先生が退屈な人でよかった

じんたね

プロローグ

 今日の啓蒙には、自嘲ぬきに自分との健全な関係などあり得ない。

 (ペーター・スローターダイク『シニカル理性批判』)


 いっそのこと巨大な鉄塊で、脳天から叩き潰してくれ。

 痛みだ。目が覚めるくらいの強烈な痛みが欲しいんだ。この空間を前進するためのざらざらした摩擦まさつはどこにあるのか。

「ここはどこなんだ」

 そう、言葉にする。だが私の声は、周囲に染み入るようにかき消えた。周囲に人の気配はおろか、音声が反響する物体すらない。

 ない。

 何もない。

 色も、かたちも、上下も、左右も。

 見ることも触れることもできない真綿に包まれているような、そんな感覚が、でっかいペンチで締めあげるほどの苦痛をもたらしている。

 終わりにしたい。

 自分でも、世の中でも、どっちだっていいんだ。この苦しみが消えてくれるのなら。

「終わらせてくれ、頼む」

 もう一度、大声で叫んだ。この空間そのものを突き破りたい一心で。

 すると視界は突如として暗転し、オレンジ色の蛍光色が見えてきた。

『3:40』

 暖色系のライトが数字を灯す。それがデジタル時計の表示盤であることに気づいたときには、真っ暗なアパートの一室で、布団から上体を起こしていた。

「……またか」

 悪夢を見ない方法は簡単だ。頭を切り落としてしまえばいい。もう二度と苛まれることはなくなるのだから。その辺に斧でも落ちていればいいのに。

 点滅を繰り返すデジタル時計の光。汗を吸ったTシャツがべっとりと背中全体に張りついてくる。すぐさま不快感が込みあげてきた。

「……明日がある、寝ないと」

 私は、枕元に置いてあった睡眠薬に手を伸ばすと、それを呑み込んだ。吐き気のように湧きあがってくる不快感を封鎖しようと、頭から布団をかぶって横になる。

 こんな風に眠れなくなったのは、いつからだろう。

 現在、勤めている高校に赴任したときか。それとも男子バレー部の顧問を担当した頃か。2年2組の担任を引き受けたからか。

 睡眠薬を飲むようになって、もうずいぶんと時間がたっている。

 疲れればよく眠れると考え仕事に打ち込むのに、働けば働くほどあの苦痛が強くなっていく。夢を見る頻度は増し、薬に頼る夜も多くなっていた。

 そんなことを考えていると、次第に眠気が込みあげてきた。薬が効いてきたのだろう。

 私は、ゆっくりと意識を手放した。

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