二章 アスカトラ鳴動編
旅路
「このまま行けば、陽が落ちる前には宿場町ワタリにつくはずです」
木々の
朝から西国街道を東へ向かい、小高い丘を二つ越えると広葉樹の生い茂る峠道に入った。脇の茂みから時折長髭キツネがひょっこりと顔を出すのを横目に見ながら勾配のきつい坂道を登り続け、それでもウィルは疲れの色も見せない。
ヘイルラントからアスカトラ領内へと入る者が、最初にたどり着くのがこのどこか異国風の名の付いている宿だ。
ヘイルラントに隣接する領邦クロノイアの南方には沼沢地が広がり、まだ先ハイナム時代の呪術を用いるナディール族が多く住んでいる。この宿の名もナディールの色合いが濃い。この地は中原の文化と、
峠の頂上に位置するこの宿は、ヘイルラントとアスカトラを結ぶ交通の要衝である西国街道の途上に位置するため、アスカトラ領内では辺地といえど客足は途絶えることはない。ウィルとコーデリアは、ここに至るまで何度も徒歩の旅行者や荷車とすれ違った。
「ふう……やはりこうした旅行は物見遊山気分ではいけませんね。こんな険しい道を歩くことになるなんて」
コーデリアは額の汗を拭いながらぼやいた。
しかしその顔には言葉ほどには疲れの色は見えない。時に自ら鋤鍬を振るうこともある女城主は見た目以上に頑健だ。
しかし今のコーデリアはヘイルラント風の丈の短いスカートを膝下まで覆うものに履き替え、髪も三つ編みにして両肩に垂らし、中原風の淑女を装っている。礼儀にやかましいアスカトラ領内では、慎みに欠けるとみなされる服装は避けなくてはいけない。
ヘイルラントを出るまで、誰を伴に連れるかで散々ナヴァルの会議室は揉めたが、カイルは麦の収穫があるし、アレイドは城代としての務めがあるため、結局ウィルがコーデリアの供をすることになった。
ウィルはカイザンラッド軍を壊滅させた実績があるし、もし万が一のことがあっても号令の聖紋で皆にウィルの行状を知らせればいいのだとコーデリアは冗談めかしながら言ったものだった。すでに自由騎士に任命されているウィルを信用しないのは筋が通らないというコーデリアの一言が決め手となり、若き女城主はウィルを連れてアスカトラを目指すことを決めたのだった。
「ところで、このワタリの宿ではまともな食事は出るのでしょうね?ナディールの人達はトカゲを食べたりするそうですが……」
「この宿にはナディール族だけが泊まるわけではありませんよ」
ウィルが安心させるように微笑むと、コーデリアはほっと胸を撫で下ろす。
「心配事が食事だけですんでいるなら、まだまだ我々の旅路は楽なものです。まだ賊にも狼にも出会っていないのですからね。──おや、宿が見えてきましたよ」
街道の先に見えてきた宿は多くは三階建ての木造の屋敷で、往来は多くの人や馬車でごった返し、人いきれでむせ返るようだ。半裸のたくましい上半身に朱色の入れ墨を彫り込んだナディールの戦士とも時折すれ違う。
街道脇には多くの屋台も立ち並び、ケバブの焼けるいい匂いが二人の鼻先をかすめた。路傍には血色の良い農夫が橙色のヴラム果を木箱に並べ旅人を呼ばう姿もあれば、黒一色の法衣を着た神官が辻説法をする姿も見える。
「これは……思いの外賑やかなのですね」
コーデリアは目を見張った。その目は串に刺され、回転しながら焼き上げられるケバブに吸い寄せられている。
「食事ならば宿でゆっくりとれますよ」
「それはわかっています。見聞を広めるため、この地の名物を観察していただけです」
少し頬を膨らませるコーデリアに、ウィルは肩をすくめた。
「ところで、宿は一等宿泊室のあるところになさいますか?聖紋を見せれば、貴人待遇を受けることができますが」
ウィルは右脇に見えてきた宿の看板を指差した。年季の入った木の板には「貴顕の方向け設備完備」と書かれている。
「いえ、私はこの旅で庶民の暮らしをつぶさに見て回ろうと思っています。特別待遇など受ける気はありません」
コーデリアはひどく真面目な表情で言った。それは本意でもあるだろうが、社会勉強と称してケバブに見入っていたため引っ込みがつかなくなったこともあるだろう。
「良いお心がけです。では、あくまで庶民の泊まる部屋でよろしいのですね」
目の前で、往来を行く旅人の腕を恰幅のいい女たちが掴む。
ウィルは周囲を見渡し、客引きが強引に客を引き込んでいない宿を探した。
少し歩くと、左手に落ち着いた佇まいの二階建ての宿が見えてきたので、そこに宿を取ることにした。
「おお、これはヘイルラントの芋ですね!ここでも我が故郷の味に出会えるなんて、感激です」
眼の前の鍋の中で湯気を立てている西極ヤムと肉の煮込みに、コーデリアは興奮した様子を隠せなかった。ヘイルラントではお馴染みの料理だが、こうして旅行先で味わえるのはやはり嬉しいらしい。
「へえ、嬢ちゃん、あんたは辺境の芋姉ちゃんかい」
食堂のテーブルの向かいの席の小柄な老人が、歯をむき出して笑った。
男の前歯は何本か抜け落ち、ただでさえ貧相な顔を一層貧しくみせている。
「芋ですって?私はこれでもヘイルラントの……」
柳眉を逆立てるコーデリアの袖を、そっとウィルが引く。
庶民の目線から世の中を見るというのなら、この場で身分を明かしてはいけない。
「天下の農民です。西極ヤムこそは庶民の友にして食卓の王者。これを育てられることこそが私の誇りです。芋娘ほど誇らしい二つ名は、この世にないでしょう」
ひとつ咳払いをすると、コーデリアは胸を張ってそう語った。
脇ではウィルも満足げに頷いている。
「へへ、面白いことを言う嬢ちゃんだ。あんたみたいに元気な娘っ子は久しぶりに見たよ」
「それは、どういうことですか?」
「あんたは顔の色艶も良いし、どうもクロノイアへ行く娘達とは違うとは思ってたがね」
「他のお嬢さんたちは、何をしに行くのですか?」
クロノイアとはアスカトラの領邦クロンダイトの首都だ。
古代ハイナム時代から続く古い都市で、その城壁には乳白色の呪晶石が輝き、夜の闇にも煌々と光を放っているのだという。
この太古の息吹を感じさせる都市に、この地の娘達が何をしに赴くというのだろう。
「おや、知らんのかい?ここ最近、クロンダイトには身売りする娘が多くてな」
コーデリアは目を丸くした。身売りなど、ヘイルラントでは絶えて聞くことがない。
「そんなに身売りする方が多いんですか?」
「ああ、何しろここ最近は平和税の負担が重くてな。娘を遊郭や奴隷に売って、ようやく税を払える奴が多いのさ」
「そんなことになっていたなんて……」
コーデリアは悲痛な表情になった。アスカトラの領外にあり、平和税の負担とは無縁だったヘイルラントでは想像もつかないほど、アスカトラの民は重い苦痛を耐え忍んでいたのだ。
「最近はクロンダイトの娘は生涯に二度天を振り仰ぐ、なんて歌まで生まれてな。奴隷商に売られ故郷を離れる時と奴隷市に立ち並ぶ時、天神アガトクレスにこの身を救い出してくれって祈りを込めるんだとよ。まったく、いつからこの国はこんな悲しい歌が流行る国になっちまったのかね」
やりきれない、といった風情で老人は長い溜息を吐いた。
「そのような悲しい歌は、そろそろ止めなくてはなりませんね」
ウィルがそっと呟くと、老人は悲しげにかぶりを振る。
「俺達にできることなんざ何にもねえ。この国のお偉いさんが揃いも揃ってだらしがねえから、カイザンラッドの連中に頭を下げなきゃいけなくなっちまったのさ。平和税だと?ふん、馬鹿らしい。皇国にせっせと金を貢いで平和を買ったところで、この国が痩せ細っていくだけの話だ」
老人が吐き捨てるように言うと、黙々と食事を摂っていた周囲の男達の目に、一瞬殺気が宿ったのをウィルは感じた。
こちらを一瞥した男達は一様に口数が少ない。皆が旅の垢に汚れたマントを羽織り、黙々とスープを口に運び続けているが、その所作にはどこにも隙がない。
腰に剣を履いたり、背に棒を背負ったりしている者もおり、誰もが腕には覚えがありそうだ。
(この者達は、かなり訓練されているようだ)
二十代から三十代前半と思しき男達は髪型も装備もばらばらだが、いずれもそれなりの遣い手らしい、とウィルは判断した。身なりからは傭兵にも見えるが、それにしては妙に堅苦しい雰囲気も漂っている。食事の場で浮かれ騒ぐものは一人もいない。
「ウィル、あの方達は何者でしょう」
コーデリアも気になったのか、声を潜めて語りかけてきた。
「それはわかりませんが、いずれも腕の立つ者達でしょう。貴人の護衛なのか、それとも……」
油断なく周囲に視線を走らせるが、ウィルの眼は貴族らしきものの姿を捉えることはできなかった。そもそもこの宿は貴人の泊まるようなところではない。敵の目を欺くためにあえてここを選んだ可能性もあるが、それなら貴人は部屋で待機しているとでも言うのだろうか。
「ここでは言いにくいので、あとで部屋でお話するとしましょう」
ウィルがそう言うと、コーデリアは無言で小さく頷いた。牛肉の脂で光る彼女の唇が、いつもにも増して血色がよく見えた。
庶民の泊まる部屋なので、ウィルとコーデリアの案内された部屋も個室などではない。部屋の中は二段ベッドが置かれていて、お世辞にも広くはない室内に六人が詰め込まれている格好だ。
「上等ではありませんか。人は一日一個の西極ヤムと、横になれる空間があれば生きていくことができるのです」
無理に自分自身に言い聞かせるように、コーデリアはそんな格言を並べた。
いくら土臭い土地とはいえ、これでもヘイルラントの領主なのだ。他人と同じ部屋に泊まるのは不安に違いない。
「では、あそこで休むことにしますか。コーデリア様は下段のベッドでいいですね?」
「ええ、そうさせてもらいます」
空いていたのは部屋の右隅のベッドだけだった。ウィルは梯子を登り、上段のベッドの上から部屋全体を見回す。宿泊客には男も女もいるが、皆一様に陽に灼け、がっしりとした体格をしている。
「あんた方、どこから来なすったんだい?こんな宿に泊まるような人達にゃ見えねえが」
ウィルのベッドの向かい側で寝ていた四十がらみの男が、身を起こしながら尋ねてきた。
「ヘイルラントからですよ。クロノイアまで用事がありましてね」
「へえ、都まで行きなさるんか。おいらはここの市でヴラムを買ってムロタ村まで帰るとこなんだが、あんた方は危険な道中を旅するんだね」
「危険?」
「ああ、ヘイルラントの人は知らんかもしれんが、どうも西国街道もこのワタリより東は賊が出るらしいんでなあ。護国隊とかいうおかしな連中が」
その賊の妙な名称に、ウィルは訝しむような表情になった。
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