狙われた里 上章 其ノ五
一足早く雪が積もり、銀世界に衣替えした那須連山。その一角にある大岩を前に、イロハは居合を仕掛けるべく構えている。
(この足場でどれ程の力が出せるのか……)
人の姿をした蒼牙でも膝まで雪が積もっている。この状況で、どんな技を使ってもよいから岩を斬れ、とイロハに命じたのだ。体勢を低くし後ろ姿のイロハの表情は分からないが、辺りの空気が凍るくらいに集中しているのが感じとれる。
(──動いた!)
……ゴゴゴゴ……!
ガラガラッ!! ドオオォォ──ン!!!!
目の前にあった岩は三つに分かれ、後ろに倒れて崩れた!
イロハは一歩も動かなかった様に見えた。しかし足場はわずかに跡がついている。刀が鞘から抜かれていたことから、岩を斬り、その場に戻っていたことがわかる。
ほんの一瞬にも満たない出来事で、蒼牙ですら目で追えなかった。
「斬った後に岩を蹴ったのか?」
「同時、かな。刀が折れそうで二太刀しか入れらんねかった。いつもの刀なら三太刀入れられたろうし、もっとよくできたんだけど。この雪だしなぁ……」
「見せてみろ」
言われてイロハは刀を渡す。刃こぼれ一つしてはいなかった。
「……よくやった。これからは自分で技を磨いていけ」
「……へへ」
「よし、帰ろう。あまり屋敷を離れると皆から良い顔はされんからな」
「うん」
久しぶりに父から褒められたイロハはまんざらでもなかった。だが、イロハの心に引っかかっていたことが一つ。
珠妃の屋敷で見た白い幻影のことだ。
あれは誰だったのだろうか? 蒼牙は狛狗の末裔、術の類もいくばかは使う事が出来る。まさか蒼牙が……?
「……なぁおとう」
後ろを向き、帰ろうとする蒼牙の足が止まる。イロハに呼び止められた反応ではないことがすぐわかった。先程から何者か隠れている!
(気配はかすかにしてるけど殺気は無い)
構えて警戒するイロハに蒼牙の声。
「イロハ、先に帰っていろ」
「?」
「心配いらぬ、俺に話があるようだ。行け」
言われて素直に屋敷へと歩きはじめるイロハ。
念の為、ちらりと後ろに気を配った。
(……やっぱり兄者だったか)
案の定、といったところか。誰にも聞かれたくない話でもあるのだろう。気にはなったが、そのまま気づかぬ振りを決め込んだ。幻影の術について訪ねたかったがまた今度にしよう。
…………
「行ったぞ。イロハには気付かれていたようだが」
狛狗の姿に戻った蒼牙は独り言のように呟く。
「だろうな。これ程までの力を身に着けたのだ。だが実戦で相手を斬れるかどうかは別の話だ」
「イロハがまだ未熟だと言いたいのか?」
蒼牙がそう言うと、
「叔父御も分ってる筈だ! イロハに一族を背負わせるのは荷が重い!」
「……」
「あいつが一族の長を継いで以来、俺はずっと奴の行動を見てきた! 先日の事だ! イロハは九尾狐の
あの時、イロハの前に現れたのは蒼牙ではなく月光だった。イロハが窮地に立たされた時、心に幻影を送る術を密かにかけておいたのだ。
今は那須山全体に『珠妃を見つけても放っておけ』というお触れが出ている。既にイロハが珠妃を斬る道理は無かったのだが……。
しかし、あえて蒼牙は黙って月光の話を聞く。
「それだけじゃない! イロハが一族を率いることに不安を持っている者も少なくない! 叔父御、俺とてこんなことを好きで言っている訳では無い、このままでは一族がバラバラになるぞ? それでもいいのか!? それでもイロハを長にするのか!?」
「無論だ。言いたいことはそれで全てか?」
(な……!)
珍しく己の考えを蒼牙にぶつけた月光。
だが軽くあしらわれ、更に
「……叔父御は何も分かっちゃいない。あいつにとって今必要なのは、長としての地位でも部下でもない、経験と信頼できる仲間だ! 狛狗の古い仕来りがあいつを縛っている! 一族の指揮なら俺でも執れる、イロハを自由にしてやってくれ!」
「月光、それがお前の考えか?」
「そうだ!」
雪原の森の中、同じ姿をした二匹の獣が互いに目を光らせる。
闇は次第に濃くなっていった……。
イロハが帰ると庭で薪を割っている音が聞こえる。
(誰だべ? おかよかな?)
この時期になると屋敷に住んでいる山狗たちは交代で冬眠に入り、人間のおかよはその間、
だが庭に回ると、やはりおかよが
いつものおかよだ。
「あんれぇ、おけぇりなさいませ。今、
「今日からあっちさ行ぐって言ってたのに。何かあったんか?」
イロハの言うあっちとは隠者の里のことだ。
「へぇ? あ、あーあー。んー、こどしはやめときます。何と言いますか……あんまし良くないことが起きそうというか……うん」
きょとんとしたと思えば言葉を濁すおかよ。それは最近具合の良くない蒼牙が今年こそは危ないのではないか、という気遣いからだった。
「とごろで蒼牙様はどこに?」
「おとうならまだ奥山のほうだ、多分兄者と一緒」
「ああ、ほですか(そうですか)。イロハさんの方からも、あんまし出歩かないよう言ってくだせ」
「うーん……言ってんだきとなー……あ! 帰って来たげ?」
入り口の方から声が聞こえた気がした。しかし、待てども誰も入ってくる気配が無い。気になったイロハは小走りで入り口へ向かった。
「おとう、居んのけ?」
小さな水倉家の門をくぐり、様子を伺う。
誰も居ない。
(上の方に誰か居んな)
キョロキョロと辺りを見回し、態と気付かない振りをする。
「何処に居んだ?」
ヒヒッ……
あぁ、あいつか。そう思った時、背後から風が吹く。
(やっぱり後ろか?!)
同時に、前方に気配を察知し、イロハは刀を抜いていた!
『え!? うわっ!!』
ガチンッ!!
「あっ!」
寸止めが効かず、前方の相手に刃が当たっていた。よく見ると相手は避けようとしたが避けきれず、手に持っていた何かで刀を受けたようだ。
両者、暫し硬直する。
「……あっぶなっ! お前はいきなり斬りかかるのか!」
(だ、誰だこいつ?!)
そんな驚いている二人に、笑いながら姿を現す春華。
「あっはっはっはっ!! やーい! 斬られてんのー! おっかしー!」
「お前が声出すからだろ馬鹿! あーもう、折角貰った鉄扇が台無し……」
「鉄扇……?」
娘は重そうな扇子をいじっては溜息をついている。修験者の様な格好で、足元には荒縄で縛った下駄を履いていた。きっと雪中でも脱げないようにとの工夫なのだろうが、何故態々この雪山で下駄など履いているのだろう?
「おーす!イロハー! にしし」
待ち兼ねたように春香は修験者娘の頭にしがみ付く。
「やっぱりおめぇだったか! あ……えと……」
「降りろ馬鹿っ! ……あーうん……暫くだな、チビコロ」
「……誰だ?」
馴れ馴れしい呼び方にムッとするイロハ。さてはまた珠妃の悪戯ではなかろうか、と勘繰り出す。その様子を見て娘は「やはり忘れてたか」とばかりに取り出した面を被り……。
「ほーれー!チビッコロー! 喰っちまーどぉ~!!」
「ぶっ!! ははははは!! なんだそれ!」
お
「あ! あかねぇ……?」
面を取り笑顔を見せる修験者の娘。まだイロハが幼かった頃、度々
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