篭め 篭め 上章 其ノ六


 八潮の巫女は一人、社の離れで読書に没頭していた。


『ケノ國放浪記』


 あさぎから手渡された例の読めない日誌、志乃にとっては母の物かも知れない日誌でもある。だが、今は違った。


(……。……、…………)


 そう、白紙に見えた筈の場所に文章が現れ、他の書物同様に読めるようになっていたのである。志乃は無表情で目を通しながら、その内容に時折眉を動かした。見開いた眼は決してまばたききせず、逸らすことも無い。



──陽炎や 商い宿が打ち水の 土気香りて天を仰げば


──ゆきゆきて 雲海包まれ霧ヶ峰 聞きしに勝り値千金


──黄昏に 子鴉鳴きてわらべ唄 昔想ひて涙こぼるヽ


 母と思わしき人物がケノ国各地を歩き、その度心に留めた事柄を記し、時折短歌にするといった流れとなっている。驚いたことや、印象に残った出来事などを茶目っ気も混じえながら書かれており、記憶が曖昧な志乃だが、目を通しながら

『ああ、かあさんらしいな』と、時折目頭が熱くなるのだった。


 しかし、先に進むにつれ、その内容は異質なものとなっていく……。



『某日、護摩ごまの灰(追いぎ)に会う。手癖が悪く難儀していた様なので、手を落とした』


『某日、峠の外れにて獣の肉を焼いていた者に出会う。何の肉かと尋ねたら指された先に人骨や臓物が散乱としていた。遠慮したところ、普段何を食っているのかと呆れられた』


 そして、極めつけが以下の通りである。


──かねてから呼ばれていた園遊会に参加することとなった。


 時期になると屋敷の庭園が、遅咲きではあるが見事なまでに花開くのだという。

私も以前から興味はあったが、何故かその時はあまり気乗りしなかった。案の定、庭園では主と思われる公家が、女をはべらせ宴会を開いている。そこには気品やわびさびというものなど一欠片ひとかけらも無い。

 きょうが醒めた私は酌の相手もそこそこに、隙を見て一人抜け出すことにしたのだ。


………



(──桜は本当に見事なものね……まるで心が洗われるよう)


 少し離れた場所に咲いている桜の木を眺め、ちゆりはそう思った。花といえば梅と思っていたが、桜の淡い色の花弁は何とも言えない奥ゆかしさを感じる。地主の物好きさが気まぐれに作ったのだろうか、だとすれば奇跡の情景であった。


(ちょっとあの傍まで行ってみようかしら)


 根元まで行けばもっと綺麗に違いない。そう思うと自然と足も早くなり、自分が招客なのも忘れてしまっていた。



(あぁ・…)


 広い敷地の一角はまさに別世界であった。高い枝に咲いた花が自分を見下ろし、花弁を降らせてくる。

 更に奥へ進むとそこには一際大きい一本の桜が。高く長く伸びた枝が四方に伸び、地にまで垂れている。大木の真下から見上げると桃色のわんを逆さまに被せたようだ。

 暫し、世界が桜の花に包み込まれたような感覚すら覚え、我を忘れてそこに立ち尽くした。


『──高天たかあまの 木花開耶このはなさくや舞咲けり……』


 完全に桜の世界に入り込んでいたちゆりは人の声で咄嗟に我に返る。

 見ると木の影から女が一人こちらを見ていた。


『いけない人。はぐれて歩いては駄目よ』


 十二単じゅうにひとえを思わせる着物を着ていたが供はおらず、おしろいもつけていない。何より長くて癖のある金色の髪が目を引いた。

 だが、余りに人離れしたその風貌ふうぼうより、女が何者なのかという事よりちゆりは別のことで頭が一杯だったのだ。


「今の唄、続きは詠んでくださらないの?」


 女は目を細めるとにこやかに近づいてくる。そして……。


「知りたければ人間の生肝を頂さらない? すすりながら桜を愛でたいの」


 その瞬間、突風が吹き荒れ桜の花弁が舞い散り視界を覆う!


 そうだ! おかしいと思っていたがまだ桜の開花には時期が早過ぎるではないか。この桜は全てまやかし! するとこの女は!?


「貴女、人間ではないのね?!」


「木花開耶でないことは確かよ」


 女がちゆりの喉元へ飛び掛ろうとした、まさに時!


「ぷっ、あははははっ ……あぁ、可笑しい」


 何事かと目を丸くしている女を尻目に、ちゆりは腹を抱えて笑いだした。


 笑いながら、結った髪を解き始める。バサリと広がった黒髪は、頭から血を被ったように一瞬で真っ赤に染まった。


「残念だけど私もなの。ごめんなさいね、食べてあげられるわけにはいかないわ」

「……」


 女は驚きとも呆れともとれる顔をしながら、軽く一息つく。


「……もう一つ残念なことがあるわ。実は先程の唄、続きがないの」


「それは本当に残念。そうね……『夢幻や 腹は膨れじ』なんて如何?」


「それはお止めになった方が宜しいわね」


 花一つ咲かない山林の中、二人は大笑いした。

 互いに涙を浮かべて笑い疲れるほど笑った。


「私はちゆり。貴女は?」


「私は……」


……


 その時、この人は自分の名前を忘れたと言った。思い出したくない、とも。そして人間の匂いしかしない私を『変わっている』とも言った。

 私は他人から『変わっている』と言われても、他人に対してそう思ったことは無かったと思う。ああ、そういう物なのだ、と勝手に自己解釈してしまうからだろう。それが人里で上手くやれてきた理由なのかもしれないが。


 けれどこの時、私は初めて他人を『変わっている』と思った。人間を見ても人外を見ても、そう思ったのはこれが初めてだ。いつしか私の中で、この感情は興味へと変わっていた。


 次にこの人に会った時、『あさぎ』と呼んで欲しいと言われた。

 

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