7.言葉にせずとも
呼吸が浅く苦しそうに喘ぐ。全身の震えも止まらない。
右手で胸をギュッと押さえつけ、今にもその場に崩れそうになっている。
「ミコト! しっかり!」
ミコトの腕を自分の肩へ回し、弛緩しかかっているミコトの身体を支えて、何とか少しずつ歩みを進める。
このトンネルを抜ければ、直ぐ近くに藤野稲荷の境内へと続く上り階段がある。一旦、そこへ座らせでもして、ミコトを落ち着かせる必要があった。
「はぁ……はぁ……あ……ぐぅ……」
口の端からヨダレを垂らし、虚ろな目でやっとやっと歩いてはいるが、殆ど八雲に全体重を預けているような形で、恐らく自力では立っている事すらままならないだろう。
八雲はミコトを支えて一歩一歩ゆっくりと進みながら、先程の状況を頭の中で整理した。
確かにミコトは「通り抜けるくらいなら大丈夫」と言っていた。
しかし、それは飽くまで何事も無く歩いて通り抜けた場合の話だ。
ミコトの様子が急変する直前、素甘さんの車と思しき暴走車がミコトの脇をスレスレのところで通り過ぎて行った。
恐らくはミコトにとって因縁とも言うべきこのトンネルと、そこを通り抜けた猛スピードの乗用車。これらの条件が揃った事が鍵となり、幼き日の事故の記憶がフラッシュバックしたに違いない。
父親と二人で乗っていた車が、向かって来た飲酒運転の暴走車両と接触し、横転……。幼いミコトの眼前で父親の命が奪われた、あのシーンが今でもトラウマになっているのだ。
「まだ完全に克服したわけじゃ無かったのか……」
それを知っていたら恐ろしく遠回りになっても別のルートを選んでいたのに……。
八雲は迂闊にこの道を選んだ事を歯噛みして後悔した。
「ほら、ミコト。ここへ座って」
何とか藤野稲荷の階段までやって来ると、勢いで倒れてしまわないよう、しっかりと半身を支えながら階段の三段目辺りにミコトを座らせた。
幸い、階段の幅が腰掛けるのに丁度良い為、背もたれの無いベンチに座っているような形となった。
それでもミコトはガタガタと肩を震わせ、顎から滴り落ちるほどの脂汗を流している。
「うぐ……あ……はぁ……はぁ……」
「ミコト……大丈夫。大丈夫だから……」
懸命に肩と背中をさすってやるのだが、ミコトが落ち着きを取り戻す気配は無い。それどころか先程よりも苦悶に顔を歪めて喘いでいる。
「ミコト。ミコト……大丈夫だよ。僕がここに居るから。一緒に居るから……怖くないよ……」
しきりに呼びかけを繰り返す。
こういう時こそ自分がしっかりとミコトを守ってやらなければ……とは思うのだが、一向に改善の兆しを見せないミコトに、八雲もだんだんと焦りの色が出てきた。
そんな時……これまで言葉にならなかった喘ぎ声に混じって、ミコトが何かを言おうと口をパクパクさせている事に気づいた。
「ミコト! ほら! 僕はここに居るよ!」
ミコトの手をギュッと握って、何度も何度も呼びかける。
やがて……。
「はぁ……はぁ……や……く……もぉ……」
絞り出すように八雲の名を口にした。
それこそ、よぉく近くで聞いていなければ聞き取れない程の掠れ声ではあったが、確かに八雲を呼んだ。
「ミコト! 心配しなくても僕はどこにも行かないよ! いつだってミコトのそばに居るから!」
「はぁ……はぁ……こ……わい……よぉ……。や……くも……」
やはりミコトは脳裏に焼きついた過去の凄惨な場面に脅え切っている。八雲が直ぐ近くに居ることは分かっているようだが、恐らく彼女の意識はここではない別の場所に在るのだろう。
それは紛れもなく過去の事故現場。彼女の目には闇夜に横転して炎上する事故車が映っているに違いなかった。
「ミコト……そこは違うんだよ。ミコトが居るのは僕の居る場所なんだよ。ミコト!」
八雲は華奢なミコトの体を強く抱き締め、そして彼女の唇に自分の唇を合わせていた。
しばしの沈黙が続く。
無我夢中であった。
どれ程の時間、キスをしていたか分からない。ほんの数秒だったかもしれないし、数分間だったかもしれない。
いつしかミコトの震えは止まっていた。
八雲が握るミコトの手は弱々しくも、しっかりと握り返して来るのが分かった。
「ミコト……大丈夫……」
唇を離すと互いの唾液がツッと糸を引く。
ミコトはまだ呼吸が整っていないものの、先程のような苦しげな様子は無くなっていた。
「八雲……?」
潤んだ瞳で八雲の顔を見上げた。
何が起きたのか良く分かっていない様子で、まるで夢から覚めたばかりのような顔をしている。
そんなミコトの頭をサイドテールの下から手を回し、優しく撫でてやった。
ようやく我に返ったミコトは少しだけ頬を桜色に染める。
「あ……その……」
ミコトは何かを言いかけるが、八雲はそんなミコトを抱き寄せ、
「言わなくても十分に伝わってるよ。僕も同じ気持ちだから……」
彼女の頭に自分の頬を寄せた。
ミコトはまだ戸惑っている様子であったが、やがて同じように八雲の胸にもたれかかる。
「うん……」
こんなにも法悦と安堵に満ちたミコトの顔を見るのは八雲も初めてだったかもしれない。
いや、きっと誰も見た事の無いミコトの本当の素顔であろう。
「八雲……もう少し……このままで居させて……」
「うん……」
わざわざ改まって想いを告げる必要も無い。とっくに伝わっていたのだから……。
ミコトと八雲は階段に腰掛け、いつまでも寄り添っていた。
しかし、この時……ミコトは己れの中に来した別の変調に、まだ気づいていなかった。
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