17 兄と妹 (最終話)
翌日。
「このっ! えいえいえいっ!」
時折、妹の声が聞こえてくる。
「ふははははッ! 当たらぬわッ!」
別の少女の声も聞こえてくる。
ポケットの携帯電話が鳴り、朔哉は喧噪の外へと出た。
十月にしては暖かい日差し。広い歩道を、大勢の人が行き交っている。
朔哉は通話ボタンに触れて、携帯電話を耳に押し当てた。
「はい、もしもし」
『あ、朔哉君? どう?
「いやその……会えたんですけど、なんか
『美優ちゃんと? 世羽らしいね』
ははは、と
「別に楽しそうだからいいんですけどね……」
なんとなく置いてきぼりな気分だ。
朔哉は、美優を連れて、秋葉原へと来ていた。
世羽や
悠人はマンションで療養中で、本当は朔哉一人で来るつもりだったのだが、美優が強硬に同行を主張した。今度のようなことがあって、離れがたくなったのだろう。それは朔哉も同じだった。
「悠人さんのほうは、どうです? 怪我、治りそうですか?」
『すぐには無理だね……。昨日の戦いで
「そう言えば、菜子さんには〈
『隠したまま付き合っている相手を、恋人とは呼べないよ』
昨夜、あのあと朔哉たち三人は、悠人のマンションへと戻った。
すると、玄関前に、悠人の恋人・
彼女の姿を見た瞬間に、悠人は気を失った。彼の怪我は常人なら即死でもおかしくないほどに深く、強靱な精神力で普通に振る舞っていたのが、菜子の笑顔を目にした途端に崩れてしまったのだ。
それだけ、菜子に対して心を許している、ということなのだろう。
そして、倒れそうになる悠人を支えた菜子もまた、彼を想っているようだった。
朔哉の腕は、医師を目指して医大に通っているという菜子に整復してもらい、一晩で回復した分の内力を使って、見た目だけは元どおりになった。骨や神経が接合されて機能を取り戻すには、まだ時間がかかりそうだが。
『それじゃあ、静流さんに会えたら、また電話をくれるかい?』
「はい、わかりました」
昨夜は電話を切り、ゲームセンターの中に戻った。
奥まったところにある、例の3D対戦格闘ゲームの筐体のほうへ行くと、
「やったぁー! お兄ちゃーん! 私、勝っちゃったぁ!」
美優が歓声を上げながら駆け寄ってきた。
「勝った? 世羽に? 凄いじゃないか!」
頭をわしわしと撫でて褒める。美優は「むふー」と満足そうな顔で笑った。
世界ランキング七位を相手に初プレイで勝てるなんて、美優にはゲーマーとしての才能があるのかもしれない……なんて考えてしまう朔哉は、やはり兄バカだった。
対して、初心者に敗北を喫した世羽は。
「ば……馬鹿な……!」
画面を凝視して、わなわなと震えていた。
「こ、これは何かの間違いだ。そうに決まって……ええい! 美優! 再戦だ! 今度こそ私の本気を見せつけてくれる!」
「いやいや。そんな時間ないよ。早くアヴェスタに行こうぜ」
「知るか! 静流なんぞ何時間でも待たせておけばいい!」
「それで三人揃って嫌味を言われるわけか? 俺はゴメンだぞ」
「ぐぬぬ……!」
世羽は唸り、コントローラのレバーをガチャガチャ弄って不満を露わにした。
そんな彼女に、美優が笑顔で言う。
「世羽ちゃん! とっても楽しかったよ! また一緒に遊ぼうね!」
「あ、当たり前だ! このまま勝ち逃げなんぞさせるか!」
小学生相手に本気でムキになる神の姿が、そこにあった。
見た目だけで言えば、仲のいいクラスメイト同士にしか見えないのだが。
そんなこんながあって、目的地のアヴェスタに着いた頃には、結局、約束の時間を過ぎていた。
開口一番、静流に謝罪した朔哉だったが、
「構いません。時計も読めない蛮人と約束などした私が愚かでした。どうぞ、愚かな私をお好きに罵ってください」
やはり、嫌味を言われた。
以前のメイド服とは違い、今日の静流は神社の巫女のような格好をしていた。ような、であって巫女ではない。膝上丈の袴を穿いた巫女などいない。
他の店員たちもメイドではなく、それぞれ違った雰囲気の衣装を纏っていた。
その多くに朔哉は見覚えがあったのだが、それもそのはず、現在アヴェスタがコラボしているのは、ついさっきまで美優と世羽が対戦していた、あのゲームである。
しかし、男性キャラの衣装まで女性店員が着用してるのは何故なのか、朔哉には理解が及ばなかった。
朔哉としては、メニューの名前が普通であることにほっとしたものの、美優が店員たちの衣装を目を輝かせながら見ていて、妙な趣味に目覚めなければいいんだけど、と気が気でなかった。
席に着き、朔哉が紅茶を、美優と世羽がケーキセットを注文し、それが運ばれてきてから、朔哉は昨日の顛末について語った。
昨日の今日ということもあって、整理できていない部分もあったが、世羽はチーズケーキを頬張り、静流はフィナンシェを食べながら、黙って聞いていた。
そして、話し終えると、世羽が一言、
「甘いな」
と、言った。
ケーキの味ではなく、イブリースを見逃したことを言っているのだ。
「ヤツは必ずまた現れるぞ。そして次こそ貴様を殺す」
「それはわかってるけど……」
「わかってない。今の話を聞く限りでは、昨日の戦いで“
正論過ぎて何も言い返せない。ぐうの音も出ない。
だけど、仕方がないのだ。見逃すという選択を選んでしまったのだから。
そのことに、朔哉はまだ後悔していないのだから。
もっとも、これから先も後悔せずにいられる保証はどこにもない。
「次の機会に、昨日のような幸運があると思うな」
世羽は、念を押すように、言う。
それから、腕を組み、何故か明後日の方向を見ながら、
「だが、まあ、こうして生きてはいるわけだ。まだ〈
「……へ?」
「なんだ、その顔は。言っておくが調子には乗るなよ。調子と呼ばれる煌びやかな台座の上は、貴様が思っている滑りやすく、転びやすいのだからな」
べしん、と頭を叩かれる。
予想外の褒め言葉は、少し、いや、かなり嬉しかった。
それで、ついニヤけてしまったら、もう一発叩かれた。
そんなじゃれ合いに水を差すかのように、
「悠人さん。貴方はご自身が巫女様の〈贄〉――すなわち、所有物であるという自覚に欠けていますね。巫女様と関わりのない理由で私闘を行い、ましてや敵を見逃すなど、本来ならば決して許されることではありません」
静流が冷たく言い放つ。
そんな言い方は、と言い返しかけて、朔哉は口を噤んだ。
朔哉は今日、静流に感謝の言葉を伝えたいと思っていた。
実際、彼女が仲介してくれて巫女の〈贄〉になったから、妹を取り戻せたのだ。力をくれた巫女にだって、感謝していた。
だが、それでもやはり、非人間扱いされるのは気持ちが悪かった。ましてや、巫女が自分を〈贄〉にした理由は、まだわからないのだ。
正体の知れない怪物に飼われているような、得も言われぬ恐怖があった。
「これからは、より自覚を持った行動をしていただかなくてはなりません。まずは、そう遠くないうちに、巫女様の〈贄〉としての仕事をいくつか、務めていただくこととなるでしょう」
「仕事……ですか?」
「そうです。主に巫女様の膝元たる神都・東京を穢さんとする不埒者どもの駆除が主となります。もちろん報酬もお支払いいたします」
不埒者どもの駆除。つまりは、巫女の敵と戦えということだろう。
朔哉は、やはり、と納得するのと同時に、そんな、とも思った。
「いつ仕事をお願いするかは分かりません。常時、備えを怠らぬように」
覚悟をしろ、と言うのだろう。
殺して殺される覚悟をしろ、と言うのだろう。
「はい……」
美優を取り戻すために選んだことだ。〈贄〉になったのを後悔はしない。
だが、覚悟を決めるには、時間がかかりそうだった。
と、朔哉と静流のやり取りを横で見ていた世羽が、
そして、静流の背後へと周り、何を思ったのか、
「おい、静流。貴様、また胸がデカくなったんじゃないのか?」
などと言って、静流の胸を両手でぐわっと掴む。
「ひゃんっ!?」
静流が甲高い悲鳴を上げて、澄ましていた顔が一気に赤く染まった。
客や店員が一斉にコチラのほうを見るが、世羽は全く意に介さず、
「むむむ! やはり大きくなっているではないか! 揉み応えがよくなっている!」
静流の胸をぐにぐにと揉みしだく。
「こんなに胸ばかり大きくしては、和装が似合わんではないか! 貴様こそレイヤーたる自覚を持て!」
「わ、わけのわからないことを……ひうぅ!? 早く離し、あひゃん!」
嬌声を上げ身を捩って逃れようとする静流は、激しく色っぽかった。
しかし、それを呆然と見ていた朔哉は、
「ぶっ……ぷふっ……!」
思わず噴き出していた。静流の悲鳴が、意外にも普通の女の子みたいな可愛らしい声で、それを何故かとても面白く感じてしまった。
ひょっとすると、世羽は朔哉を励ますために、こんな意味不明な行動に出たのかもしれない。ひどく乱暴、というか過激ではあるけれども。
世羽の思惑はどうあれ、朔哉は少しだけ元気を取り戻せた。
ところが、胸を弄くり回されている静流をじーっと見ていた美優が、
「ほぇぇ……静流さんって、おっぱい大きいね、お兄ちゃん!」
なんて無邪気な笑顔を向けてきて、
「え!? あ、ああ……その、まあ、なんだ……そ、そうか……なぁ……?」
朔哉はしどろもどろになりながら誤魔化すのだった。
◆ ◆ ◆
その夜。朔哉と美優は、二人きりでパーティーを開いた。
三日前に出来なかった、美優の誕生日パーティーである。
秋葉原から帰る途中で食材を買い込み、三日前からそのままだった台所を片付けて、二人で精一杯のご馳走を作った。
明日になれば、両親が出張から帰ってくる。
今夜は、兄と妹が二人きりで過ごせる、最後の夜だった。
「誕生日おめでとう。美優」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」
二人で作ったご馳走を、二人で並んで食べる。
お兄ちゃんは左手が動かせないんだから、と美優はお姉さんぶって朔哉の食事の世話をしたがり、朔哉は少しこそばゆい思いをした。
「お兄ちゃん♪ はい、あーん♪」
「あ、あーん……」
「……この唐揚げ、ミユが作ったんだよ? 美味しい?」
「むぐ……うん、美味しいです。料理、上手くなったなぁ」
家に帰ってきてから、美優は自分のことを「私」ではなく「ミユ」と呼んだ。
数年前までは当たり前だったその一人称を今日に限って使うのは、きっと兄に甘えたいからなのだろう。朔哉はそれを嬉しく感じたし、自分も今日くらいは妹に甘えてしまいたいと思った。
食事のあとには、お楽しみのプレゼント贈呈だ。
「わぁ……これ、ペンダント? すっごく綺麗!」
朔哉が少し緊張して渡したプレゼントに、美優は感激して目を輝かせた。
「ねぇねぇ、着けてみてもいい?」
「ああ、どうぞ」
「えっと、ここを、こうして……っと。んー、似合う? おかしくない?」
涙滴型の宝石が、美優の白い胸元を飾る。
ただそれだけで、自分の妹が突然に大人びて見え、朔哉は言葉を失った。
「お兄ちゃん? ……や、やっぱり変、かな……?」
「……え、あ、いや! 違うんだ! ちょっと感動して言葉が出なくて……」
感情を動かされたのは、嬉しさや喜びとは、多分、違う。
何か、とても美しくて尊い芸術品を前にしたかのような心地だった。同時に、自分と美優の間に距離が生まれたような、これから距離が生まれていく未来を見せられたような、そんな寂寥感もあった。
それらの感情の動きを表現すれば、やはりそれは「感動」と言うほかにない。
「感動? ちゃんと、似合ってる?」
「もちろんだ! 似合ってて、可愛いし、すごく綺麗だ。本当に」
「はう……も、もう……そんなに言われたら照れちゃうよ……」
その照れた表情に、朔哉はまた感動してしまい、目が潤むのを隠した。
「ずーっと大切にするね! ありがとう! お兄ちゃん!」
それから、二人は色んなゲームで遊んだ。
朔哉はオセロで五連敗したが、トランプのスピードでは無敗だった。
美優はボードゲームに強さを見せ、最終的な成績でもちょっぴり勝っていた。
たっぷり遊んだあと、久しぶりに二人で一緒に風呂に入った。
お互いをピカピカに洗いっこして、湯船で百数えてから上がる。
美優は朔哉に髪を拭いてもらいたがったが、左腕が動かせない朔哉では難しく、その代わりにと言って、美優が朔哉の頭をゴシゴシと拭いた。
そのあとで美優の髪もドライヤーで乾かした。ドライヤー嫌いの美優だが、
「お兄ちゃんにやってもらうなら、ドライヤーでもいいや」
と、現金なことを言って朔哉を笑わせた。
そんな楽しい夜は、あっという間に更ける。
二人は、朔哉の部屋の朔哉のベッドで、一緒に寝ることにした。
「お兄ちゃん、お勉強しなくていいの?」
「いいさ、今日くらいは」
「ミユ、今日初めて学校ズル休みしちゃった」
「俺だってズル休みだよ。ちょっとワクワクするよな」
「うん。ドキドキしちゃう」
並んで布団を被り、向かい合って、手を繋いだ。
今夜は、二人の間にクマのぬいぐるみはいない。美優の部屋で、悠人にもらったクマのぬいぐるみと、仲良く寝ていることだろう。
その悠人のことを思い出し、
「美優。悠人さんのこと……辛くないか?」
朔哉は自分のほうが辛いような声で、訊いた。
昨日、美優は、初恋の相手である悠人に恋人がいることを知ってしまった。
そして、悠人とその恋人がどれほど深く想い合っているかも、悟っただろう。
「ちょっとだけ……辛いかも」
「美優……」
「でもね、ミユは平気だよ」
きゅっ、と繋いだ手に力を込めて、
「ミユには、お兄ちゃんがいるもん。だから、平気なの」
嬉しくて泣きたくなってしまうようなことを、言う。
「俺は、悠人さんみたいにカッコよくないぞ?」
「えへへ、知らないの? ミユのお兄ちゃんってね、世界一カッコイイんだよ?」
口元をにやけさせながら、自慢げに言う。
本当に泣かす気か、と朔哉は思った。
「お兄ちゃん……もっと、近くに行っていい?」
「もちろん」
繋いだ手を離し、美優が密着するように擦り寄ってくる。
それに応え、朔哉は腕を美優の背に回し、包み込むように抱いた。
「んんー……いい匂いがするぅ」
猫のように顔を朔哉の胸に擦りつけ、美優が甘えた声を出す。
「美優だって、いい匂いがするぞ?」
「うー。頭の匂い嗅いじゃ駄目ー」
美優は、朔哉に思いっきり甘えていた。
そして朔哉も、美優に思いっきり甘えていた。
「……ねぇ、お兄ちゃん?」
「ん?」
「静流さんの言ってたお仕事……するの?」
美優は朔哉の胸に顔を押しつけていて、表情は窺えない。
「心配するなよ。まだ、どんな仕事かもわからないんだ」
「でも、昨日みたいに、戦うかもしれないんでしょ? 怪我、しちゃうよ……」
「大丈夫。もし、危ない仕事だったら、そんときは逃げちゃうからな」
美優が顔を上げて、きょとんとした表情で朔哉を見た。
「……逃げちゃうの?」
「そうだよ。俺だって、戦うのなんて嫌だからさ、遠くに逃げちゃう」
「ミユも連れて行ってくれる?」
「当たり前だろ。父さんも母さんも、悠人さんだって一緒だよ」
「そっかぁ。じゃあ、大丈夫だね」
眠そうな目で笑い、また美優は朔哉の胸に顔を埋める。
危なそうなら逃げてしまう。そんな言い訳を信じてくれたかはわからない。
でも、朔哉は美優に安心をあげたかった。
「何があっても、俺は美優と一緒にいるよ」
「うん……ミユもお兄ちゃんとずっと一緒がいい……」
朔哉が兄で、美優が妹であることは、何があろうと変わることはない。
理不尽な運命でも、二人が兄妹であるという事実だけは、変えられない。
たとえ死が二人を別とうとも。
永遠の絆で結ばれた、兄と妹。
「お兄ちゃん……大好き……」
やがて、妹は兄に抱かれて、安らかな寝息を立て始めた。
夜の闇の中で妹の体温を感じながら、朔哉は思う。
この先、自分にどんな運命が待っているだろうか、と。
戦うことになるだろう。それは間違いない。
そして、殺すことになるかもしれない。殺されることになるかもしれない。
不安が重くのしかかってくる。恐怖が心を震わせる。
だけど――
「お兄ちゃんが……クマさんになっちゃったよ…………えへへ、カワイイね……」
「はは……どんな夢を見てるんだか」
幸せそうな寝顔を浮かべる妹の髪を撫でる。
そうしていると、不安も恐怖も、消えてしまう。
だから、今はいい。
今だけは、先のことなど考えずに眠ろう。不安も恐怖も、後回しにしてしまおう。
幸せが、すぐ隣にある今だけは。
イブリースは、朔哉の幸せを壊そうとしていた。
けれど、皮肉なことに、彼女が壊そうとしてくれたお陰で、朔哉は自分の幸せがどこにあって、どんな形をしているのか、再確認できた。
篠突朔哉の幸せは、今、彼の腕の中で安らかな寝息を立てている。
人のまま、神のまま。 乙姫式 @otohimeshiki
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