レトロスペクション1

悲劇のその日

 ミコトとは漢字で「命」や「尊」と書く。

 あたしの両親は「命の尊さを理解できる優しい子に育って欲しい」という願いを込めて、「命」と「尊」の両方にかかるように片仮名で「ミコト」と名付けたのだそうだ。

 そのあたしが命の尊さを理解できるようになったのは、他の同年代の子たちよりも少し早かったかもしれない。

 もっとも、その時の記憶は酷く曖昧だ。八雲を襲った変異と対峙するまで、当時の記憶は殆ど残っていなかったほどだ。

 いや……正しくはショックのあまり記憶を封印していただけなんだけど……。


 あたしが五歳になる年のある日、パパは山梨県の湖へボートに乗りに行こうと誘ってくれた。

 あとで聞いた話だけど、パパは何でも行き当たりばったりで無計画。だから、その日も何の前触れもなく朝になって突然「行こう」と言い出したのだ。

 困ったのはママだ。

 突然言われて何の準備もしてないし、弟のリュウトだってまだ赤ん坊も同然だから、結局はパパとあたしの二人で行く事になった。


「富士山の見える山中湖やまなかこってところに行くよ。ミコト、この間ボートに乗ってみたいって言ってたろ?」


 いわゆる富士五湖のひとつだ。

 湖でボートに乗るだけなら、近場に相模湖さがみこという行楽地もあるのだけれど、どうせなら間近で富士山を見たいというパパの発案だった。

 あたしもまだ幼かったから、パパの言ってる事なんて半分も理解してなかったけど、その日は憧れのボートに乗れるという事で随分とはしゃいでいたっけ……。


 パパの運転する車で、あたしは後部座席に乗っていた。

 上野原インターチェンジから中央自動車道へ入り、大月ジャンクションから本線と分岐した富士吉田線へ入って南下……河口湖を通り過ぎて、山中湖まではおよそ一時間少々ってところだ。

 天気も良くて、あたしは行きの車中でかなりハイテンションになっていた。


「ミコト……お〜い。これからだってのに寝ちゃったのか?」


 車中で興奮し過ぎてしまったからなのだろう。到着する頃になると、あたしはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「しょうがないなぁ……」


 この辺りがパパの性格を象徴しているというか、あたしの性格がパパ譲りというか……一度決めた事は多少強引にでも実行するタイプで、眠ったままのあたしをパパは抱っこして貸しボート屋まで行き、手漕ぎボートで湖へと繰り出して行った。

 多分、ボートを漕ぎながら話しかけていれば、そのうちあたしも目を覚ますと考えたのだろう。

 確かにパパの目論見通り、あたしはボートの上で目を覚ました。

 けれど、それは貸しボートの残り時間が10分を切ったところだった。

 それでも……。


「わあ〜!」


 あたしはボートから水面に映る富士山、そして真っ正面に堂々とした姿で鎮座する本物の富士山を目の当たりにして、思わず歓声を上げた事をよく覚えている。

 時季的な事を考えれば初夏であったから、なかなかこの季節になると一面に晴れ渡った空の下で富士山を拝めるのは珍しいのだ。

 でも、その日は運命的と言ってしまうと大袈裟かもしれないけれど、一生の思い出になるような美しい富士の山が……そして逆さ富士がそこにあった。

 僅かな時間だったけど、あたしはボートの上で口を開けたまま、ずっと威風堂々としたその姿を眺めていたものだ。


 それからは遅めの昼食を取ったり、お土産屋さんを見て回ったりとしていた気がするが、あたしはよく覚えていない。

 とにかく富士山のインパクトが強烈で、ひと目で気に入ってしまっていた。


「あ〜たま〜をく〜もぉ〜の〜、う〜えに〜だぁ〜し〜」


 帰りの車の中では、ずっと『富士の山』を歌っていた。

 あたしはまだ知らなかった歌だったけど、あまりに富士山を気に入ってしまった事から、パパが教えてくれたんだった。

 だからパパも興奮冷めやらぬあたしに付き合って、運転しながらずっと一緒に歌ってくれた。


「随分、遅くなっちゃったね。こんな暗くなって来ちゃったのに『まだ帰って来ない!』ってママに叱られちゃいそうだなぁ」

「じゃあねぇ……あたしがパパのこと守ってあげる!」


 そんな事を話しながら笑っていた。

 あの運命のトンネルに差し掛かるまで……。

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