第4節 Willing to be Disqualified

「おい!」

 がちゃり、と扉が勢いよく開く。

「かの国を立つること高遠な先生は、どうして来ない!」

 それは苫田高校からはほど離れた大森心療内科の医師・子守心愛が、受付カウンターに怒鳴り込んだ音だった。もちろん八つ当たりだ。数日前、ここに来るように電話した国立一弥から音沙汰がないことに苛立いらだっていた。

「何回か電話したんですけどねえ」

 帳簿の整理をしながら、生返事をする受付。

 そのやる気のない態度が、ますます子守心愛を苛立たせる。

「あのままだと死ぬぞ! 自殺を傍観する気か! お前は人でなしか!」

「そんなことを言ったら、人身事故が多い関東圏のみなさんを、人でなし呼ばわりすることになりますよ?」

屁理屈へりくつをぬかせっ!」

「便りがないのは無事な証拠って言うじゃないですか。案外、お仕事をせずにすむようになったのかもしれませんし。それに子守先生みたいに、患者さんに肩入ればかりしていたら商売あがったりです。いい加減、お立場をわきまえてくださいよ」

 今月も赤字経営ですねえ、とそろばんを弾くジェスチャーの受付。

「ぐっ……」

 子守は大人のロジックに説き伏せられ、診察室まで引きさがった。

 彼女はようやく真相にたどり着いていた。彼は仕事にやりがいを求めている。なのに仕事では満たされない。だからさらに働こうとして身体を酷使する。そして、そのままでは危険だというメッセージを無意識が訴えて、夢になって現れる。

 気の利いた仮説ではなかったが、一応の筋は通っている。もう睡眠薬を処方してはまずい。無意識の声を抑圧しすぎてしまう。徐々に量を減らすなどして生活習慣を改善する。あるいは仕事以外にやりがいを見出すか、やりがいにこだわらずに仕事を続けるか。いずれにせよ早急に対処しなければならないのに、本人が来ない。

 ただ当事者が治療を拒めば、こちらから打つ手はない。それに他のクライアントをないがしろにしてまで、彼に肩入れすることは許されない。これが専門家としてのルール。

「くそっ……」

 憤懣ふんまんやるかたないまま診察室を、野良犬のようにぐるぐると歩き回る。

 白衣のポケットからボールペンを引き抜くと、奥歯でがしがしと噛み出した。

「この白衣のせいで動けないとか、どうかしている…………あ」

 彼女は、がしり、とボールペンを噛み砕いた。すぐに「おい」と受付カウンターに出向く。

「そういえば旅行に行きたがってたな。オオバカダカラ生物危険保存遅延なんとかっていう」

 すでにプラスチックごみと化していた元ボールペンを受付デスクに、ばん、と叩きつけるように置いた。

「オオカバマダラ生物圏保存地域、ですよ。オオカバマダラっていうちょうが越冬するとこ――」

「――バカでもカバでも何でもいい」

 子守は言い分を聞かない。「長期有給休暇だ。休め」と要件を伝えた。

「はあ? 何でまた突然に」

「急用を思い出した。今すぐ店じまいだ。しばらく来なくていいぞ」

「はあ、そういうことですか」

 ようやく事態を察した受付は、呆れてものも言えなかった。休暇で医者をしていなければクライアントに踏み込んでもいいと考えたのだろう。医師免許が泣いている。

「私は帰る。戸締りは任せた」

 受付の女性は、有給休暇ってここの収入自体がそもそも少なくて困ってるんですけれど、という心の声を抑えながら、白衣を脱ぎ捨てて医院を出ていく子守心愛の背中を見つめていた。

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