幽霊の掛け軸 中章 其ノ三


 そこは一面明るい場所で、紫色の花が咲き乱れていた。気が付くと佐夜香は見知らぬ場所を一人立ち尽くしていたのである。

 体の痛みはどこにも無い。むしろ身体が軽く、ふわふわと雲の上を歩く様な感じがして気分がとても良かった。


(ここは……)


 ふと下を向き、咲いている花を見た。


(これは菖蒲あやめ? こんなに沢山……)


 菖蒲は佐夜香の一番好きな花だった。りんとして咲き、寂しげで切ない感じが美しく、すらりと生えている力強さがあったからだ。


(一体どこまで続いているの?)


 空は一面霧のような雲に覆われている。

 太陽は出ていないがとても明るい。


 辺を見回しながら歩いていくと、目の前に川が見えてきた。霧が辺りに立ち込めているのでよく分からないが、相当大きな川なのだろう。向こう岸が見えなかった。

 ふと、川の上に人影が浮かんでいるのに気付く。


(誰か居る)


 目を凝らして見ると人影は二つ。

 そして徐々にはっきりと見えてきた。


「…お母様!? お父様!」


 顔は霧がかかっていてよく見えない。だが二人共見覚えのある服装をしていたのですぐにわかった。佐夜香が幼い頃に死んだ両親だったのである。


「お母様! お父様!! 私です、佐夜です!!」


 次の瞬間、佐夜香は何も考えずに足を踏み入れ駆け出していた。思ったよりも川は浅く、向こうまで行けそうな気がした。


『成りません、お戻りなさい』


 振り返ると、川のほとりに一人の女性が立ってこちらを見ている。

 誰だろうか? 黒い服装に長い髪、見知らぬ者である。一見忍びにも見えたが、このような者は身内でも見た事がない。背は自分より少し低いくらいで菖蒲と同じ紫色の髪が印象的だった。


「これは火車の作り出した幻影、進めば地獄に引き込まれます」


 そうだ、言われて思い出したが自分は先程まで火車と戦っていたではないか。再び川の方を振り向き、両親の姿を垣間見る。今度ははっきりとにこやかに笑い、佐夜香に手を振っている姿が見えた。


「お戻りなさい、貴女にはやるべきことが残っている筈」

「……」


 しかし佐夜香はあろうことか再び両親の方へと歩き始める!

 これには女性も驚き、慌てて駆け寄り腕を掴む!


「お待ちなさい!」

「……嫌です! 離してください!」

「先に進んでも御両親には会えません。辿り着くは地獄!」


「それでもいいんです!!」


 掴まれた腕を振りほどき、大声を上げた!


「私は……もう楽になりたい……生きていても苦しいことばっかり! どうせ死んでも地獄にしか行けない……。同じ苦しいのならいっそ一人になりたい! 私の代わりなんて誰でも……ぅぅ」


 年甲斐もなく泣きじゃくる佐夜香。

 女性は肩に手を置き、優しく言葉をかけた。


「貴女は一人ではない、本当のお迎えがそちらに居られますよ」


 女性はそう言って川の岸辺の方を指差す。


「…うう…うぅ……ひっく……」


 言われて再び顔を上げると、浴衣姿の少女の姿があった。


──佐夜、帰ろう


佐夜香「鈴音…姉……さま…?」


 頭の中へと響いてきた声につられ、佐夜香の足は自然と元来た方へと歩み始める。それを見て鈴音も向こうへと歩き始めた。


(前を向いてお生きなさい。つまづいても決して後悔しない様に…)


 後ろから女性の声が聞こえると、佐夜香の視界が真っ白な光に包まれた。



「ぎゃぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!????」



 句瑠璃くるりの絶叫で佐夜香は目を覚ます。気付けば辺りはとてつもない豪雨に見舞われ、自分は泥まみれで地に突っ伏していたのだ。


 目の前に誰かが立ち塞がっている!


「腕がぁっ?! 腕がぁあああああ?!!」


 恐ろしげな声を張り上げ、先の無くなった腕をブンブン振るう。黒い水しぶきが辺りに飛び散った。

 一方目の前で立っている人物は手に何か持っている。

 それは紛れもなく句瑠璃の片腕!


「たあぁぁあ!! お、お前は烏森からすもり鴉蛇からすへび!? 何故だ?! 何故余所者のお前が人間を助けるぅぅぅ?!?!」

「この御方の恩に報いたまでのこと。しかし他所の里を荒らすつもりも無し」


 そう言うと持っていた片腕を句瑠璃に投げて寄越した。長く爪の伸びた腕は水溜りにぼちゃりと落ちる。句瑠璃はそれを素早く拾うと血走った目で女性を睨んだ。


「この場で私と事を構えるか? それとも引くか?」

「にぎゃぁぁ!! ぐぐぐ!!」


 句瑠璃は何も言えなかった。織原おはらの妖怪は強力な者も居るが、各々が特に団結している訳ではない。むしろ自我が強く、互い争いも珍しく無い。

 助けを呼ぶ相手が居ないばかりでなく、自分が手負いになったことを他の妖怪に知られたら住処を追われる羽目になるだろう。普段からそれだけ句瑠璃は素行が悪く、周りから嫌われていたのだ。


 目の前の出来事を把握しようと、佐夜香は立ち上がろうとする。今度は身体に力が入る! 何とか立てることができそうだが、一歩のところでふらつき、目の前の女性に支えられた。


「にぎぎ……散々だよ! 打ち合わせと違うじゃないか! けど憶えとくんだね、寺で人間が死ぬよ!! いっぱいいっぱい死ぬんだよぉぉ!! にへへへはははっ!!!」


 そう言い残すと焼け落ちた民家の上を飛び去っていった。


 句瑠璃が去るのを確認した女性は、抱きかかえている佐夜香の顔を手拭いで拭う。


「お飲みなさい。この霊水を飲めば力が戻る筈」


 懐から竹筒を取り出すと佐夜香に飲ませた。何とも不思議な味がしたが意識がはっきりとしてくる。今度は自力で立てるようになる佐夜香、思えば火傷を追った筈の腕の痛みがない。

 何とか視界がはっきりしてきたところで確認すると、この者は先程の夢に出てきた女性ではないか! 女性は佐夜香が自力で立てるのを確認すると、その場に膝を着いてこう言った。


那珂なかの川姫、平井出ひらいで琉玖るく姫の遣いで香清かせいと申します。此度こたび、姫の愛馬を助けて頂き誠に感謝致します」


 どうやら昼間に助けた馬は、この者の主の馬だった様だ。


 二人は空を見上げた。

 豪雨で周囲の民家はすっかり鎮火し、次第に雨も止んでくる。

 雲間から星空が見えた。


「直に町の人間も戻ってきましょう。これより私は産まれ里へ帰らねばなりません。これにて失礼、ご武運を……」


 香清の姿が視界から消え、目の前に黒い何かが浮いていた。名状し難いそれはあっという間に宙へと舞い上がり、南の空へと飛び去っていった……。

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