ナウ・ザ・タイム
第一話
幸い骨折はしておらず、二週間バンドで固定していれば問題ないとの診断だった。
しかし問題ないのは日常生活に置いてだけで、スポーツが出来るようになるまでは、早くても一カ月程かかると言われた。
今年度の大会は六月中旬から始まる。本番に向けて追い込みをかけるうえで、この一カ月は重要だった。その一カ月を俺はリハビリに当てることになる。
これで選抜落ちは確実だろう。
ショックじゃない。と言えば嘘になる。才能のある人間に敵うわけがないとわかっていても悔しかった。
しかしこれで良いと思う。嫌々続けても本気で取り組んでいる人たちに失礼なだけだ。
水泳から距離をとるいい機会だ。
「退部したい!? どうしたんだ、急に」
ゴールデンウィーク明け朝一番の出来事である。顧問に退部の旨を伝えると、意外なことに引き留められた。
「考え直せ。泳げなくてもできることはあるぞ」
「マネージャーとして残れということでしょうか」
「それは場合としてはありうる」
顧問は言葉を濁すが、選手登録や大会手続きなどをやれと言っているに等しい。
「まあ、怪我のことは気にするな。まだ来年があるだろう」
顧問が俺に期待をしていないのはわかっている。そんな泳ぎでタイムを伸ばすのは不可能だ。そう強く言いきったのは他ならぬ顧問だった。
「俺は泳ぎを変える気もありませんし、あのままで行くつもりです。それでも来年があると言えますか?」
痛いところを突かれたという様に、顧問は頭皮が露出した頭を掻いて視線を逸らす。
「まあ、何事もやってみないとわからんからな」
「では新しい事を始めたいと思います。やってみないとわからないので」
「やりたいことがあるのか?」
意外といった表所で目を丸くする。失礼にもほどがある。
「まあ、それなりに」
適当な言葉で誤魔化したがやりたいことは見つかっていない。
「そうか……」
しばらく渋い顔をしていた顧問だったが良い案を見つけたのか、さながら閃いた時に出る電球のように頭皮で蛍光灯の光を反射しながら手を打つ。
「休部にしよう。それが良い」
「いえ、もう水泳は」
「やりたいことが駄目だったら戻ってくればいい。休部の方が戻りやすいだろ」
戻りやすいではなく、戻しやすいの間違いではないだろうか。言葉にはしないが、口の中で呻る。結局のところ、顧問は面倒な事務作業をしている人材が欲しいだけのように感じる。
新しいことを始めようとしている生徒の背中を押すくらい出来なのだろうか。
「それにこのまま終わるのはお前も本意ではないだろう?」
「それはそうですが」
言葉に詰まる。ということは肯定という事になってしまう。
「じゃあ、そういう事にしとくからいつでも戻ってこい」
顧問は一瞬の隙を見逃さず、面倒な話を一方的に打ち切って職員室から出て行ってしまった。
ここまでが今朝の出来事。
思い返して溜息が漏れる。
どうしてきっぱりと言えなかったのか。
ゴールデンウィークすべて費やして決めたというのに。水泳は辞めると。
格好悪くぶら下がったところで才能のない俺にこれ以上の伸びしろはない。好きでやっているならまだしも……
未練なんてないはずなのに。
「前、進んでるんだけど」
良く通る透き通った声に暗い考えが吹き飛ばされる。俺が前に進まないことで列が滞ってしまっている。
「すみません」
急いで列を詰めて後ろの人に謝ると、腕を組んで今にも噛みつきそうな顔をした久瀬がこちらを見上げていた。今にも暴れ出しそうな猛獣の顔をしている。首からは出会ったきっかけとなった、革袋を下げていた。
「なに? じろじろ見て」
「何でもない」
「それにしても陰気な顔してるわね。食事がまずくりそう」
「なら購買にでも行けよ」
「どうして私が移らなきゃいけないのよ」
不遜な態度は今日も健在。どうやらこれが彼女の通常らしい。
食堂のおばちゃんに食券を渡し、かけそばを受け取る。そこで自分の注文が失敗だった事に気付いた。
右腕はバンドで固定されているため、トレイを片手で持たなくてはいけない。汁物ではなくて丼物にすべきだった。
「貸して」
そんな後悔をしていると、久瀬がひったくるようにトレイを奪って列を外れる。
「久瀬は頼まなくていいのかよ」
「また並び直す。それと久瀬って言わないで」
ゆっくりとした足取りで空いている席まで運ぶ。
「ありがとう」
「借りを返しただけだから」
貸した覚えはないけど、意外と律儀なんだな。
これで終わりかと思えば、久瀬は列に並び直すことはせず俺の前に座る。非常に食べづらい。
「怪我のこと、鈴葉には言ってないだろうな」
鈴葉には自宅の階段から落ちて怪我をしたと言ってある。準備中での怪我だと知ったら、鈴葉は確実に自分のことを責めるはずだ。俺の勝手な行動に責任を感じてほしくなかった。
「言えないわよ。こんな蛆虫みたいな顔した男に助けられたなんて」
「お前、少しは言葉を選べよ。ここ食堂だぞ」
自分で言うのもなんだが、俺の顔はそれなりに整っている方だと思う。決して汚い言葉で表されるような程じゃない。
「久瀬って呼ぶなとは言ったけど、お前って呼ばれるのはもっと嫌!」
そこまで大きな声を出したわけではないが、久瀬の圧倒的な存在感に周囲の視線が集まる。
羞恥心に圧されて大人しくなるのかと思ったが、彼女はそんな矮小な性根の持ち主ではないようで、鋭い視線で周りを威嚇し出した。
「いずらくなるんだけど」
「だからなに? ヒロが早く食べ終われば良いだけの話じゃない」
自分勝手にもほどがある。この子、友達少ないだろうな。
それにしても何の目的があって久瀬は俺の前に座っているのだろう。早く列に並び直してほしい。
かけそばが容赦なく汁を吸っていく。
「何よ。見てないでさっさと食べなさい」
「ハーフだよな?」
耐えかねて当たり前の質問をしてしまう。
「ママがアメリカ人。それが?」
「綺麗だなって思って。その髪」
「あ、当り前じゃない。地毛だもん。ただ目立ちたいだけのビッチとは一緒にしないで」
髪を染めた女子の敵対的な視線が久瀬に向けられる。そうやって無意識に敵を作ってしまうタイプか。それに俺を巻き込まないで欲しい。
直ぐにここを立ち去りたい一心で、かけそばを食べようとするが上手くいかない。左手の鍛錬不足だけが原因ではない。
「へたくそ。日本人なのに箸も使えないの」
「俺は右利きなんだよ」
「ごめん」
固定された右手をちらりと見てから怒られた子犬のようにしゅんとしてしまう。
「だったら私が食べさせてあげる」
「は? なんでそうなる?」
「こうなったのは私の所為だし。お箸使うの得意じゃないけど、頑張るから」
「遠慮するよ。別に箸で食べなきゃいけないわけじゃなし」
女の子に食べさせてもらうなんて恥ずかし過ぎて耐えられない。
「でも」
「フォーク使えば、ほら、余裕だし」
「わかった」
ようやく引き下がってくれる。初対面で受けた印象とは随分と変わっていた。
「別にお前が気にする必要ないから。俺が勝手にやったことだし」
「またお前って言った」
「じゃあなんて呼べば良いんだよ。久瀬さんは駄目だし、カノンって呼べばいいのか?」
「それで良いのよ」
どんな罵られ方をされるのかと思ったが、あっさりと受け入れられてしまった。ハーフだから向こうの文化も混ざっているだろうし、その辺りは気にならないのだろうか。鈴葉以外の女の子を下の名前で呼んだことがないのでちょっと恥ずかしい。
「なに? 嫌なの?」
「そうじゃないよ。じゃあ俺のことはヒロで」
「初めからそのつもりよ。じゃもう行くから。もっと栄養のある物食べなさい。ヒロ」
「母親か」
「そんな年じゃないし」
「そう言う意味じゃない。ジャパニーズジョークが通じないな」
「馬鹿にしないで。箸も上手く使えないくせに」
憤慨したカノンは席を立つと堂々とした歩みで食堂から出ていった。あの感じからして痛めた足はもう平気なようだ。
あんな変わり者がいると三軽も苦労するな。
たとえ大きな舞台の上だとしても、金色の髪が小さな彼女を映やすことだろう。いったいどんな音を出すのだろうか。
カノンが弾いている楽器も知らないくせに、そんな想像をめぐらせてしまう。
先日初めて経験したライブというものが身体に染みついていた。
それより食堂に来て飯も食わずに帰るって、いったいあいつは何をしに来たんだ。
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