第6話
始さんのご病気は、日を追うごとに悪くなっていき、最初の頃は何とか手紙のやり取りができていたけれど、それさえもままらなくなっていった。
『海の近くに良い病院があるそうです。近いうちにそこへ移ります。夏も終わりが近くなってきました。けれど残暑も厳しいおり、くれぐれもお身体を崩さぬ様にして下さい。』
『海が見えるのですか? 波の音も聞こえるのでしょうか。まだまだ暑い日が続きますね。お身体、案じております。どうか、ご自身を大切になさって下さい。』
『いよいよ病院を移りました。海が見えます。波の音は聞こえません。銃弾の音は時々聞こえますが…。
こちらの浜辺は松の木が植えられています。
とても良い場所です。薬は少ないですが、養生するには最適です。少し動ける様になったら浜辺を散歩したいです。松の木の間に、桜の木が植えられていると聞きました。是非見てみたいですね。』
『お散歩、できると良いですね。こちらもいよいよ毎日の様に爆撃があります。お見舞いに伺いたいのですが、中々行けません。お手紙、きちんと届いているか心配です。
さくらの木、私も見てみたいです……。
こちらのさくらの木も、青々と葉が繁っています。どちらも力強く生きているのでしょうか。
お身体は如何ですか? 毎日祈っています。』
暫くは何とか手紙の交換をしていたけれど、いつしか途絶えがちになってしまった。
組を代表して父がお見舞いへ行く言い、戦火厳しい中、どうにか始さんの病院へと向かった。
くれぐれも宜しくお伝えください。それからお気をつけて……」
他の組の者も、母も私もそんな言葉を父にかけた。
見舞いと言っても大した物は持って行けず、畑に咲いていた花を花束にし、小ぶりのスイカを持たせた。
本当は自分が行きたい。けれどそんな事など許されない。
せめてご機嫌伺いの手紙を託し、父を見送った。
「ご次男さんのご様子はどうなんだろうねぇ。心配だよ」
「少し良くっていられると良いけれど……」
父を見送った後、母とそんな話をした。
此の所手紙が届かない。やはりご容態がお悪いのだろうか。
そんな不吉な想像をしてしまう。どうか治ります様に。祈る事しかできない自分は非力だ。
ふぅとため息をつき、自分の仕事をこなした。
早朝出かけた父が、夜遅くに帰宅した。
その顔を見るなり、胸が締め付けられる様な、嫌な予感がし、つい何も聞けなくなってしまった。
「あなた、ご次男さんのご様子は?」
「ああ……。お話はできたよ。しかし……。沢渡さんのご主人も言っていたが、この夏を乗り越えたのが奇跡らしい。随分前から病気があった様だ。しかし、今のご時世、兵隊が足りない。何とか戦地へ行こうと無理をなさり、悪化してしまったと」
「まぁっ。ではずっと前から?」
「詳しい事はわからないが、恐らく……」
「そんな……。お手紙だってやり取りしていたのに……」
「柚。柚に手紙を預かってきている。もうあまり字が書けないそうだが。どうしてもと」
父は鞄から一通の封筒を差し出した。
それを受け取り急ぎ自室へと向かった。
小さく灯りをつけ、逸る思いで封をあけた。
『柚さん。この手紙が貴女に届く事を願っています。情けない。自分の病気が急に悪くなるなんて……。いよいよ来年の桜の花を見る約束は叶えそうもないです。本当に申し訳ない。当然ながら、こちらの桜の木も勿論咲いてはいないけれど、桜の花びらが散りゆく様が見えるようです。
貴女と交わした約束は果たす事はできないけれど、次の世でもう一度出会う事ができるのなら。その時はきっと一緒に。
交わした約束は違えたけれど、大海に映る大輪の花を、いつの日か共に見る事ができたら。隣には微笑む君がある事を願う。
どうか、どうか。幸せであって欲しい。そしてどうか泣かないで欲しい。いつでも強く、笑っていて欲しい。』
始さんのお手紙を大切に大切に机にしまった。
ああ、もう二度とお会いする事はできないのか。もうあのお姿を見る事も叶わないのか。
今だけは許して下さい。今だけは、貴方を想って泣かせてください。
これが最期のお手紙だろう。
私は始さんの事を思い、声を殺して泣いた。
そして……。
「沢渡始さんが亡くなったそうだ」
数日後、父が小さく呟いた。
沢渡家のご葬儀はしめやかに行われ、私は組の奥様方のお手伝いに回り、始さんのお顔を見る事も叶わず、心の中でお悔やみを申し上げた。
戦火の中での葬儀は、本当に寂しい物で、そしてまた、いつ爆撃があるか分からず、皆が慌ただしく動いていた。
「沢渡家のご葬儀なのに、寂しいわね」
「こんな時だ、仕方ない」
「組長さんのお家なのに……」
人々は口々にそう言って、簡単な法要の後、始さんは埋葬された。
始さんのお墓の前に立ち、思いにふけっていると、沢渡さんの奥様が声をかけてきた。
「柚さん。お疲れ様ね。始の遺品を整理していたら、これを見つけてね。受け取って頂戴」
「私に、ですか?」
「そう。柚さんに。あの子は真剣に柚さんを想っていたんだね。どうか柚さん、あの子を忘れないでね」
「ーー忘れるなんて! そんな事できません」
「ありがとう……」
奥様から受け取ったのは、まつの小枝と折り畳んだだけの手紙だった。
『段々と身体の自由がきかなくなり、苛だたしさを覚えます。思う通りに文字が書けない。思い通りに何もかもができない。それでもふと考えた言葉をここに……。
桜花びらひらひら君に舞落ちる。君を想う僕の代わりに。
二度と会えない二人だとしても、強く逞しく咲き誇る桜の様に、大輪の花を咲かせよう。
君の心が悲しまない様に……。
桜花びらひらひら君に。僕の心と舞い落ちて。あの日交わした約束は叶わぬけれど、涙流さぬ様に美しい花を咲かせよう。
二度と会えない二人だけども、強い想いで結ばれて、来世で想いが叶う様に。
桜花びらひらひら君に。涙と共に散り去って。
再び会える日を待ちわびて。
桜ひらひら花びら舞い散る、僕の故郷に想いを馳せて。
笑顔眩しい君に想いを込めて。
桜花びらひらひら君に。幸せ願い僕は桜になる。
後どれ位生きられるのだろうか。故郷に帰る日は、いつになるだろうか。毎日そんな事ばかりを考える。
前に浜辺にて松の枝を拾った。故郷には松はないから喜ぶだろうか。できる事ならこの手で直接渡したかった。悔やまれて仕方ない。
現実は現実として受け止めて、残された命をただ生きる。』
始さんの文字でそう綴られていた。
あの日に受け取った手紙を読んだ時、もう泣かないと決めたのに。どうして貴方は私を泣かせるのですか?
こんなに心が苦しいのに……。
その場にしゃがみ、私はもう一度涙を流した。最後の涙。始さんを想っての、最後の涙を。
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