落下

森音藍斗

落下

「えぇ……何お前、死のうとしてんの」

 ……見つかった。

「別に、死のうとなんてしてない……」

 弱々しい声で反論できるはずもなく。

 させてくれるはずもなく。

 女の子の部屋に、ノックも無しに入ってくるなんて無礼な。

 一年間の無礼の繰り返しの中で当たり前になってしまっていたことを、喜んでいた数日前の自分を殴りたい。

「ハレてJDになれることが決まったJKさんが何やってんの」

 それが。

 嫌なんだって。

「ハレてないもん」

「『もん』じゃねえよ」

「ハレてないもん……」

 貴方がため息をつく。

 ため息をついて、私と私が座っている勉強机に歩み寄る。

 一年間。

 長いようで短かった一年間。

 私はこの机の前に座り続け。

 貴方は、もう大学受験などとは縁を切る筈だった貴方は、この勉強机の隣に座り続けてくれた。

 私の右側、貴方の定位置——もう定位置と呼べるぐらいには馴染んでしまったその回転椅子に貴方は座り、机の上に広げられた、いつもと違う、教科書でもノートでもない、場違いな錠剤の山を、貴方は、ゆっくりと崩していく。

 壊していく。

 時間を巻き戻していく。

 人を眠りへといざなう旨を記した紙箱の中へと、私の心意気を、押し戻していく。

 そして、一箱分に詰め込まれた二箱分の毒を、自分のジャケットの内ポケットに入れる。

「何やってんの」

 貴方はもう一度尋ねた。

「特に何も」

 私は俯いたままそう答える。

 まるで、何も分からなかった頃の、去年の四月の私のようだ。

 十年ぶりに貴方と再会して、その変化と不変に戸惑っていた頃の私のようだ。

「何やってんの」

 三度目は……耐え切れなかった。

 私の目から熱い液体が溢れて零れるのを見て、貴方は私の頭にそっと左手を乗せた。

 私は声を押し殺しながら、それでも目一杯泣いた。

 貴方の前で泣いたのは、今日が初めてじゃない。

 小さい頃は、転んでは泣き、食べ物を落としては泣き、物を取られたと言っては泣き、お友達ができないと言っては泣いていた。

 貴方はよく頭を撫でてくれた。

 問題文の意味が理解できないといっては泣き、解説を読んでも分からないと言っては泣き、模試でD判定を出しては泣き、泣いては泣いた。

 貴方はいつも頭を撫でてくれた。

 それなのに。

 それなのに——私は。

「第一志望じゃなかったけどさ。この一年の努力は、絶対お前の糧になってるし。お前がずっと頑張ってたのは俺が一番知ってるし。お前の大学四年間は、絶対素晴らしいものになるよ」

 貴方はその落ち着いた低い声で、ゆっくりと私の心を崩そうとする。

 白い錠剤の山と同じように。

 白く凍てついた私の心を。

「呼ばれたんだよ。お前があの大学に行くことになったのは、お前が呼ばれたからなんだよ。残念だったな、第一の大学は、お前の良さが分からなかった、そんな馬鹿な大学に行く必要はない。お前が求められている場所で、たくさん楽しんでたくさん輝けばいい」

 でもね。

 そう貴方が言う度に、込み上げる涙は加速する。

 声も出せないくらいに。

 違うんだ。

 それじゃ崩れないんだ、今回の氷は。

 貴方も困惑したようだ。

「どうすればまた笑ってくれる?」

 まさか、本当にここまで。

 死を行動に移すまで。

 思い詰めるとは思っていなかっただろう——私だって思っていなかった。

 ごめん。心配させてごめん。迷惑かけてごめん。

 でも、そうじゃない、そうじゃないの。

 しゃくりあげながら、何とか言葉を発しようとする私を見かねて、貴方はとうとう私の頭を撫でる手を。

 離した。

 それから、両腕を私の背に回し、ぎゅっと抱き締めた。

 子供のように。

 それはもう、赤ちゃんのように。

「この状態なら喋れる?」

 顔が見えない状況で。

 顔が見えないのに、さっきより貴方を感じられる状態で。

 こんなに貴方を感じるのは生まれて初めてで。

 嘘はつけない。そんな気がして。

「お兄ちゃんが」

 お兄ちゃん、と呼んでいた。昔から。

 気取って『貴方』なんて呼べるのは、心の中だけだ。

「お兄ちゃんが、自分の時間を割いて一生懸命頑張ってくれて、毎日勉強教えに来てくれて、うちに来てる間以外も、いっぱいいっぱい私の勉強のこと考えてくれて、」

 それなのに。

 答えが出せなかった自分が申し訳なくて。

 謝らなきゃいけない場面で慰めてもらっちゃってる自分が情けなくて。

 本当は、貴方の顔を見る前に消えてしまいたかったのに——

「馬鹿」

 貴方は私を抱き締めたまま、そっと私の頭に掌を乗せた。

「もうお前の顔見られないとか、そんなひどいご褒美あるかよ」

 こんなに頑張ったのに。

 お前と一緒にいたくて。

 お前の一番近くで、お前の一番力になっているのが自分にしたくて。

 お前に必要とされたくて。

 滅茶苦茶頑張ったのになあ——

「単位落としながら」

「え、単位落としてたの」

「一個だけね」

 へへ、と貴方は軽く笑った。

「お揃いだね」

 単位が落ちて。

 大学にも落ちて。

「笑いごとじゃないんじゃ……」

 私の涙はもう止まっていた。

「ついでだし、もうひとつ落としちゃおっか」

 え?

 私はその意味が分からず、ちょっと体を浮かせて貴方を見ようとした。

 けれど、貴方の震える手が、それを圧し留めた。

「もう、お兄ちゃんって呼ぶのやめない」

 貴方は唐突にそう言った。

「同じ土俵に立たせてくれない」

 その声も震えていた。

「これで——俺に、落とされてくれたりしない」

 でも、それが笑えないくらい。

「……言われる前から」

 答えた私の声も震えていた。

 震える声で、貴方の名前を呼んだ。

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落下 森音藍斗 @shiori2B

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