辺境の楽園

 神の息吹が地表をひと撫ですると、その大地は豊穣の祝福を受けた──といわれるほどに、辺境領ヘイルラントの地味は豊かだ。

 初夏には麦の穂が黄金の絨毯のように一面に広がり、森林に分け入れば色とりどりの果実が住民の舌と目を楽しませ、狩人も獲物には事欠くことはない。

 

 この土地の産物は住民の口に入るだけでなく、今や隣接するアスカトラ合邦王国にも輸出できるほどに豊かな実りをもたらしていた。

 名物のひとつであるヴラム果は蕩けるような甘みが評判になりしばしば貴族の食卓にのぼり、西極ヤムの煮物には庶民が舌鼓を打つ。

 この肥沃な大地の作物は、中原諸国に広くその名を知られる存在となっていた。


 かつて茫漠たる荒野だったと言われるこの土地は、天神アガトクレスの信仰を広めるため修道士が切り開いたというのが王国年代記の伝えるところだが、歴史の真実がそのようなものでないことは、この地に住むものなら誰もが知っている。


 この地に集まった者の多くは、アスカトラ合邦王国で落ちぶれた貴族や仕事にあぶれた傭兵、新天地で一旗揚げようという山師──いわばならず者達の集まりだった。

 荒々しくも活気にあふれたフロンティアは獰猛な大狼ダイアウルフ灰色熊グリズリーの脅威をものともしない荒くれたちを吸収しつつ、独立独歩を良しとする自由農民の楽園として発展しつつあった。

 

 やがて時は過ぎ、無法者の吹き溜まりだったヘイルラントにも自ずから秩序が生まれた。

 荒野は人の手によって耕され、沃野へと変貌を遂げた。

 アスカトラ貴族の末裔が領主に持ち上げられ、農民のうち腕に自信のある者は自由騎士として警備隊に組織され、ヘイルラントの治安維持の要となった。


 西にエルフの住まうヘイザム大森林を臨み、北東にアスカトラ国境の長城がそびえ立ち、南にロクサス砂漠の控えるこの土地は外敵が侵入できない地形のため住民は平和を謳歌し、七年前にアスカトラを大敗させ降参兵一万人を穴埋めにした西方の大国・カイザンラッド皇国の脅威とも無縁に暮らしてきた。


 しかし、この平和が仮初めのものでしかなかったことを、ナヴァル城の主・コーデリアは今、身に沁みて理解しつつあった。

 コーデリアの眼下には、城下町と呼ぶにはややお粗末な草葺きの屋根の民家が散らばっている。その民家のあちこちに放たれた火が、今ようやく消し止められつつあった。


「号令の聖紋を発動します!自由騎士の皆、至急ナヴァルへ帰還してください!」


 城壁の縁に立ち、そう叫ぶ女城主の頬にはまだそばかすが浮いている。

 動きやすいよう後ろで高く括ったブロンドの髪は、うら若いこの城主に活動的な印象を与えている。

 身にまとった皮の胸当ても、その活発な動きを妨げていない。

 卵型の頬の輪郭と澄んだ萌葱もえぎいろ色の瞳は、あと数年を経ればこの少女が大輪の花と咲くことを予感させているが、今ではまだコーデリアの美貌はつぼみであるに過ぎない。

 

 それよりも、今この少女の外貌を最も際立たせているのは、額の中央にあって輝いている聖紋である。貴人に生まれながらに備わると言われるこの紋章は、ある年齢を過ぎると持ち主に特有の能力を付与する力がある。


 コーデリアは兵が喇叭を構えるような形の聖紋を輝かせつつ、城下の民家の火事を消し止めるべく駆けつけた自由騎士たちを呼び戻そうとしていた。「号令」の聖紋は、持ち主の声をはるか遠くまで届かせる効力があるからだ。


「やはり、放火は何者かが騎士たちの目をそらすための策だったみたいね……」


 コーデリアは隣で剣を構えつつ、敵兵をにらみ据えている老騎士アレイドにちらりと目をやった。額に深い皺を寄せ渋面を作る彼はコーデリアの二代前の領主の時代からこの城に仕えている宿老で、若き日はアスカトラの領邦・クロンダイトの蛮族相手に剣を振るったこともある勇猛な戦士だ。


 黒く染め抜いた鎧で身を固めた兵士達が、階段を駆け上がってくる。

 指揮官を含めると敵の数はざっと十二名ほどだ。

 大した数ではないが、アレイド以外の騎士が全て出払ってしまっているこの状況では、この程度の敵すら重大な脅威だ。

 外敵の侵入など経験したことがないため、自由騎士を全て消火に向かわせても問題ないとコーデリアは判断したが、その隙を突かれてしまった。


「お嬢様、ここは私が奴らの注意を引きつけます。向こうからも敵が迫っておりますから、なるべく近寄らせてから城壁の外へ飛び降りてくださいませ。今は早く自由騎士たちと合流しなければ」


 ヘイルラントの広野を駆けずり回って育ったコーデリアには、令嬢らしい慎みなど無縁だ。

 城と名付けてはいるものの、実態は小規模な砦であるナヴァルの城壁は3メルタほどの高さしかない。この程度ならどうとでもなる。

 前後から迫り来る敵兵の呼吸を間近に感じるほどになると、コーデリアはスカートが風に翻るのもかまわず、城壁から身を躍らせようとした。


「おやおや、これはずいぶんと大胆なお嬢様だ。しかし、ここで逃げてもらっては困るのですよ」


 中庭の中央に立つ男が哄笑を漏らした。漆黒の法衣をまとった男の顔はフードに隠れて見えないが、声音には獲物を眼前に捉えた喜びが滲んでいる。


「槍や剣のみがカイザンラッドの武器ではないと知るがいい!」


 男がしわがれた声で叫ぶと、突然城壁に絡みついたつたが命を得たように動き出し、コーデリアの身体に絡みついて縛り上げた。蔦は恐るべき力でコーデリアを宙に持ち上げ、じりじりと細い腰に食い込む。

 

「さあ、今一度その聖紋の力で呼びかけなさい。城主コーデリア・バレットの名において、このナヴァル城をこのカイザンラッド遊撃将・ハリドに譲渡すると、皆の前で宣言するのです」


 男がフードを跳ね上げると、その下から頬がけ顎の尖った青白い顔が現れた。男の額には禍々しい光を放つ紋様が浮かんでいる。


(やはり、カイザンラッドの手の者なのね……それにしても、あの紋様は……?)


 カイザンラッド皇国。八つの州を抱え、七竜将の率いる精強な軍隊を擁する大国。

 ヘイルラントの母親は泣き止まぬ幼子を黙らせるため、ここ三十年で三つの周辺諸国を滅ぼしたこの軍事国家の名を出すことがある。

 十年前には悪名高い「詩人狩り」をはじめたこともまた、この国の悪評を高めていた。しかもカイザンラッドは聖紋とは異なる、奇妙な紋章の持ち主を戦場に投入することも知られている。

 植物を意のままに操るこの力はあの額の紋章の力によるものだろうが、聖紋にこんな力を持つものがあるとはコーデリアは聞いたことがない。


「何をためらっているのです?この城を手放すとただ一言約束していただければ、貴方は楽になれるのですよ」


 さらにきつく身体を締め付けてくる蔦の力に耐えかねて身をよじりつつ、コーデリアは苦しげに言葉を継ぐ。


「誰が、そんなことを、言うものですか……っ!」


 地面に目を落とすと、老騎士アレイドがどうにかカイザンラッド兵の包囲を突破して駆け寄ってくるところだった。老いてなお盛んなこの騎士は剣を構えると、コーデリアを縛り上げている蔦を根本から断ち切ろうとした。


「おっと、そうはさせませんよ」


 ハリドの額の紋章が妖しく光ると、コーデリアに絡みついていた蔦の一本が身体を離れて鞭のようにしなり、老騎士の身体を打った。


「アレイド……!」


 老騎士は仰向けに転倒し、したたかに腰を打った。

 アレイドは苦痛に顔を歪めながらどうにか立ち上がろうとするが、城壁の上から降りてきたカイザンラッド兵が老騎士の眼前に剣を突きつける。


「もうそろそろ観念なさい。この者に長生きして欲しければ、賢明な判断を下すことです」


 蔦が生き物のようにのたうち、老騎士の皺首に絡みつく。

 アレイドは目を剥いて蔦を引きちぎろうともがくが、蔦は恐るべき力で老騎士の喉に食い込みながら、少しづつその命を縮めつつあった。

 コーデリアは為すすべもなく、食い入るように老騎士の衰弱してゆく様を見つめている。


「ふふ、お二人ともこの城に殉じようというのですか?ならばお望み通り、貴方方を冥界へと送って差し上げましょう。この海内の全てをその手に収めることが、皇帝陛下のお望みなれば──」

「そのようなサーガ、私にはいささか興醒めだな」


 突如、戦場に涼やかな声が響いた。

 その声の主は黒い外套を羽織り、頭には鍔の広い帽子を被り、極彩色の鳥の羽飾りを付けていた。

 黒ずくめの衣装の中、炎蚕糸で織り上げた真紅のマフラーが鮮やかに風に翻る。

 豪奢な金髪の流れる背にはリュートが背負われ、この闖入者が流れの楽人であることを思わせた。

 男はハリドに歩み寄りつつ、湖面のように青く澄んだ双眸をそのおもてに向けた。頬の輪郭は鋭いが、口元にはどこか人好きのする笑みをたたえている。


「戦場詩人ウィル・アルバトロス、この不愉快な戦局をくつがえし、城主コーデリア・バレット様に勝利のサーガを捧げるために参上つかまつった」


 ウィルと名乗った男は腰の剣を抜き放つと、その切っ先をハリドに向け、まるで勝利を確信しているかのように余裕の笑みを見せつけた。

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