語学力ゼロだった僕が行った世界

@isourounin

第一話 物語は何気ない一言から

 「おう、お前の留学決まったぞ」


 バイト漬けの冬期休暇も終わり、新年の挨拶へ顔を出そうと、大学のゼミ室に向かい、ノックしてドアを開けるなり、講義もそっちのけで、ロマンスグレーな教授のヒゲまみれの口から軽いジャブが飛んできた。授業中であったかと申し訳なく思いながらも、その言葉に軽い動揺を覚えた僕をよそに、ジャブは続く。


 「我がゼミ初めての交換留学生や。他の教授から枠取るのに苦労したで。3月から留学やから、パスポートとかビザの用意しとけよ。それと――」


 どうしてこうなった。そう思っていた僕に、昨年行ったゼミの忘年会でのたわむれの記憶がよみがえる。



 12月某日の忘年会。いつものように教授の太鼓持たいこもちに先輩より任命された僕は、教授の話に相槌あいづちを打ち、他のゼミ生が酔っぱらった教授の矢面やおもてに立たないよう苦心していた。どうにか被害は軽微けいび程度に抑えられ、後は楽しく二次会のカラオケかと思ってた時、ふと教授が皆に聞こえる声で言った。


 「誰か中国に行くやつはおらんか」


 盛り上がっていた席に沈黙がおとずれた。

 ヤバい。これを上手にかわさなければ教授が不機嫌になる。場は未だに静寂せいじゃくが支配している。周囲へ視線を向けると、こういう時の為の太鼓持たいこもちであるかのように、皆の視線が僕に刺さった。フォローはしてやる、行ってこい。そう言わんばかりの皆の視線を受け、僕は某お笑いトリオの流行ギャグをおずおずと手を挙げて実行した。


 「じゃ、じゃあ僕が行きます!」


 これなら他の人もうまくフォローしてくれるだろうと期待しながら周囲を見るも誰もが沈黙し、そこにあるのは居酒屋特有の音のみになった。誰のフォローもない事に困惑した僕は、その沈黙ちんもくの席の中、数年前に流行した映画の主人公が発したセリフを心の中で叫んだ。


 「――タスケテクダサイ」


 その想いが通じたのか、沈黙ちんもくに耐えられなくなったのか、すべり芸だとおもわれたのか。皆が一斉に笑い出し、静寂せいじゃくから喧噪けんそうへ。安堵あんどしつつもこれでかわせるのか答え合わせをしなければと思い、教授の方へ視線を向けると、満面の笑みでうなずいていた。どうぞどうぞというゴールへとは行けなかったが、どうにかセーフであったようだ。僕は安堵しながらその後の二次会へと場所を移した。




 「――であるから、君には我がゼミと私の面子をつぶさないようによろしく頼むぞ。中国語勉強してないと言ってたが大丈夫大丈夫。あっちでは英語通じるから」


 セーフじゃなかった。いや、教授にとってはセーフだったのだが、僕にとって完全にアウトだった。落ち着くために見たこともない学生――たぶん今年度の新入生達――が空けてくれたソファーに座り、タバコを取り出し吸っていいかの問いだけして一服する。新入生達はびっくりしていたが、この部屋では授業中でも喫煙が許された年齢のゼミ生ならば喫煙可能なルールなのだ。タバコを吸わない新入生達にささいな罪悪感を覚えながら、僕は煙とともにはきだした。


 「それはもう決定ですか?」


 タバコによって動揺がおさまった僕がどうにかはきだした言葉に対し、教授から軽い口調であったがとてつもなく重いストレートを受けた。


 「おう、もう学長にも報告したし、休学届の用紙もここにあるぞ。君たち、我々のゼミは彼のように留学したいという熱い志をもった学生が多いから、もし興味があるなら、いろいろと質問などをしてみるといい」


 四面楚歌とはまさにこのことである。某お笑いトリオならば聞いてないよと言いながら帽子を地面に投げたことであろう。しかしながら、ご満悦まんえつな表情の教授と好奇心を刺激された新入生の視線が、僕に否定を許さなかった。


 その後の記憶は曖昧あいまいではあるが、ともかく僕はこうして留学へ行くことが決定づけられてしまったのである。

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