第伍話 化け物の産声


 血生臭い匂いと違和感を感じ、トラは目を覚ました。辺りを見渡すと暗い森の中、既に夜になっていた。


──俺は夢でも見ていたのか…?


 すぐ横に死んだ猪が横たわっていた。そうだ、こいつをしとめ、自分は怪我を負った筈だ。体を調べたがどこも痛みは無い。


──夢……いや、夢ではない! すると俺は……。


 猪を倒し、妙な蛇に噛まれ、気が付いて起きた時に女が三人いた。トラは女たちの話を一つづつ思い出し、そして自分がなぜここに居るかを理解すると怒りがこみ上げてきた。



 自分は生かされたのである。



──情けをかけられたというのか?! この俺がっ!!!


 トラは怒り、悔しがり、ありったけの力で咆哮ほうこうを上げた。生まれて初めて感じた、完膚なきまでの、そして屈辱的な敗北……。「これはお前の物だ」とばかりに添えられていたほどこしが、怒り狂うトラをさらに憤慨ふんがいさせた。


「ふざけるなっ!!! 俺は那珂なかの主、トラだ!!!」


 山林中に轟くほどの叫び声。そしてトラの体は次第しだいに膨れ上がった。

 熊ほどの大きさまで膨れ上がると、丸太の様に太くなった足が体を直立させた。

 暗闇の中で目は赤く光り、長かった尾が二本に裂ける。


 猪を踏み潰したトラは怒りに任せ前足を振るった。目の前の木がバキリと音を立てると、割れた先が飛んでいく。今のトラには目に見えるもの全てが憎かった。地響きを立て走っては前足を振るい、前にあるものを手あたり次第に粉砕した。目前に現れたのは獣か妖怪か。そんなことはどうでもいい。出会い頭に鋭い爪で引き裂き、振り捨てた。


 山を駆け下って行った先に光が見えた。人間の住処すみかだ。思えば人間はなぜ自分たちよりも繫栄し、自分たちを上から見下ろしているのか。


 何が人間か!! 何もかも皆殺しだ!!!


 一軒の大きな人家を襲うべく、光を目掛けて長い山林から抜けいでた。





──リリ… リリン



(…鈴の…音……)


 濁流のごときトラの猛進を止めたのは、軒下に吊るされたままの風鈴の音だった。立ち尽くし、懐かしき音に耳を澄ますと、幼き頃をおぼろげながらに呼び覚ました。



(……そうだ、莉)


 その時、近くで轟音が鳴り響き、トラの肩に鋭い衝撃が走る。


『化け物だー! はよう男衆を呼べっ!』


 人間の声で我に返ると、目の前で初老の男が火縄銃を構えていた。


『はよしろっ! 子供らは家から出んなっ!』


 再び山林へと戻るトラの背に声が響いた。


(……化け物……? 俺が……俺が…化け物……?)


 山林を走りながら、我に返ったトラはみずからを問う。

 自分が、化け物?

 頭の中が真っ白になり、こわばる足を鞭打ちながら故郷を目指した。


 烏森からすもりの里を抜け、那珂の里の川に差し掛かると、水に写った自分の姿が目に入った。


(これが俺だと…?)


 月明かりで水面に映し出された黒く巨大な影、思わず自分の前足を見た。


(……化け物……お、俺は、化け物になってしまったのか!?)


 川をザブザブと渡り、かつての自分の家に向かった。



バタンッ


「ひいっ!?」


 かつての住屋は見る影も無かったが、人間が住んでいた。男が帰って来ていたかとトラは思ったが、全く別の人間がそこにいた。トラを見るなり童子は泣き出し、女は気を失い倒れる。童子を震えながら抱く男の横に、腰を抜かした老婆がいた。


「ぎゃぁ──!」

「あ、あ、ば…ば…」


 トラは構わず家の奥へと入る。記憶を頼りに床を剥がすとそれは見つかった。


(…あった、よかった……)


 家を出ようとすると、その身なりの貧しそうな人間たちは家の隅で震えていた。


後生ごしょうだがら…! どうか後生だがら喰わねでくろぉ!」


 数珠を擦り合わせ必死に懇願する老婆をよそに、鈴を咥えたトラは立ち去った。

 後日、役人がこの家を訪れ、近く山狩りが行われたが遂にその化け物は見つからなかった。


 ──そして、数年の月日が過ぎた。

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