第2話 エリカさんのある朝。

 魔術師の森マギズ・フォレストに住む錬金術師、通称エリカ、他称二十二歳。


 エリカの朝は、自宅の玄関先で遭難しているところをマスターに発見されるところから始まる。

 「マスター」というのは、各系統の術者が大体分かれて住んでいる各通りストリートごとに一人いる責任者の総称であり、おおむね通称も兼ねる。責任者なので、住人の遭難を見かけて放っておくわけには行かない。

「エリカさん、エリカさん、起きてください」

「ふにぇ……ふぁ~いぃ……」

 黒の短髪をかき混ぜながら、エリカはふにゃふにゃと立ち上がる。すらりとした体型、結構な長身。印象はシャープなのに、寝ぼけた顔が妙に幼い。……寝癖も、すごい。

「はい、ドア開けて。はい、入って。ちゃんと寝て下さいねー?」

 マスターは、エリカをドアに押し込んで溜息をついた。



 エリカの実家は代々続く「技術師」だという。警備会社だそうだが、警備関係の実用的な技術を追い求める家の中でエリカはどういうわけだか「繊維の染色」の道に進み、必要な染料とその生成等に関わるからくりの研究・開発方向へとすっ転んだ。必要な薬草が豊富なこの森に単身引っ越して久しく、最近は企業の人が訪ねて来た時のサインにしか使わないので本名も忘れかけている。


 特に「昼間のエリカ」は。


 起こされて家に入り、何とか朝ご飯を食べ、どうにか昼ご飯を食べ、企業の人ととんちんかんなやり取りをしてサインを間違え、相手が困って一旦帰るのを見送る。


 エリカは、眠っている。立って、動いて、熟睡している。

 どういうわけだか「完全に」眠っている。

 その事実を突き止めたマスター曰く、日中の彼女は「夢の中の住人」だそうだ。


 そして。

「うにゅ……夕方だぁ。……ねよぉ~っと……」

 眠っているエリカが「眠りにつく」と。

「……んー。よく寝たっ」

 ようやくエリカは「目を覚ます」。

 とんとん、と家のドアがノックされた。

「エリカさん、企業の方が見えてますよ」

 マスターの声だ。

「あ、はぁい。わかりました。鍵開いてますよ」

……昼間の記憶はかけらもない。出直してきた企業の人は怪訝な顔をする。


 夜のエリカはしっかり者。しゃきしゃきはきはき、姉御肌。

 昼間のエリカはお寝ぼけさん。極めて天然、ほえほえ娘。

 そして、どちらもどこかが抜けている。


 だけど、あまり困らない。


 本人「は」。


 たまに「ご飯」を追いかけて、通りの端から端まで走って行く。


 これは、そんなエリカのお話。





 いつも通りの朝だった。

「はーっ、やぁっと着いたよぉぅ……」

 白々と夜が明ける頃。エリカはようやく家に辿り着いた。いつもは薬草を取って帰る途中に意識が飛んでいってしまうのだが、今日は自分でベッドに入れそうだ。

 明かりをつけると、テーブルの上には実家から届いた刺身が鎮座している。出かけ間際に届いたものの、薬草集めを優先して丸一晩テーブルに出しっぱなしにしてしまった。

 このまま保冷庫に入れても、一眠りする間に傷んでしまうかもしれない。

 エリカはおぼつかない手つきで深めの皿を取り出し、その底に刺身を並べた。しょうゆのボトルを開け、とぽとぽと注ぐ。「ヅケ」にしておけば、きっと傷みも少なくて済むから。

 が……、刺身が微妙~に隠れたところで、しょうゆがなくなってしまった。

「あれ?……しょうがないなぁ。次の市までどっかで借りよ……」

 ボトルを逆さに振って最後の数滴を落とし、刺身を裏返してしょうゆをまんべんなくつける。眠い。

「さて、と……」

 保冷庫の隠し引出しに皿をしまう。ここに越してきて以来、いつの間にかおかずがなくなるので「どうしても食べたい食糧消失防止」に作った引出しだ。きっと、寝ている間の来客──妖精や隣近所の皆さん──が、おなかを空かせて保冷庫を漁るのだろうと思う。この森では(通りでは?)珍しい事ではないし、もう慣れた。

「……これで、よしっ……と」

 ふらふらとベッドまで歩き、やっとこさ潜り込む。


 それから間もなく。

「……おにゃかすいたぁ……」

 夢の中の住人、起床。

 口調も性格もがらっと変わったお寝ぼけモード。

 欲求に忠実に、ふにゃふにゃと目をこすりながらベッドを抜け出して保冷庫をのぞく。

 棚にある、あじの開きと目が合った。

「…………これでいっかぁ~」

 無造作にコンロに網を載せ、無造作にあじを焼き始める。焼きながら、てろてろとろんと食器を準備。

「……おさら~……おはし~…………………………あ~れぇ?」

 たっぷりあったしょう油がない。このあじの開きは塩気が薄い。だからといって塩は振りたくない。塩辛いあじ、きらい。

「………………借りにいこぉ~………………」

 これまた欲求に忠実に、おしょうゆを求めてふにゃふにゃと通りに出た。


 一番近いお隣を通過し、そのまた隣も通り越し、お寝ぼけエリカはてこてこ歩く。

 てこてこてこてこ、どこまでも歩いて行きそうな足取りは、とあるドアの前でようやく止まる。

 とん……とん、と、ノック。

「すみまぁしえぇえ~んん、おしょうゆぅ~、かぁしてぇくぅだしゃぁあい…………」

 今にも眠りそうな勢いでのたまうエリカ。

「…………ふぇ。はい」

 男性にしては薄くて細い体が、ドアの隙間からひょろりと現れた。マスターだ。エリカの目の高さで、亜麻色の柔らかそうな髪がくしゃくしゃと跳ねている。どうやら仮眠中だったらしい。

「しょ~ゅ……」

 マスターはテーブルの上にあった瓶をつまみあげ、エリカに差し出した。

「どうぞぉ~」

「どうも~ぉ」

 起き抜け(?)のエリカは寝ぼけていた。マスターも寝ぼけていた。そしてお約束な事に、寝ぼけ同士のやることは大抵ろくなことにならないのであるが、本人達はこの後の阿鼻叫喚を知る由もなく。


「ありがと~ぉごじゃひましたはーぁ……」

「どういたしましてへ……」


 帰って行く。

 騒動の元を抱えて、エリカが帰って行く。

 見送ったマスターは、テーブルの上を確認せずにふらふらとベッドに戻る。


 試薬の瓶が、一本足りなくなった事を確認せずに。


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