星ノ巫女番外編 天狗になった娘
──1863年、あれから100年以上経過した夏の盆のこと。
寺の境内から
二人とは面識がないし、当然向こうも私のことを知らない。だが二人は確実に私の親族なのだ。それが
私は
この名は私の師である大天狗、光丸坊天元斎から頂いた名だ。人間だった頃の名はもう憶えていない。いや、単に思い出したくないだけなのかもしれないが。それだけ昔は辛い思い出が多かった。
そんな私を気遣ってくれたのか、我が師光丸坊は二年間の猶予をくれた。人としてやり残したことを僅かでも行い、少しでも悔いなきようにと。
実家が既になかった私は真っ先にこの寺へと足を運んだ。今思えばとんだ押し掛け女房だったと思う。それでも夫やその父は私を暖かく迎え入れてくれ、ささやかだが
二年間という歳月はあっという間だ。まだ物心つかぬ子を置いて行かねばならないのかと思うと断腸の思いではあったが、約束は約束だ。
様子を見に来た姉弟子から、我が師がこの国にいないことを聞かされる。気遣いの細やかな師の事だ、一時でも人では無い事を忘れさせるために黙って行ってしまったのだろう。このまま人として暮らせ、男は掴んだら放すな、と姉弟子は言ってくれるも、私の心は決まっていた。例え約束をした本人がいないとて、私はそれを不意にするほどの愚か者ではない。それに歳をとらずにいつまでも生き続けることへの恐怖もあった。先に朽ちていく周りを見ていることなど、とても自分には耐えられない。
書置きを残し去るつもりで居たところ、夫に見つかり黙って抱き寄せられた。いつかこんな日が来ると思っていたと言いつつ、泣き顔を無理矢理笑顔に変えようとしていたことを忘れない。
互いに私たちは不器用だったのだ。でもこの時が「あぁ、この人が夫でよかった」と一番思った。これが不器用だった私の一番素直な気持ちだ。
百年以上たった今でもはっきりと憶えている……。
それから後はずっと天狗の修業に打ち込んだ。天狗の世界では経験が全てに勝る。だがいくら鍛錬を積んでも姉弟子にはあと一歩及ばなかった。酷く落ち込んだ日は実家の裏出にある山まで行き、大きな一本の木の前で瞑想すると落ち着いた。
毎日私が鍛錬を続けられたかと言うとそうでもない。度々夫や子が恋しくて、戻りたいと泣く時も多々あった。だからといって気晴らしに人里を覗けば逆効果となってしまい、結局また修行に戻るのだ。蟻地獄のような毎日が嫌になり、天狗とは何ぞや?と他所にいる天狗に尋ねたところ「天狗で無き者を見れば天狗がわかる」という答えしか返ってこなかった。
あくる日のこと、私は二原の里の尼寺を訪れた。かつて私が姉と呼んだ人物に会うためだ。十数年振りに会った姉は頭を丸め尼となっており、以前の厳しい面影はなくなっていた。今はこれまで自分が犯してきた罪と母の犯した罪を償いながら生きているのだという。私の姿を見るなり涙ぐむ姉に、元気でやっているから心配しないで欲しいと告げた。
またあくる日のこと、唯一と言える旧友に偶然にも出会った。どこで会ったかははっきりと憶えていない。久しぶりに会った親友は大分と見違え、始めは誰かわからなかった。しかし話し合えばまた少女だったあの頃の私たちがそこにいた。
昔と比べ、彼女は大分おしゃべりになっていた。今では母と妹、それに一匹の猫と暮らしているらしい。楽しそうに話す彼女がとても眩しく見えた。
それから大分年月が経ち、私は様々な人物と出会い、様々な分野に目を向け、修行の仕方も自分で研究するようになった。全くと言っていいほど敵わなかった姉弟子に手合わせを挑み、今では互角に迫る勝率である。最近は面倒臭がって手合わせをして貰えなくなったのが残念だ。
──そして今、天狗は
──日ノ本は未曽有の危機に立たされていた
時代が変われば世界も変わる。鎖国を貫いていた幕府が衰退化し、次なる時代へとこの世は
師の嫌っていた偽者の天狗、一介の天狗として彼らの行動を許す訳にはいかない。何より罪無き者たちの血が流れるのを黙って見過ごすわけにはいかないのだ。
放っておけば今、目の前にいる親子も戦火の渦に巻き込まれてしまうだろう。
戦の足音は下野ノ国の傍まで近づいていた。
「ん? どうしたの? ……そう、茜が呼んでいるのね」
使い魔の
私が木の枝から立ち去ろうとした時、下にいた子供と目が合った。
微笑みかけると私は空へと飛びあがる。
「父上、今木の上から誰かが見ておりました」
「きっとそれはご先祖様だよ。私たちを見て下さっているんだ」
──私は菖蒲 私は天狗
星ノ巫女番外編 天狗になった娘 完
構想段階だった物語 ─あやめの乱─ より
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