深大寺 恋愛小説

うさぎつき

第1話



天気予報に傘のマークが並ぶ合間の昼下がりに、ふらりと会社を抜け出した。


白を基調とした外資系の企業では、四季折々の変化もなければ昼と夜の時間の流れさえも積み重なる雑務の山と業務メールの返信に終われて、忘却の彼方に沈んでしまう。半時間毎に区切られたスケジュール帳を片手に社内を走り回ればそれだけで毎日の運動の大半が終わってしまう。

だから、ふらりと抜け出した。

定型文を繰り返すだけの電話対応に、自分がいなくても回る無意味な会議に、大半が上司と同僚の愚痴で占められた雑談に、何もかも嫌気が差して社外営業の表情を浮かべて久し振りの六月の空気を吸いに外へ出た。

別に自分を不幸だとは思わない。志望した大学には人並みの努力と勉強で入学した。大学ではサークルの友人とバイト先の先輩と年相応の遊びを覚えて、少しだけ悪い大人の遊びを教えて貰い、授業の出席も悪友たちと知恵を出し合って効率よく出席を稼ぐ方法も身に付けた。勤務先の企業だって、名刺を見せて社名を名乗れば感銘の声と羨望の眼差しを少なからず浴びる。そんな順調な人生に不満を漏らすなんて、他の人間が聞けば贅沢な悩みだと言って肩を竦めて苦笑するだろう。

それでも心の奥底にある空虚な感情が、掟破りの嘘を自分に吐かせた。

雨もなく、晴れもなく、風もなければ季節の移ろいも感じられない人工的な空間に背を向けて、けれども骨の髄まで染み込んだ愛社精神が足を引っ張るから――だから深大寺。


東京都下にある深大寺は、湧き水のせせらぎに鬱蒼とした緑の森に、石畳が連なる昔ながらの空気を纏った茶店の数々と、俄には都心から一時間足らずで行き着ける場所とは思えない閑静な趣が漂う場所だ。雨続きの切れ間である今日などは、からからと回転する水車の音に加えてワイシャツまで潜り込むほどの湿度と濃密な木々の香りが五感を刺激する。枝葉の深緑と、それらが交差する漆黒の陰から顔を出す紫陽花の青色も異世界に迷い込んだかのようなとろりとした色彩の奔流だ。

バスを降りて歩いてみれば革靴に水溜まりの飛沫が跳ねる。

靴裏の汚れを落とす泥拭きマットも当然あるはずもなく、足を踏み出す度に茶色く跳ねる汚れには嫌気が差すけれど、至れり尽くせりの設備の方が異端と気付けば少しだけ頬が熱くなる。それと同時に身勝手な自分の行動もちくりと胸を刺すから、顔を上げて水溜まりの中に靴先を踏み入れた。

「後ろめたいと思うぐらいなら最初から来なければいいのにな」

思わず漏れた自嘲の声はあまりにも言い訳めいて聞こえ、優柔不断な自分にますます嫌気が差して茶屋の前の長椅子に頭を抱えつつ腰を下ろした。

選んだ道は確実に自分が一つ一つ決めた積み重ねだ。受験も就職も、細かな仕事の雑務さえも自分が決定して今日まで歩みを進めている。それなのにふとした瞬間に嫌気が差し、違う人生の可能性が頭をよぎってしまう。五月病を通り越して後悔だらけの六月病かも知れないが、一度沈んだ心はそう簡単には浮上しない。それどころか人生のレールを何処で間違えたのかと悔やむ悪循環に陥ってしまう。

「……本当に情けないよな、俺の人生」

「なにか悩み事ですか」

思わず口を吐いて出た愚痴にまさかの返答が重なり、反射的に顔を上げれば招き猫の人形を手にした女性が首を傾げて立っていた。澄んだ薄紫のワンピースが紫陽花の色合いで、いつから側にいたのか尋ねるより先に物静かな佇まいと衣服の色彩に目が惹き付けられていた。

「これは、この先の出店で購入したんですよ。深大寺は恋の仲立ちをする場所ですから」

「恋の仲立ち?」

「由緒正しき奈良時代からの縁起。並びに七転び八起きの厄除けだるま市に、祖先の霊を迷わず呼び寄せるほおずき祭りも開かれますね。あなたも求める物があってこの場所を訪れたんでしょう」

「求める物があるというよりも……何もないから逃げ出してここに来たんだ」

「何もないなんて、面白いことを言いますね。ここはこんなに自由なのに」

軽やかに笑う声に釣られて周囲を見渡せば、そこには確かに存在していた。

豊かに満ち溢れる湧き水に、細く零れ落ちる白い流水の絶え間ない息吹。鼓膜を揺さ振る自然な音の連なりには肩から力が抜け、清らかな池に虫取り網を振りかざしてはしゃぐ子供の姿には懐かしさで胸が鷲掴みにされる。それだけではない。何軒も続く茶店の前ではうちわを片手にのんびり団子を焼くおばさんたちの笑顔が並び、女性が指差す招き猫の店では大小手作りのふぞろいの陶器が買われる瞬間をゆっくりと待ち望んでいる。

会社での慌ただしい時の流れが嘘のように、ここでは各々が自分の時間を生きていた。

「そうだな。きみの言う通り、ここは自由な世界だ」

風鈴の奏でる音色は、無機質な電話の音とはまるで異なる情緒と風情に溢れている。遠くまで余韻を残して響き渡る風鈴の音を聞けば、企業理念と義務で凝り固まった頭と精神も解けていく。

木漏れ日を眺めながら溜息を吐くと、胸に溜め込んでいた悩み事も外に溢れ出たようで、不思議なほどに身体が軽くなった。

「良かったら一緒に上まで登りませんか」

彼女が指差す方向を眺めれば、そこには茅葺の山門が静かにそびえ、僕たちの入門を優しく出迎えてくれるようだった。

「足元に気を付けてくださいね」

彼女の手招きに導かれて歩みを進めるが、雨後の石段は罠のように濡れて革靴の底をするりと滑らせる。紫陽花色のワンピースに目が取られていたせいで注意喚起の言葉も役に立たず、身体は前のめりに傾ぎ、慌てる間もなくふわりと両腕に抱き留められた。

「慌てなくていいんですよ。足元から目を離さず進めばいつかは辿り着きます」

華奢な体躯の女性に身体を受け止められ、失態すらも癒すように微笑まれては頭を掻いて誤魔化すしかない。それでも彼女はこちらの心境も全て汲んだように頷いて小さな掌を向けてきた。

取り繕った強がりも、肩書きばかりのプライドも、全部削ぎ落として受け入れる掌が母親のように感じられ、数分にも満たない僅かな時間がやけに長く流れた。


それにしてもこの女性は誰なのだろう。平日の昼下がりから深大寺で憩いを得るなんて、何をしている人なのか。訝しげに巡らせた思考が顔に表れたのか、視線が重なると彼女は僕の無知を笑うように唇に指を当てて目元を緩ませた。

「実は会社を早引けして散策に訪れたんですよ。内緒ですからね」

誰が知るわけでもないのに舌を出して笑う悪戯な姿に目が惹き付けられ、心臓の鼓動が早まった。

何もない、そう思っていたはずなのに不意の胸の高まりが急速に心を照らし、雨続きの日常に青空が広がる感覚が胸に満ちていく。ふっと息を吐き出せば、今度は穏やかな深呼吸となり、焦るばかりの身体に再び力が沸き起こる。

「深大寺は、自分と過去を繋いでくれる場所なんですよ」

「過去?」

「ええ、どんな場所にも歴史はある。どんな場所にも想いは込められている。過去の積み重ねがあるから今こうして私たちが祈りを捧げられるんですよ。あなたもそういう相手がいるでしょう」

囁くほどの柔らかな声に顔を上げれば、薄く立ち登る線香の煙に透かして本堂が堂々とそびえ立ち、雨を含んだ屋根が木造の芳香を周囲に放っていた。確かにその通りだ。千年以上も前から語られた歴史と伝承がこの地に人を呼び集め、苦しみと悩みを払い、幸福と縁を訪れる人々にもたらしている。

それを思うと自然に足が本堂に向いていた。

賽銭を投げ、目蓋を閉じれば、祈るより先に自分を取り巻く全てが思い浮かぶ。

初めて契約が取れて大喜びした自分、仕事で息詰まったときにアドバイスしてくれた優しい先輩、緊張ばかりの自分を拍手で歓迎してくれた部署の仲間、何度も失敗して落ち込んだ就活を応援してくれた両親、ここにいれば何でも出来ると夢を語ったサークルの友達――幾つもの顔が目前に浮かんで、微笑んでは胸の奥へと吸い込まれていく。

そうだ。憂鬱な気分もあれば、嬉しい気分もまた隣り合わせに存在している。

何もない。自分は空だと思っていたけれど、一つ一つの微笑みを思い返せば、その微笑みを生み出していた存在もまた自分なのだと気付く。それを気付かせてくれたのは――。


目蓋を開ければ、隣では紫陽花の彼女がまだ長い祈りを捧げていた。

木漏れ日に照らされた女性の姿は、瞬きする度に明るく照らされて目が離せなくなる。彼女も会社を抜け出すほどに求める何かがあるのだろう。手招きする招き猫がもたらすのは幸福な未来だろうか、それとも縁を結びたい誰かがいるのだろうか。目を開けた彼女に尋ねて、自由な存在ならばお揃いの招き猫を手にしてもいいかもしれない。

境内に風が吹けば、茂った青葉から雨粒がきらきらと輝いて零れていくのが見えた。

輝きの向こうに希望の虹が架かるなら、憎らしかった長雨もスーツに跳ねた泥さえも些細なことだと笑い流せてしまう。仄かに淡く色付いた彼女の頬は、これまでに見たどれほどの花よりも綺麗で可憐な優しさに溢れていた。

何もないなんて、案外それはただの無い物ねだりなのかもしれない。

穏やかに燻された煙が僕たち二人を包み込む。


喋るだけで日が暮れる。

取り留めもなく互いを語り合い、忘れていた夢と思い出に手を伸ばせば、幸福はいつも隣で待っている。

団子を買って蕎麦を口にして、招き猫の導きに風鈴の音を聞いて、紫陽花を眺めて青空の下で楽しくデートをしよう。



今年もまた紫陽花の季節が訪れる。


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深大寺 恋愛小説 うさぎつき @04-19

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