よざくら、を
藤村 綾
よざくら、を
『おもては寒かった?』
男はすでに家に帰って来ていた。いつもは、20時半くらいに帰ってくるのに、19時には帰ってた、と、平坦にいう。
『直帰したの?』
男は寒いのか布団の中にいる。目をパチパチさせ、
ん? あたしの質問をもう一度聞き直す。
『だから、直帰したの?』
『ちょっき?ちょっきってなに?』
男の中での『ちょっき』という単語は、『直帰』という単語とは結びつかず、首をかしげる。
『会社に戻らずそのまま家に直接帰ると言う意』
あたしはたちまち説明を施す。小学生の男の子に諭すような口調で。
『うん、そう、そう、また、東京疲れたー』
男はムクリと布団から出て来て、あたしを抱きしめた。布団は万年床だけれど日の当たる場所に置いてあるため、カーテンを開けておけばたちまち天日干しになる。
男からお日様の匂いがした。
『お酒飲んでないね。珍しく』
お日様の匂い以外しなかったので、胸の中にいながら口にした。
『新幹線の中で少しだけ飲んだよ』
『そっか』
あたしと男はしばらく抱きあった。抱擁。ほっとする胸。
『お土産あるから』
あたしから、はらりと離れ、出張の鞄から、東京名産らしき、バームクーヘンをとりだした。
『おいしかったよ』
あたしは受け取り、ありがとうというや否や、包装紙を破いた。やや小さめで控えめな可愛らしいいちごのバームクーヘン。
『食べていい?』
返答を得る前に、開けて口に入れた。
『わ、美味しいよ、』
男は目を細め、よかった、とつぶやき、もう一つ自分用に買ったと思われる包装紙を破いた。
海鮮せんべいだった。
あたしもそうだけれど、男もお菓子が好きで、ビールとお菓子、ビールと柿の種、ビールとサラミで、食事が終わるのはざらなのだ。
『俺、なんでお酒飲んでないかっていうと、夜桜見に行こうと思ってたんだ』
バームクーヘンを半分食べたところで男の口が動いた。
今年は開花が遅く、男の家から徒歩で5分のところに桜並木があるのだ。今まさに、満開だという。
『うん、行く』
男はジャンバーを羽織って、花見支度をしだした。
『これ、着なよ』
やけに薄着のあたしに男がよく羽織るカーディガンを渡された。肘に穴の空いているカーディガン。
あたしは馴染みのあるそれに手を通し、2人でまだ肌寒い4月半ばの夜を歩いた。
男はいつだってあたしの歩調には合わせてはくれない。ズンズンと進んで行ってしまう。
どう考えても、身長からして男の一歩はあたしの二歩に値する。
距離がどんどんと遠くなり、終いには男が黒い豆粒になり見えなくなった。
一緒にいても、どこか空虚な男だ。
どんどんと進む距離はまるで、恋のスピードを彷彿させた。先に進んで、振り返らなく、結局あたしは捨てられる。
桜並木はところどころかしか、ライトは点在されてはいない。
明るいところもあれば、ひどく暗くてなにも見えないところもある。明るいところへ辿り着くたびあたしは、ホッとし、暗いところへ行くと、男の名前を瑣末な声音で呼んだ。
(なおちゃん)
少し離れたところで、男がタバコを吸っていた。
『寒い』
暗いのが功を奏したように、眦を吊り上げ、棒読みで一言呟く。
『うん。寒いね』
帰りはあたしの歩調に合わせ歩いてくれた。この人の質。不器用なのだ。
けれど、熱量は以前に比べ冷めているとぼんやりと思う。
好きの温度は最初の3ヶ月。半年すれば徐々に熱量は下降し、今度は情と書いて情けの方に熱量が加担する。
好きでもないし嫌いでもないという言いまわしは、早い話し、情がうつった証なのだ。情が移り平坦で凡庸になり馴れ合い過ぎて迷走をする。これを繰り返しているあたしと男も情での繋がりだけでいっしょにいる。
『新幹線の中で背の高い白人見たよ。多分2メートルはあった』
あたしは、男の方に顔を向け、そう、頷き、
『なおちゃんはよく背の高い人見るね』
男は、頷き、背の高い人は新幹線のドアをくぐらないとあたるんだよね、と、続けた。
別にどうでもいいことだし、あまり話すことはそうはない。
『寒いね。今日スパゲティー食べる』
『うん』
なぜに、寒いね、のあとに、スパゲティーなんだろうと疑問に思いつつ、スパゲティーとビールで一杯やり、熱いお風呂に入り、お日様の匂いの布団で眠る。
恋とか愛とか情とかよくわからない。わからないけれど、夜桜だけは確かにそこに具現化されていて、鮮明にあたしと男の目の中に描写された。
『冷たっ!』
あたしの足先の冷たさに驚嘆し、あたしから足を離した。あたしは寝たふりを決める。
スースーと故意な寝息を立てて。朝が来たら男はまた仕事に行ってしまう。あたしの知らない世界に。あたしの知らない場所に。
よざくら、を 藤村 綾 @aya1228
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