流されるまま、枯木のごとく

柏木祥子

第1話 淡々としたプロローグ

 来年で大学生活も三年になる。

 最後の一枚となったカレンダーが目に入ったから、何となくそう思った。まっさらなカレンダーには何の予定も書かれておらず、自分の暇さ加減が分かる。十二月と言えばイベントも目白押しだろうに、本当に予定の一つも書いていないとは。

 折角だから何か書いてやろうかとちゃぶ台の上に放ってあった水性ペンをとってみる。…………三十一日に紅白とか? いやでも途中で年越しちゃうしなぁ。

 それに今年のみならず、最近の紅白はアイドルばかりで好かない。多分、小林幸子だけ見て他はなんか適当にチャンネルを回すだろう。それで紅白を見ると言えるだろうか。

 それからまた予定を立ててみようとした古子だったが、出てくるのは予定とは言えないようなものばかり。これぞ予定といえるものはない。強いて三日先に課題の提出期限があったが、夏休みの宿題も八月前に終わらせた古子である。とっくに提出済みだった。そうなるとほんとに予定がない。というか予定になりそうな物が無い。行き詰りを感じ、降参の意を込めて床へダイブした。視界の外で水性ペンがどっかに当たった。ころころころ、と水性ペンがこっちに転がってくる。欠陥住宅もいいところだ。

 辟易するほど床が冷たい。身を捩って逃げたくなる。しかしちゃぶ台の下に足を入れているので下手に動くとひっくり返してしまいそうでうかつに動けない。手探りで水性ペンを拾った。キャップを指で弄繰り回して気を紛らわせてみる。数秒で飽きた。

水性ペンがちゃぶ台の上を飛んでいく。

カコーン、と間抜けた音が聞こえた。着地失敗、負傷物一本。

うわくっだらねえ。

「…………笑ってしまうぜ」

 これぞ退廃、デカダンス。…………デカダンスって響きカッコイイな。

 どうだって良いことに意識を持っていかれている内に、体温が畳を温めてくれたらしい。未だ畳に残留する冷気はそれ程でもなく、このまま眠れそうだ。……いやいや。それを否定する考えで頭を振ろうとしたが、寝転がっていたために首が上手く稼働してくれない。軽く動かして、動きにくいから、と動くことを諦めた。これじゃ予定なんてできるわけがない。せめてもの抵抗として瞬きの回数を増やして寝に入らないよう努めてみる。ついでに頭の中で元素記号を順番に言ってみたり。すーいへーいりーべーぼーっくのっふねー

「ななまがーるしっぷす…………」

 ボーイズビーアンビシャス? か? 古子はガールだが。

 小さく、口ずさむように元素の名前を言っていく。イッテルビウムまで行って次が出てこなくなった。

「………………」

 瞬きを増やし忘れた。周期がいつも通りになっている。

 テレビもついていない。古子は黙っている。そうなると室内は基本的に無音で、外から聞こえてくる廃品回収のアナウンスが室内の音を支配していた。それが嫌だったから、古子はわざと聞こえるように息を吐いた。息と共に出たつばきが首筋に飛び、熱を奪う。

 だらーり、そんな擬音が聞こえそうな腕を動かしてつばきを拭った。

 ずりずりと滑り落ちていく腕を皮膚感覚で感じながら、一言。

「…………暇だ」

 今まで意識して避けていた言葉をついつい口にした。これ以外に言える言葉がなかったとはいえ、これは不味い。これではまるで暇人じゃないか。

 ほとんどない腹筋に力を入れて、体を持ち上げる。歯をくいしばり、何秒もかけて。

 髪で視界が塞がったが、気にしない。ちゃぶ台から体全体を捻り出し、長時間の休養の所為か逆に力の入らない足を叱咤してようやっと古子は立ち上がった。

「さて……。…………」

 ………………。部屋を見渡してみる。綺麗なもんだ、殺風景なぐらい。とりあえず目についたところへ行ってみることにして、まず冷蔵庫の前に立った。古い型だからかは知らないけれど、扉が重い。若干つっかかりながらも開いた。肉魚野菜調味料清涼飲料水菓子類氷菓漬物が完備されていた。とりあえずミネラルウォーターに少し口をつけた。

 とりあえず食物の心配はないようだ。口を拭ってまわれー、右。

「さてさて」

 郵便入れの中から色々と引っ張り出した。しろがねの皿、ドミノピッツァ、どうだって良い広告ばかりだ。料金の支払いとかそういうのないのか。などとがさごそやっていると数ある紙切れのうち一つに目が行く。

「これは…………」

 エルロイ・カンタルロイのパンフレットとおまけの人形、カンターくんだった。

 これに入れば悩み解決、定期的に予定ができることだろう。しかし昔から古物商と宗教だけは信じるなと教えられていた古子はそれを一機の紙飛行機にして飛ばした。飛行機は大体八十度ぐらいの角度で滑空し、畳の床にその鋭い先っぽを突き立てた。総飛距離は一Ⅿといったところだろうか、安全規格は確実にクリアできないだろう。拾って丸めてごみ箱へ捨てた。こっちの方が確実に飛距離が出る。

 そうやって部屋を回って用事を探してみるが、我ながら隙がないというかなんというか。家賃電気料金水道料金ガス代は滞納していないし、食品も過多と言えるほど。洗剤も予備付きで充実している。

必要なものは全部そろっていた。はっきり言って外に出る必要がない。別に用事がなくたって出てもいいだろう。そんなことぐらいは分かるけれど、あてもなくフラフラするのは性に合わない。行動するなら理由が欲しいところだ。

無性に座り込みたくなった。今日は休日だ。布団は敷いていないけれど、このまま寝てしまうのも一興かもしれない。寝て起きれば夕方になってるだろう。

いやでも、古子は暇だが暇人じゃない。休日じゃなければ大学に行くし、町内会の夜警だって積極的に参加している。バイトの面接に行こうとも思っている。

冷蔵庫の前に立ち、ミネラルウォーターを口元に当てて勢いよく傾けた。

流動する液状の物体がのどを潤す以前に胃へ向かって落下していく。小学生時代、水泳によって二年半にわたって鍛え上げられた肺は軽い息切れのみで約一リッターの水を飲み干させることに成功させた。そのまま二本目に口をつけ、同じように傾ける。今度は一本目程うまくもいかず、危うく噎せかけた。三本目……冷蔵庫の扉を閉めた。

「ムリムリ、ホントに無理。水中毒になるわ」

 分速十六ミリリッターは確実に超えるであろうスピードで水を飲んだ古子にまず襲い掛かったのは吐き気であった。次に襲い来るのは低ナトリウム血症である。

 いや冗談抜きに、死ぬ。人生は引き際が肝心だ。

 すかさず口に手を当てたくなったが、ああこりゃダメだ。今そんな速度で動かしたら間違いなく吐く。カクカクカク、とロボットみたいなスピードで足を動かし、手を動かし、どうにか楽に息がはけないかと体勢を変えてみる。最終的に足を交差し、両手で口を押えるという格好に落ち着いた。とんだリビング・スタチューの完成である。

 それからクエフ、クエフと水音交じりに息を吐き、慎重に呼吸を繰り返す。

「は、」

 あー、死ぬかと思った。もう大丈夫そうだ。喉元に手を当て、わざとらしく音を立てて咳をした。それは水音の混じらない、しかし潤いに満ちた咳だった。

 ペットボトルを流しに捨て置き、爽やかさのかけらもない鈍重な頭を引きずって財布を目で探す。

「あーっと……あったあった」

紛失防止のゴムを指でつまみあげる。薄くない、しかし厚いかと問われれば首を傾げる。確か一週間ぐらい前に引き出したばっかりだから結構入っているはずだ。その時はまだ大量のレシートが入っていたから財布がすごく厚かった覚えがある。

 ハンガーに掛けられたコートに腕を通す。

「さーて、水を……いや緑茶を買いに行こう」

 そう宣言しつつ突っかけに足を入れ、ドアノブに手をかけたところで気づいた。

「再度訂正。トイレ行ってからにしよ」


    ▼



 冬は寒い。

 外に出て初めに古子を襲ったのは低ナトリウム血症ではなく身も凍る冬の寒さだった。天気予報は何と言っていたのだろう。最近は映画再生専属となりつつあるテレビを思い出し、古子は身を抱きしめた。やっばい。もう帰りたい。

 しかしここで部屋に戻ってしまったら外に出てわざわざ寒い思いをした意味がない。

冬は好きではない。それは確かに本心だと思う。しかし今が夏なら古子は冬が好きだと言っているのではないだろうか。四カ月ほど前の自分を思い返してみるが、クーラーの故障で地獄の苦しみを味わったということしか覚えていなかった。

 四カ月も前に抱いた感想など覚えてはいない。事象は覚えていても、感覚は思い出せない。多分、古子は寒いのが嫌いで暑いのも嫌いだなのだ。かといって春秋の中途半端な温度も何となく気持ち悪い。

総括すると、ようするに古子は外が嫌いなのだった。身も蓋もあったもんじゃないな。

「うー……さむ」

 ずりずりとスニーカーのかかとを地面に擦りながらぼやく。

 一リッターの緑茶が二本だ。重くないわけがない。ましてや運動などいまやテレビの世界な古子からすれば二キロの物体を持って一五分も歩くのは地獄の苦しみである。あ、腕つりそう。

このまま無理すれば大惨事だ。緑茶を一度地面に置いた。

肩をぐるぐると回して、少しでも疲労を飛ばそうとしてみる。

 いっそこのまま置いて行ってしまいたかったが、そうもいかない。道端で困っている女子大生を助けてくれる隣人などいないから、このままにしても猫が寄ってこなくなるだけだ。いや、緑茶でも猫除けになるかは知らないけど。

「ふっ、ぐぐ…………」

 異様に細くなった袋の持ち手に腕を通し、一息に持ち上げた。

 階段は全部で二十段、段差の高さは目測で一五㎝。後者はかなーり適当だけど多分、そのぐらい。いいんだ、重要なのは段差の有無だから。

「そして段差は実在しております……と。あー、オモイオモイ」

 ぶつくさ言いながらも一段ずつ階段を上がっていく。階上を見上げると、まだまだある階段よりも太陽が目立って見えた。強く照りつける太陽はやはり眩しいほど明るいのだが、冬場となると太陽熱も低めだ。ただの電灯のようにも見える。

 そしてようやく階段を上り切り、袋を半ば引きずるようにして自室の前に戻ってきたときのことだった。

 古子が部屋に入るのを邪魔するかのように、謎の物体が扉の前に鎮座していた。

「なんだこれ?」

 変に上ずった声を出してしまい、思わず口に手を当てる。口に手を当てながら身をかがめ、地面に放置されたそれをまじまじと見つめる。

 箱だ。箱。目測で二十㎝四方ぐらいの白い箱が、地面に落ちていた。

「箱」と口に出してみても変わらない。見た限りではあるが何の変哲もない白い箱だ。柄も一切ないし、リボン類も巻き付いてはいない、まさしく箱である。

 いや、本当にただの箱ならそれほど気になる訳でもない。風に飛ばされ、偶然にも古子の部屋の前に来たと考えれば普通に納得がいく。

問題はその風である。

木造アパートの二階だからというわけではないが、先ほどから酷いぐらいに風が吹いているのだ。当然ながらその箱だって風を受けてる。だというのに、箱が古子の目の前から動く気配はない。つまりある程度の中身が入っているということだ。

………………。

古子の部屋はアパートの端だ。落し物と言う線は薄い。

「つまり誰かからのプレゼント、的な?」

 クリスマスと合致してるのは月だけだぜ? ちっと気が早すぎはしないかい。などと冗談めかしてみる。

 冗談じゃない。

 こんな面倒そうなもの。

 しかし、触りたくない。見て見ぬふりをするには扉に近すぎるし、見たことにして回収するには古子の臆病が過ぎる。

 箱とにらめっこして、ただ時間が過ぎていく。かじかんだ全身はもう凍死までの道をたどるばかりで、頭を覚醒させてはくれない。さて、どうしたもんか。

 古子は逃げられない何かを思った。

 時間とか、英語とか、しゅーしょくかつどーとか。

 こういうものを見ると、古子は無性に腹が立った。理不尽に腹が立ったし、その理不尽は社会が生み出したもので、ということはみんなこの理不尽に耐えなければいけないし耐えないと罰が下るのは自分だと、ちゃんとわかっていることにも腹が立つ。端的に、気に入らないのだ。この箱も、箱の送り主の根性も。

 なぜお前の事情で私が悩まなくちゃならない?どうせ縁もゆかりもないだろ。

 古子はふかーく息を吐いた。立ち上がり、えい、えい、と足で軽く蹴って手すりの下を潜らせ、その箱をアパートから落とした。

「おーおーどっか行っちまえぃ」

 手すりから軽く身を乗り出すと、箱は重力に逆らわず落下、アスファルトに中身を盛大にぶちまけたところ。いっそ囃し立てるように落ちていく箱を見ていた古子は、その内容物を見て浮かんでいた笑みを固め、まさかこれ以上冷え込むとはと埒外なことを思った。

 古子は逆に理性的な頭でカギを取り出しノブに押し当てる。

「おう、おう、うおぉぉっ!?」

 古子の後ろからどかんと音がする。アパートの半分朽ちてるような柱が溶けたり曲がったりして、真ん中からペキンと折れる。金属が犇めくいやーな音がして地面が傾き、古子はその場にしりもちをついた。まるで体重のせいみたいじゃないか、地面はそのまま、古子の倒れたほうへ落ちる。バイキングにのったみたいな浮遊感と、その直後の衝撃で投げ出された古子は地面に頭をしたたかにぶつけ、気を失った。

                ▼

 

 この事件は大錆町連続爆発事件の一つとして数えられる。

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