですよ」

「鈴葉それ以上は止めてやれ」

「はは、現役JKの貴重な意見として捉えるよ……」


 瀕死のダメージを受けた店長はよろめきながらバックヤードに消えていった。


「……私、変なこと言った?」

「言ってないけど……」


 ただオブラートに包むべきではあったよ。

 今日も相変わらず客が来ずに暇なのでアンプにつないでベースの練習をしている。部室のよりもアンプの質が天と地ほど違うのでバイトは貴重な練習時間になっていた。お金を貰って練習をするのは気が引けたが、鈴葉曰く音を鳴らしていればそれにつられて客が来るらしい。寧ろ静まり返っている楽器屋は信用できないのだとか。

 俺の音はまだ人様に聞かせて言い音ではないと思っているのだが。


「合わせてみる? 練習なら文句言われないだろうし」

「でも出来る曲なんて何も」

「大丈夫だよ。ジャズは即興演奏だから」


 そんなことを言われてもいきなりでは尻込みしてしまう。そうしている間に鈴葉はケースからギターを取り出して準備を進めている。

 今日は戸神は休みなのでドラムなしでやることになる。


「ドラムなしで出来る曲ってあるの?」

「あるよ。これならできる」


 その台詞を待ってました、と言わんばかりに差し出された楽譜。


「おーたむりーぶす?」

「そう。通称、枯葉。ジム・ホールとロン・カーターがデュオでこの曲を演奏してるの。語り合うような二人の演奏が心にしみじみと」

「じゃ、じゃあ枯葉でいこう」


 これ以上語らせたらきっと閉店まで止まらない。

 初めてのセッションに指が強張る。ベースを軽く撫でてから深呼吸をする。俺の緊張が伝わったのか、ベースも震えるような音をアンプから出す。

 アイコンタクトで合図をし、鈴葉が床をタップしてカウントを取り始めたその時だった。


「最悪のタイミングだな」


 店の電話が警報音のように店内に鳴り響く。

 無視するわけにもいかず、いったんベースを置いてカウンターに向かう。


「もしもし、こちら」

『部室に来て早く。鈴葉も一緒に』

「その声は戸神か? どうして……切れた」


 用件だけ素早く伝えると切れてしまう。


「あきちゃんなんだって?」

「部室に来てだって。鈴葉も一緒に」

「サプライズかな?」

「それは無いな」


 きっと良い事ではない。普段は感情の起伏の乏しい戸神が焦っているように聞こえたし、それに電話の奥で誰かが言い争っていた。

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