「破天荒」職場への限りない想い
@yoyo5848
第1話
第一章 はじまり
私の名は、沖田劉生、妻と子供二人(中学生)と同居、今年で61歳になる現役バリバリのサラリーマンである。まさかこの歳になるまで、現役でサラリーマンを続けているとは夢にも思いませんでした。大学を卒業して、ある大手の航空会社に就職して人生様々な人間模様があり現在があります。大手航空会社の名前はダビンチ航空、昔レオナルド・ダ・ビンチの考案したヘリの図案が、社章になっていました。ダビンチ航空では、三十年務めましたが、どれだけ多くの人々と出会い、どれだけ助けられ励まされたか感謝の言葉しか出てきません。そしてダビンチ航空の後輩が、今でも私のことを「破天荒」とんでいます。私はそうとは思いませんが、その言葉を聞くと自分ながら不思議と悪い気持ちにはならないのです。本当に私が「破天荒」なのか、ダビンチ航空の入社式から物語は始まります。
私は、その時の情景を今でも忘れることはありません。昭和五十六年四月五百名を超える新入社員がダビンチ航空の入社式に参列しました。そこはダビンチ航空の体育館で大学の体育館と同じくらい広い体育館、一面ダークスーツで埋め尽くされていて、外は晴天、青い空と桜の花が満開だったのを覚えています。「函館支店、山本文也君。」「はい。」「山形支店、加藤太一君。」次々と日本全国の赴任先の辞令が発表され、一人一人に辞令が手渡されていきました。その時皆笑顔はなく、どこに配属されるか解らない緊張の一瞬でした。いよいよ自分の番が近づいてきて、心臓の鼓動が聞こえるくらい緊張していました。「沖田劉生君、伊丹空港支店を命じる。」一瞬心の中で「まじかよ。」と、叫んでしまいました。それは自分が東京で育ち、面接の雰囲気からも配属は東京だと確信していて、その当時の彼女にも「俺、絶対東京だから。」と自信を持って語っていたからです。今思えばこの自信はどこからきたのか、今思えば疑問に思います。入社式終了後すぐに、両親と彼女に電話をして赴任先が大阪になった旨を伝えました。彼女は安永証券の横浜支店配属が既に決まっていて、当然遠距離恋愛になるからです。大学を卒業するまで東京の親元から離れたことがなく自分の思う通りに全てなってきて、今回も東京で決まりのはずが、まさかの大阪辞令です。自分にとって人生初めての誤算で、何をどうしたら良いのか、暫くは考えられませんでした。「俺三年したら必ず東京に戻ってくるから、待ってくれるか。」言うと、彼女から「はい。必ず待っている。」というやや元気のない返事が返ってきた。彼女は自分たちが創設した大隈大学スキークラブの一期生で、クラブ内ではアイドル的な存在でした。クラブの同期・後輩が何人か彼女に猛烈にアタックしましたが悉く失敗し、誰も彼女と付き合うことが出来ないくらい身持ちが固い女性でした。銀座で開催された私含めた追い出しコンパの時に意を決し、帰宅途中同期と飲んだ勢いに任せて彼女の自宅に電話して交際を申し込んだら、返事は「はい。お願いします。」でそこから交際がスタートしました。それからの付き合いなのでまだ日が浅いですし、自分も含め彼女との将来を考えると、心配が心の中で徐々に拡大していきました。自宅に帰ると、めずらしく父親が早く帰宅していました。普段無口な父親が口を開き、「劉生、入社式はどうだった。大阪に配属になったそうだが、父さんが母さんと出会い、お前が生まれた所だ。何か縁があるかも知れないぞ。」と話してきました。その日の夜は久々に家族が全員揃って門出を祝ってくれて、酒が入ったせいか父親はいつもより雄弁で、「社会人一年は厳しいと思うが、劉生頑張れ。厳しいからこそ楽しさも何倍にもなる。人生そんなものだ。思い切り頑張ってこい。」ついこの前まで父親に対して反発していましたが、この時の父親の言葉が何故か私の心に染みて俄然やる気が湧いてきました。母親は終始笑顔でしたが、夕食は奮発して鯛のおかしら付きの豪勢な料理が並んでいました。私はここから人生のスタートが始まるのだと嬉しい気持ちで一杯になりました。明朝、身支度を済ませ、赴任先の大阪に行くために羽田空港に向かいました。早朝にも拘わらず彼女が羽田空港で待っていて、「劉生さん、体に気を付けて。私も頑張るから、劉生さんも頑張って。私必ず戻って来るのを待っているから。必ず。」と涙目で語り掛けた。その姿を見て涙が出そうになったがぐっと堪えて、「安心して。必ず東京に戻ってくるから。月に何回かダビンチ航空で帰るから、会えるよ。大丈夫。信子も体気を付けて。」と返事するのが精一杯だった。ふと隣を見ると同じようなカップルが話をしている。よく見ると同期の林と彼女だったので、声をかけようとしたが、尋常では無い様子(多分別れ話)だったので話しかけるのをやめた。信子は、搭乗口まで見送ってくれ手を振って見えなくなる迄見ていた。その姿を見て私はこれからの人生、ダビンチ航空で社長を目指し彼女と必ず結婚する意を固くしました。伊丹空港に到着すると、すぐにダビンチ航空のカウンターを見に行きました。羽田空港に比べると伊丹空港は小ぶりでしたが、何故かその時ダビンチ航空のカウンターは私には大きく見えました。伊丹空港の近くに蛍池という地名がありますが、そこは昔そこに池があり沢山の蛍が池の周りを飛んで、あまりにも綺麗だったので蛍池という名前がついたそうです。幼少の頃両親と祖母が良く「蛍池」の話をしていたことを思い出しながら眺めていました。伊丹空港から蛍池迄バスが出ていましたが、折角なので歩きました。私は生まれてから三歳まで蛍池に住んでいて、空港の近くに父親の会社の社宅があり、そこで暮らしたことがあると聞いていたので、是非その社宅を見てみたいという衝動に駆られて歩くことにしました。私は幼い頃の情景を頭に浮かべながら歩きました。ふと見ると「大山航業社宅」の看板の文字が見えました。それは感動の瞬間であり、幼い頃の自分が育った地に社会人一年生として戻ってきた事に対する感謝の気持ちで一杯になると熱い気持ちが湧いてきました。私は、「これはきっと沖田家の先祖が導いてくれたに違いない。感謝の気持ちを忘れずに明日から頑張ろう。」と心に誓い歩きました。蛍池の駅に到着して、阪急電車に乗り箕面駅で下車しました。箕面はまさに私がこれからお世話になるダビンチ航空の男子寮がある場所で、猿山とお屋敷がある場所として大阪では有名でした。それは田んぼの中にある大きな男子寮でした。寮の門をたたくと寮長が、「はい、沖田君五○一号室の鍵。」「荷物は既に届いているから部屋に運んでおいてね。」寮長は強面の陸上自衛隊出身の六十歳過ぎの男性で学校の先生の様に、私に話しかけてきました。「今日からお世話になります。沖田劉生です。配属は伊丹空港支店です。宜しくお願いします。」私は緊張からか挨拶が少し遅れたことに気付いた。「ここから俺の人生はスタートするのか・・・。」私は感無量だった。五○一号室の部屋に向かうと、そこはベッドと机が備え付けの狭い部屋だった。夜になると隣の先輩の鼾が聞こえてくる、ベニヤ板一枚で仕切った粗末なものだった。しかし大きな食堂はあるし、スポーツ娯楽施設、麻雀部屋、大浴場も完備した大学を出たての私にとっては贅沢に感じる場所でした。夜になると続々と新入社員が入寮してきて、大阪に配属の同期で寮入室者は十五名だった。食堂は予約制で非常にリーズナブルな値段での提供で、大学の生協食堂を思い出した。夕食をすませると、食堂近くの談話室に同期が自然と集まりだし話をし始めた。十五名の同期の内訳は伊丹空港支店に十一名、梅田支店に四名だった。同期とは長野での事前研修で共に一週間近く過ごした同士であり、面識も既にあったのですぐに打ち解けることができた。実は私は非常に人見知りで初対面は苦手なタイプであり、時間が経過するとともに自分をさらけ出すことが出来る人間ですぐに会話についていけなかった。その時の同期は全員目がキラキラしていて、やる気を感じ優秀な人材に見えました。今思えば、話をすること自体がまさに青春でした。配属先はそれぞれ違いますが、夜遅くまで時間を忘れて「夢」を語り合いました。「夢」の話の後は、女性の話で大いに盛り上がりました。「沖田は、旅客サービスに配属が決まっていると聞いたが、女性陣が多いらしいな。九割女性陣で羨ましい限りだ。」同じ伊丹空港支店配属の大木が口火を切った。大木はランプサービス部配属で逆にほとんどが男性陣で年配者が集まった部署だった。「大木、俺は東京に彼女がいるから関係ないよ。」と答えた。大木が笑いながら「沖田、それはそれ、これはこれ。」といって同期の笑いを誘った。同期もまだまだ大学出たての多感な時期であり、それから女性の話、彼女の話で大いに盛り上がった。どの位の時間そこで語りあったか定かではありませんが、夜を徹して語り合ったのは記憶に残っています。素晴らしい同期との話は尽きることはありませんでした。
翌朝眩しい光が部屋に差し込んで来て、小鳥の囀りで目が覚めました。出勤初日の朝です。身支度を済ませ寮を出て、バス停徒歩で向かいました。周りは全面田畑で延々とバス停迄続いていました。伊丹空港に到着し旅客カウンターの横を通り過ぎ、従業員専用の通路を通り更衣室で制服に着替えて事務所に到着しました。「沖田劉生です。よろしくお願いします。」大きな声で挨拶すると、職場の先輩諸氏がびっくりしたような目でこちらを眺め、一瞬間をおいて、一様に笑顔で「よろしくお願いします。」と挨拶してくれました。正直ほっとして心から嬉しかったのを覚えています。まだ見ぬ場所で、初めて会う人々が一様に自分に挨拶してくれる。今までの人生でこれだけ笑顔を貰ったことがあったかと思うと更に喜びが増してきました。実はここに来るまで私の就職人生は、順調とは言えない状況でした。元々大学四年の春の時点で、企業に就職する意識は全くなく、当時アルバイトでやっていた弁護士事務所の秘書業務の延長線上で、弁護士を目指していました。夏になると既に内定が決まった友人も多く、まだその時点でも悩む日々で徐々に不安になる毎日を過ごしていました。「本当に就職しなくて大丈夫か。弁護士を目指すのは良いが必ず合格する保証は何もない。」自問自答を何度も繰り返す日々が続きました。自分の将来を本気で決めなくてはならないぎりぎりの時に、「先生、日本の正義のために弁護士を目指したい気持ちは今でも変わりません。しかし、周囲の学生を見ていると次々とリクルートスーツを着て、既に内定も決まった学生も多い。そんな学生は生き生きして見えます。どうしようか本当に悩んでいます。先生、どうしたら良いでしょうか。」八重洲にある弁護士事務所の先生に相談すると、「企業へ就職したほうが良い。私も正義感、使命を持って弁護士を目指したが、日本における正義は現実難しい。君が弁護士になって正義を求めても跳ね返される場面が多々あるよ。苦悩に苦悩を重ねる日々が続くよ。企業を受験したまえ。企業に入っても正義は追求できる。司法とは別の場面で追い求めたら良いよ。」この言葉で、九月になりやっと就職活動を決心して企業回りを始めました。先輩の紹介で、手始めに外資系のエレベーターのメーカーを受験しました。とんとん拍子で最終面接、役員面接まで進み内定を貰うことができました。最終面接の時に、「是非、君みたいな人材が我が社にほしい。入社したらすぐに語学研修でイギリス行って貰います。」と言われ嬉しいと同時にいい気になっている別の自分がいました。今でもたまに、この外資系の企業に入社していたら英語がさぞかし堪能になっていただろうと思います。一方、航空会社との取引がある企業に籍を置く父親から「航空会社を受験したらどうだ。これから良くなる企業だぞ。」とのアドバイスがあり、親の話、特に父親とは犬猿の仲だったので直ぐには腹に落ちなかった。幼いころからおもちゃは常に飛行機、遊園地には行かず常に空港へ足を運んでいて、個人的には行きたくない企業だった。それと父親との関係は中学時代から最悪で殴り合う喧嘩も日常茶飯事であった。しかしこの時点で自分には選ぶ余裕などないし受験できる会社は挑戦しようという気が日に日に湧いてきて、受験することになりました。その当時、大手航空会社は3社、国策で出来た帝国航空、帝国航空のライバル会社の純民間のダビンチ航空、鉄道会社の航空部門の大亜航空だった。まず軽い気持ちで、何の対策もせず大亜航空を受験。みごとに一次試験で不合格になり、かなり焦りました。外資系の企業に合格した気の緩みが自分にはあり、これはまずいということで、大隈大学の就職課に出向き航空会社に関するあらゆるデータを集め、就職試験、面接の対策を実施しました。ゼミの先輩、航空会社に就職した先輩を訪ねアドバイスを貰い、帝国航空、ダビンチ航空を次々と受験し両社から内定を貰うことができました。結果両社内定は頂きましたが、航空会社として2番目に受験したダビンチ航空は、大亜航空を失敗したこともあり、非常に緊張して最終面接の役員面接は面接者十名程に囲まれ役員の質問に対して何を答えたかは、今でも覚えていません。今でこそ航空会社の就職人気度は高いですが、その当時の就職人気度は帝国航空はやっと五十番以内、ダビンチ航空の人気度は百番以内にも入っていませんでした。それにもかかわらず全国優勝を経験して日本選抜にも選ばれたラガーマン、成績優秀で全ての科目で「優」を取得した友人は次々と不合格になり、不思議なことに学生仲間の中で唯一自分だけが残りました。最後まで外資系の企業、帝国航空かダビンチ航空か入社を迷いました。この当時の常識からすると一、外資系企業二、帝国航空三、ダビンチ航空の順番が通常の考えですが、ある尊敬する先輩の一言でダビンチ航空に決断しました。「沖田、俺だったらこれから伸びる可能性を秘めて、社内の風通しの良いダビンチ航空を選ぶぞ。」そして、今まさにダビンチ航空の職場に立って暖かい人々に囲まれ、人生のスタートを迎えようとしていると同時に、私の決断は決して間違ってないことを確信した。本日は職場説明会で、翌日から厳しい訓練が早速開始することになる。接客の基本、端末の操作、規定類等覚える事は凄まじいくらいあり、毎日が必ず終了時テストで中々身に入らず結果は散々だった。一人一人にインストラクターがついてマンツーマンでの実習もあり、私のインストラクターは、一方的に話をするタイプの女性で私に対する接し方は優しかったが、言っている言葉の中身は非常に厳しく、緊張に次ぐ緊張で常に怒られていたのを記憶している。毎日インストラクターとの反省会があり、どこまで私が理解できているかのチェックリストがあり、中々理解が進まない私に、どうして良いか解らない状態だったと推測する。その日も訓練が終了し寮に戻った。大きな浴槽のある寮の入浴が楽しみの一つで、風呂の中でも同期、先輩と楽しく話をしてアドバイスも貰った。約二週間の訓練終了日、インストラクターから「良くここまで頑張りました。これからは一人前の航空会社社員として頑張ってください。楽な道ではありませんが、頑張れば必ず道は開けます。是非頑張ってください。これからも職場の仲間としてともに頑張りましょう。」「ありがとうございます。」新入社員全員で元気よく返事した。その夜、同期で居酒屋に出向き訓練終了の打ち上げを実行した。「きつかったなー。」「インストラクター厳しかったけど、人間的には尊敬できる先輩だった。」「職場の雰囲気はいいね。」色々な話が飛び出した。伊丹空港で私が配属になったのは、旅客サービス部で空港の花形と呼ばれていた。今でもあまり変わりは無いが、その当時もパイロットとキャビンアテンダントは花形と呼ばれていたが、空港は、旅客サービス部門が花形とされていた。その部署を花形と称するのは部外者であり、女性が九割以上占めている組織なので、そのような言い方をされていたと思う。しかし仕事の内容は厳しく地味で、先輩、後輩は体会系の上下関係と同じで先輩の言うことは絶対的だった。今と絶対的に違うのは、アナログの時代でパソコンもなく、文章は全て手書きで、先輩に良く赤ペンで何度も修正され赤い文字で原文が見えなくなったのを覚えている。「沖田は良いよな。女性がインストラクターで優しく教えて貰える。俺なんか男性教官で毎日怒鳴られ、つい先日飲み会の席で、『お前は生意気だ。』といきなり言われ、髪の毛を掴まれたよ。航空会社のイメージは全くなく、まるで戦場だよ。」と大木が愚痴をこぼした。「そりゃひどい。」と私が言うと、大木は悩んでいた様子で下を向いた。「みんな始まったばかりだから、体だけは気を使い頑張ろう。俺達には明日がある。」と同じ旅客サービス部の上田が話した。酒が進むにつれ盛り上がったが、皆明日が仕事なので早めに切り上げ寮に帰った。私は、訓練で忙しく暫く東京の彼女に電話をしていないことを思い出した。それまでは、毎日彼女に電話していた。今みたいに携帯電話が無い時代だったので、唯一の連絡手段が寮にある2台の公衆電話だった。いつも夜になると行列が出来ていた。夜の十時を過ぎて急いで五階から一階の公衆電話迄階段で行くと、めずらしく人気が無く順番待ちが無かった。「信子、久しぶりだね。電話できずにごめん。仕事は順調ですか。困っていることないかな。」「私は大丈夫だよ。仕事は順調だよ。私も研修が終わり店頭で、セールスレディをやっているの。証券会社は給料良いけど、体力勝負で大学の体育会系が多く、それでも毎年数百名の社員が耐え切れず辞めるみたい。」と電話口からいつになく雄弁な信子がそこにいた。「信子も私に心配掛けないように元気な口調で話をしているが、きっと仕事大変だな。以前ノルマもあると聞いていたし。」と心の中で思い、「お互い始まったばかり。頑張ろう。」それから、たわいのない話も含め一時間が経過した。長距離電話なので固定電話のお金が落ちるスピードが速かったは今でも忘れない。この時私は、東京との遠距離恋愛なので毎日電話をすること、出来るだけ東京に帰ることが彼女に対する最大の愛情表現だと思い、その後も忙しい中東京に帰った。
翌日はいきなりの早番で四時三十分起きだった。けたたましく目覚まし時計が鳴った。ハッと目を覚ますと四時三十分。まだ外は真っ暗だった。昨晩はいつの間にか寝ていて、急いで着替えて会社へ向かった。まだ誰も職場に来てなかったが制服に着替えて、早番帯の段取りを丁寧に準備していると、先輩が「沖田、おはよう。」と声を気軽に掛けてくれた。早番帯での初動の準備はいくつかあるが、例えばシステムの立ち上げ、昨日の遅番帯での引き継ぎ事項の確認等は全て新人の仕事の一つでした。「おはようございます。本日のお客様の数は・・・・」朝礼が始まった。朝礼の内容は、昨日の搭乗実績、本日のお客様の予約状況、全国の天気情報等だった。朝礼の最後に「本日から職場の新しい戦力になります、沖田君です。」と紹介され「本日から、正式に配属になりました沖田劉生です。一日も早く皆さんのお力になれるように頑張りますのでよろしくお願いします。」と一礼した。気持ちが清々しくやる気が体全身から湧いてきた。新入社員としての初日はあっという間に終了した。便が大幅に遅れたことが理由で、お客さまに怒られる場面もあったが、何とか理解して頂きそれ以外はそつなくこなせた。「今日は、最高の日だった。」そう思っていると、同期が小部屋に入っていくのが見えた。そこは俗に言う折檻部屋であり、上司から何か言われている様子だった。目を腫らして同期が部屋から出てきた。「大丈夫?」「うん。」と言いながら女性更衣室に早々に消えていった。「他人ごとではない。俺も同じようにならないよう日々努力して頑張ろう。一日一日を有意義に精一杯生きよう。」と大袈裟ではあるが自分に言い聞かせた。そして、何とか3か月の社員試用期間が過ぎ7月を迎えた。「おめでとう。」と多くの職場の仲間から声を掛けられた。駆け抜けるような3か月であったが単純に嬉しかった。一方で仕事上は大きな問題はなかったが、先輩との軋轢は仕事以外であり、良く同期とその話を何回も何回も繰り返し寮でしていた。実はその話は、「組合活動」のことで、同期はそれぞれの課で「組合活動」の件で、軋轢があった。
第二章 組合活動
社員試用期間が終了すると一人前の社員である。それと同時期に組合加入をしなくてはならない。社員試用期間中は、組合的に言うと全て適用除外の身分であったが、加入が義務つけられる。勿論、本人の意思の元加入を決定できる。所謂、ダビンチ航空労働組合への組合員になることである。労働組合の響きは、自分としては何故か大学時代の自治会の響きに似ているような感じがした。大隈大学はまだ学生運動をしている過激な友人が多く存在していた。「全学連」「革マル」の類の友人は何人かいて、素朴で地方出身者が多かった。その友人が自治会の話を良くしていたのと、自分とは違い世の中全てのもの、体制に対してネガティブな面がありそこを私は嫌っていた。大隈大学時代は多くの仲間がいたが、思想的な同好会が多く自分はあまり好きでは無かった。大隈大学で初めて入会したクラブの背景に思想が見え隠れして、全くクラブとは関係の無い内容のビラを高田馬場で配布していた。思想的な同窓会の会長(会員千名規模)をしていた高校時代の友人と夜を徹して話をして、会長を辞職させたこともあった。それは本物ではなく、正義でもなく明らかに「偽善」そのものとしか見えない団体だった。その会は政教一致で非常にうさんくさい類だと感じたのと、父方の本家がその集団に介入され先祖代々の仏壇がなくなり、周りから白い目で見られ、心労がたたり叔父は53歳の若さで世を去り結果的に祖父が起業した田舎のスーパーを潰すことになる経験を通して、大切な友人に話をして理解を促したのである。又、興味本位で受講したマルクス経済学と「共産党宣言」へ組合のイメージが重なりあまり良い印象ではなかったことを記憶している。「沖田、ここに印鑑おして。」先輩から言われ先ほどのイメージが一瞬脳裏をかすめたが、仕事も職場の中心的な人物で、正義感が強く面倒見も良く憧れていた先輩だったので承諾した。「沖田、組合は仕事と同様に大切だ。そして仕事が一人前でなければ組合活動できない。騙されたと思って俺と組合活動やらないか。」その先輩の目がキラキラしていて真実を語っていると確信したので、「よろしくお願いします。」と即答だった。しかし、これが後々自分を苦しめることになろうとはこの時は思いもよらなかった。
そして三年の月日が流れた。仕事にも慣れ、後輩も職場に数名配属なり、自分に対する期待も日々感じられた。ラッキーだったのは入社して直ぐにパイロット訓練生として同じ職場に配属になった後輩が出来たことだ。名前は岡園、今はダビンチ航空のグレートキャプテンとして海外、国内を飛び回っている。そして、組合も単なる組合員ではなく役職がついていた。この当時航空業界は組合が力を持っていて、毎年どこかの航空会社がストを構え突入していた。ダビンチ航空も例外ではなく入社する前にスト突入しており、毎年スト権を行使してぎりぎりになって回避していた状況である。日本全国の企業組合はまだ活気があり、春闘になると新聞紙面を占有していた。今では日本の労働組合の組織率は下降傾向であるが、この当時はまだまだ元気があり活気に満ちていた。
しかし、スト権を行使して再回答を勝ち取る前近代的な手法は、既に航空の組合だけで、そういう意味で航空の労働組合は非常に遅れていた。スト権を行使して組合の活動を個々人ですることもあった。この頃、「職場で仕事をしたい。組合をやる為に入社したのではない。」と何度心で囁いたことか、また同期も一緒だった。春、夏、年末と年三回の会社との交渉があり、プライベートは殆どない状況であった。早朝から出社の社員に組合のビラを手渡し、昼も夜も同じことをしていた。自分は何をしているのか本当に悩んだ。とうとう東京の信子に相談して「会社を退職して、東京に戻りたい。会社が嫌いになった。」と話をしたが、彼女は「折角良い会社に入ったのだから、もう少し頑張ったら良いことあるよ。私も頑張るから。」と何度も諭され「もう一度頑張ってみよう。」という気持ちになったもののまだ半信半疑だった。組合という名前自体が自分の体の中でアレルギー反応を起こしていた。
第三章 職場への想い
今でもこの当時の職場の先輩、仲間に感謝している。社会人一年生で、右も左も解らない私に対して、親身になって色々な事を教えてくれた。仕事のやり方、社会人としての振る舞い方、付き合い方、ありとあらゆる社会人としての礎を学んだと思う。社会人だけではなく、人間としての基礎も叩き込まれたと思う。職場の仲間、先輩後輩と良く飲んで、運動もした。特にテニスは休日、早番終わりのナイターをして、その後食事で語り合った。課内旅行も頻繁にあり、既婚者の先輩が率先して計画を立ててくれた。結果私は旅客サービス部に六年在籍することになるが、全てが楽しい思い出に代わっている。だからこそ、一生懸命仕事にも精をだすことが出来き、そこに真の喜びを感じることが出来た。
今だから話せるエピソードも沢山ある。ダビンチ航空は元々純民間航空で自由をモットーに帝国航空に「追いつけ、追い越せ。」で頑張ってきた経緯がある。営業はもとより空港でも帝国航空に対する「ライバル意識」は並大抵ではなかった。良くカウンターで、係員同士が喧嘩になるシーンがあった。何事も自由に業務をこなすダビンチ航空に対し、官僚的な自分たちと違う半分羨ましい気持ちから帝国航空がクレームをつけることが良くあった。私もその場面を見て「何だ。こいつら。」と感じることが多かった。所謂、ダビンチ航空の伝統である。
「何だ。こいつら。」と思う場面があった、その日の夜、業務終了後反省会を実施していた時、ある先輩がいきなり「劉生、今日帝国航空の係員に憤りを感じなかったか。」と聞かれ「感じました。」と答えたら、「劉生、もう帝国航空の係員は退社したので、帝国航空のカウンターに行って、キャビンアテンダントの等身大の立て看板を持って来い。」と言った後、「劉生、ロープでぐるぐる巻きにして、元に戻して来い。」と畳みかけるように先輩からの命令。「えーっ。」と一瞬思ったが実行してみると、不思議と子供のように素直に喜んだ自分がいて、帝国航空に対するライバル意識が日に日に芽生えていることを実感した。
又、今では信じがたいが夏の多客期の打ち上げで、休憩室で飲んでいるとき(昔は良く仕事終わりに休憩室で飲むことが多かった)、「劉生、危険物の花火があるだろう。ここに持って来い。」持ってくると、いきなり先輩が火を点けて休憩室の庭で花火大会が始まった。職場の仲間は、酒も入っているのでかなり盛り上がり、最後は打ち上げ花火を空港内で打ち上げてしまった。後で知った話だが、翌朝お役所から課長に呼び出しがあり、かなり怒られたらしい。
更に、昭和六十年八月十二日他社の機事故も体験している。羽田から伊丹への帝国航空機が群馬上空で途絶え墜落した事故である。この事故は伊丹行ということもあり、身近で非常にショッキングであった。伊丹の帝国航空の社員はもとより、同じ航空業界に働くダビンチ航空の社員も同じ心の痛みを感じた。乗客五百二十四名(死者五百二十名、生存者四名)、有名な歌手も同乗しておりマスコミは当然ながらこの事故を大きく取り上げ、後日ドキュメンタリー、帝国航空を主題とした小説の中にも大きく登場する。私はその航空機に職場の仲間が偶然搭乗していて更に気持ちが暗くなった。この事故は航空全体の低迷を起こし、この事故を起点として日本の航空事故の在り方、安全に対する見方が更に厳しくなったのは事実である。現在でもマスコミはこの事故を八月十二日に取り上げている。職場の仲間が重なるので、記憶から消すことはできない。
当然の事だが、仕事に対しては「誇り」「情熱」があり、職場は毎日活気に溢れ全力投球だった。当時主流の航空機は、ジャンボ機(B747)で、満席だと五百五十人のお客様が搭乗する。その日は、羽田の天候が台風で悪く、全国的に便がキャンセルもしくは遅れていた。東京の最終便が遅れて、空港の運用時間ぎりぎりで必死に出発させようと全員で頑張っていたが、ぎりぎりのキャンセル決定。既にお客様は搭乗済みで、ドアもしまっていた。皆祈るような気持ちで出発すること願って、一度はエンジンを回したが結果伊丹空港の運用時間(二十一時)が切れてキャンセルが決定した。「劉生。今、今後の方針立てるから取りあえず、ドアを開けて機内に入り、キャンセルのアナウンスをしてこい。」と、激が飛んだ。私はまだ方針が決定してないのにどうやって機内550名のお客様にアナウンスしようかそれ一点考え、冷静に「お客様に丁寧に謝る。今後どうするかは、1階カウンターでお知らせ。丁寧に。丁寧に。」と念仏を唱えるように何度も何度も自分に言い聞かせ、ゲートに向かった。ドアが開くと機内が騒然としていて間もなく暴動が起きそうな殺気立つ雰囲気で、キャビンアテンダントの目には光るものを見た。「何や。お前は。」「落とし前付けろ。」多くのお客さまが機内で、大声で怒鳴りつけている。五百五十人のお客さまの怒りを真正面で受け止め、一階に案内した。一階でも囲まれたが、時間を掛け、丁寧にお客様に説明した。次に我に返った時は、翌日の四時過ぎだった。何とか全員で乗り切った。大変な仕事だったが、仕事をしたという充実感と職場の仲間との絆が繋がった気がした。
又、この頃ダビンチ航空は頻繁にチャーター便(不定期国際線)を、就航させる。その時、乗員、キャビンアテンダント以外にお客さまと同乗する係員が必要だった。その係員に旅客サービス担当経験者を全国から任命していた。伊丹空港の国際線に対する意識は全国でも高く度々係員が任命されていた。念願叶って私にも声が掛かかり、中国の北京、杭州、上海、香港、ハワイの係員として何度か海外体験を経験させて貰う。この時私は、世界の中でいかにダビンチ航空の知名度が低いか痛感する。どの空港に行っても「知らない航空会社」の返事が返ってきた。先輩が飲む度に、「沖田、我が社はこれから国際線に挑戦する。それが我が社の悲願だ。しかし、我が社は井の中の蛙大海を知らずで、これからが勝負だ。近い将来必ず我が社の悲願は達成され、世界各国を自由自在に飛び回る時代が来る。」と言っていた意味が少しは解った気がした。
私は仕事が充実し会社に行くのが楽しかったが、色々な意味で日々忙しかった。貧乏暇なしで、お金は無かったが東京の信子との結婚は意識していた。忙しいので会う回数は少なくなっていたが、ある時東京で意を決し「結婚しよう。」と話を持ち掛けた。自分の気持ちの中では信子からすぐに返事があると思っていたが、残念ながら現実は違っていた。「劉生、考えさせて。親ともじっくり話さないといけないから。」「信子、まさか親が反対しているのでは無いよね。」と話すと、うつむいてしまった。後でわかった事だが、私が忙しくなり東京へ帰る回数も減ったことから、相談する相手が社内に出来たらしいと友人から伝わってきた。そして、信子はその社内の先輩と結婚することになる。
第4章 国際線定期便就航
時が流れ、忘れもしない昭和六十二年の春。「沖田、今時間あるか。君に話があるが良いかな。」午後一に、北條課長が声を掛けてきた。「勿論良いですよ。何かありましたか。」小部屋に連れて行かれ「おめでとう。成田空港へ内示だ。六年間ご苦労様でした。良く頑張ったな。」社会人初めての内示だった。既に新入社員で配属になった同期は旅客サービス部にはいなかった。自分一人だけ転勤もなく残っていた。自分としてはやっと異動なので喜びが湧いてくると思っていましたが、何故か複雑な気持ちで素直に喜ぶことが出来ませんでした。今の職場、上司、先輩、後輩と離れるのが非常に寂しかったからです。それだけ良い職場だった。入社して自分なりに苦労もしたが、それ以上に得るものが多い職場だった。厳しい中に真の優しさを感じた職場だった。涙が出そうだったが、ぐっと堪えて「課長ありがとうございます。本当に良い職場でした。お世話になりました。」と返事をして小部屋を退出した。目の前に先輩が立っていた。「沖田、異動か。おめでとう。」「解りますか。」「お前もこの職場に入社して六年になるから、そろそろと思っていた。」「どこに異動?」「成田です。」「そうか、おめでとう。成田は去年国際定期便が就航し、これから色々問題はあるがやりがいがあるぞ。」と肩をポンと叩かれた。「はい。」既に頭の中では「国際線定期便」がキーワードになり色々と考えが巡っていた。私は、伊丹での六年間で国際チャーター便の仕事を何回か経験したことが活きるなと思った。昭和六十年以降急速に航空の規制緩和が進み、国際定期便は帝国航空一社だけだったが、昭和六十一年三月からダビンチ航空も参入することになった。そして成田への異動。「やりがいがありそうだな。」と思った一方で、忙しくなりそうだなとも思った。まさにそれが的中して、大変な日々が続くことになる。その時、既に婚約した新たな彼女が東京で待っていた。それも又人生の新たなスタートであり、若い私に取って、心配はあったがまさにやりがいそのものであった。
四月一日に成田空港へ出社した。企業戦士風の太田課長が「沖田君、よくぞ成田に来た。毎日忙しいぞ。これから次から次へと海外へ路線が展開する。成田の組織人数も急激に伸び、それに伴い施設の拡張も必要になる。君には経理、施設、共済会、それと・・・。何役もこなして貰いたい。よろしく。」と言われた。その課長以外女性陣だけで男性社員は誰も机に座っていない。それだけ見ても忙しい職場であることが、容易に想像がついた。そしてその忙しさは想像以上だったことがその後解る。朝早く職場に行くと課長は既に出社していて「沖田。ちょっと来い。」と言って手帳を開き、それを見て「今日、沖田がやることはこれと、これと、これ。そして出来ればこれも。」と手帳を指し指示が飛んだ。『えー。』と心の中で叫んだ。『まだ成田に転勤して数日しか経過していない。それなのにこの業務を一日で実施しろとは。』しかし、『やるしかない。』と自分に言い聞かせ、先輩にも相談しながら何とか初仕事をスタートした。朝八時から帰宅は毎日夜中の零時を毎日超えた。後から聞いた話だが、私の前任の先輩が過労で倒れ、緊急入院したそうである。そして、太田課長が名指しで私を後任で異動させるように人事に頼み込んだらしい。そんなことも忘れるくらい必死で働いた。他の職場、他社の仲間も含め友と呼べる人が増えていった。友が着実に増えて行く様に、ダビンチ航空は成田から着実に定期国際線を拡張していった。しかしハードルが何もなく拡張ができたかというとそうではない。各部署の社員も遅くまで苦労しながら役割を果たすべく、必死に業務に没頭していた。小さな積み重ねが正に結果と繋がっていった。ダビンチ航空にとって国際定期便はまさに悲願であり、その悲願がまさに成田で咲こうとしている。入社当時、先輩と飲みに行くと、「憧れのハワイ航路」を良く唄っていたことをふと思い出した。帝国航空の社員が「うちは国際定期便を飛ばすのに非常に苦労した。ダビンチ航空さんはいとも簡単に次から次へと路線を拡大し、着実に結果出している。驚きを超越している。」と言ったことを鮮明に覚えている。
ここに来るまでに先人がどれだけ苦労したかということを感じた。ダビンチ航空にとって海外の進出は初めてのことなので、色々な事象が海外で起きたことは事実である。チャーター便で海外に仕事に行った時、「ダビンチ航空?そんな会社まったく知らない。どこの国の会社ですか?」と何度も言われたくらい海外での認知度はまだ低く、苦労も多かった。昔商社が先陣をきって海外に進出し、苦労した話を聞いた事があり、「正に戦闘である。」の言葉を思い出した。
私は『こんな大切な時期に正に成田でダビンチ航空の社員でいることは、誇りだ。』と人は大袈裟に思うかも知れないが本当に思った。
一方労働組合であるが、ダビンチ航空の組合は初めての定期国際線就航ということもあり、労働条件に対して非常に慎重で、路線が出るたびに路線ごとにスト権をかけていた。その都度、羽田で徹夜団交があり、朝方ストを回避していた。私は成田の組合では役員、会社では初便の行事も担当していたので、羽田でストが明け方回避したと同時に、成田に戻り新規就航国際線の初便行事をこなすことが度々あった。自分の中で二つの役割があり、混在したこともあったが、それが現実であり考える余地はまったくなかった。
余談であるが、企業戦士太田課長の手帳は皆にとって厄介で、ある日先輩と相談して、早朝机の引き出しから取り出し、ごみ処理してことがあった。手帳が無くなった時の太田課長の焦った顔が今でも忘れられない。
第五章結婚そして惜別
私はこの時、自分の人生が成田を起点として大きく動いて行くことを知るすべもなかった。成田に赴任して間もなく婚約者と目出度く結婚した。多くの友人、職場の仲間が結婚を祝福してくれた。人生の最高の瞬間だった。西麻布の大栄航空ホテルの披露宴に二百名の人々が全国から集まり門出を祝ってくれた。私が選んだ良き伴侶は、親父の後輩の娘で幼なじみだった。それまで、何人かの女性と真剣にお付き合いしたが、最後はことごとくうまくいかなかった。縁がなかった。それだけに幸せな気持ちは大きなものであり、この幸せが未来永劫続くことを心で祈った。この結婚を機に長年続いてきた親父との確執も徐々に亡くなり、結婚を心から祝福してくれた。全てがうまくいくはずだった。
昭和六十三年あまりにも突然の悲報。「劉生。お父さんが心筋梗塞、病院で倒れた。すぐ病院に来て。」母から会社に電話があった。「まさか。何とか持ち直してほしい。親父頑張れ。」心で叫びながら病院に急ぎ、涙が止まらなかった。病室に入ると暗い雰囲気を感じた。主治医が首を横に振った。「親父。親父。・・・・。」何度も声を掛けた。そして、心拍数を示す波が横一線に伸びた。「ご臨終です。」医者が冷たい声で頭を下げて病室から出て行った。親父とはこれからうまく行くはずだった。社会人になってやっと親父の偉大さを理解した矢先だった。この日の朝、親父の後ろ姿が寂しく見えたので、私は、珍しく「飲みに行こう。親父。」と声を掛けようと思って掛けそびれた一瞬があった。折角、これからと思った矢先の出来事だった。私は喪主を務めた。通夜、告別式には多くの参列者が来て頂き、親父を心から惜しんでくれた。良く死んだときにその人の価値が決まると言うが、まさに千名以上の参列者を目の前にして親父の偉大さを改めて感じた、一瞬だった。享年六十歳、これから「第二の人生」と言っていたのに。親父は九州生まれのまさに頑固者で、無口でまじめな性格だった。酒が入るとやっと笑顔が出て、子供には非常に厳格で何度殴られたことかしれない。陸軍士官学校卒で柔剣道の有段者で何回向かっていっても勝てなかった。親父と闘うために高校は剣道、大学は空手を習い、大学二年で最後の親父との決斗があり、近所の人々も駆けつけたほどだった。負けなかったが、勝つことも出来なかった。そんな事もあったが、心のどこかで尊敬もしていた。国を背負う仕事で腕の良い技術者だった。
「何故、こんな早く。」と思えば思うほど涙が止まらなかった。挨拶が言葉にならなかった。そして、親父は天国へと旅立った。
親父の他界を起点として、私の周りに次々と不幸が訪れる。尊敬できる成田の先輩が次々と癌を患い他界、まだ二人とも四十歳だった。あまりにも早い旅立ちでダビンチ航空には必要な人財だっただけに、周囲は先輩たちの死を大いに嘆いた。今度は、先輩の奥様が身ごもりながら、癌を患った。お腹に子供がいるだけに抗がん剤を処方する選択はせず、無事出産後他界した。あまりにも早い悲しい旅立ちだった。多くの仲間が参列し立派な母親を見送った。
次にまさか自分にその不幸が近づいているとは、当然予想しなかった。平成三年多忙だった成田から既に羽田に職場は変わっていた。そこは、華やかな世界に見える職場で、キャビンアテンダントが数千人在籍していた。ハード面は非常に地味だったが、匂いが強く外国に来たような何とも言えない「香水の入り混じる匂い」が職場全体に漂っていた。ダビンチ航空の職場はどの職場も共通しているのは、飲み会が多いということである。この当時の元気のバロメーターが「飲み会」であり、日本企業全体もそのような雰囲気がある時代だった。二十三時過ぎに仕事が終わるケースでも、最終便でキャビンアテンダントを迎え入れ、それから羽田の大鳥居の国道沿いの深夜迄営業している居酒屋に行くのが日常茶飯事だった。話をするのは、職場の話で「職場を良くするには?」「組織をうまく運営するには?」私はまだ管理職ではなかったが、そんな話を毎晩夜通しする生活だった。数千人の職場を動かすことは、砂漠に水を巻くが如く容易では無かった。ここの組織は軍隊に似ていた。そうしないと指示命令系統がはっきりせず、会社からの指示が正確に伝わらなかった。ポイントは十五名弱を束ねる班長とその班を束ねるチーフ層だった。課単位でチーフ層が十二名、班長が三十六名存在した。このメンバーと毎月班会、飲み会を繰り返しお互い悩みを共有しベクトルを一緒にして、納得するまで話は尽きなかった。
そして私に取って最悪の運命の日がやってくる。遅番だったこの日は、後輩が自宅に婚約者を連れて来て、妻が食事を振る舞っていたが、突然会社に電話が一本あった。後輩からの電話で「奥様が、倒れて救急車で病院に運ばれた。すぐに帰宅してください。」すぐに仕事を終わらせ、病院に駆けつけた。妻は病室で、点滴を打ちながら、安らかな顔で眠っていた。主治医が「はっきりした原因は解りませんが、抗生物質を投与した後から治まりました。多分、胆石だと思います。明日、退院しても大丈夫です。」とのことで一安心した。後から聞いた事だが、妻が料理をしている最中にテレビの上の私と妻の写真がいきなり「ボン。」と音を立てて宙を舞い廊下に落ちたと同時に、急激な痛みが妻を襲ったということであった。これが何を意味していたのか、私は今でも解らない。翌日休みだったので、その日は病院に泊まり翌朝妻と帰宅した。「もう大丈夫。ごめんなさい。」「無理しないように。」
それからどうも妻の様態が良くなく「痛み」を伴い、横になるケースが数か月続いた。横浜の病院を六か所回ったが、どの医者も首をかしげて結論が出なかった。そんな年の十月会社から「沖田、支店長と海外出張行ってくれないか。」
と業務命令、二週間の欧州出張だった。妻が心配だったが、「大丈夫。行ってらっしゃい。」と笑顔で送りだしてくれた。出張を終えて日本に帰国後、自宅に急行した。妻は少しやつれた感じで「おかえりなさい。」と元気のない声。「具合は、大丈夫だった?」と聞くと「あまり調子よくない・・・。」と言いながら黙ってしまった。全体的に精気が無く、手元を見ると明らかに火傷の跡で、「どうしたの。」と聞くと「アイロンでちょっと火傷。」よく見ると、アイロンの先の様な跡がくっきりと手に残っている。アイロンを掛けている時に、妻が苦しんで火傷をしたと容易に想像がついたので、「すぐに専門病院探すから。」と言って国立癌センターを紹介して貰った。この時の私は尋常なでないくらい焦っていた。心の中で「これは癌しか考えられない。」と思い紹介状を書いてもらった。そして検査入院。主治医はその道では有名な人で、すぐに部屋に呼ばれた。「沖田さん、残念ですが手遅れです。全身に癌が転移しており、今年もつかどうか。」「先生、何癌ですか。」「胆管癌。」聞いた事もない癌の名前だった。「解りづらいよ。胆管癌は。」主治医は簡単に話をした。私の目の前は一瞬にして暗くなった。ある程度の覚悟はあったが、まさかそこまでとは想像を超えていた。その後、どれくらい無言が続いたか定かではないが、ハッと我に返り、「解りました。これからのことを考えます。」「癌と申告するのかどうか?」(この頃は宣告するかどうかは身内の者に託されていた)「抗がん剤を始めたいが、どうするか?」他も含め主治医からの話は、地獄のからの声のように聞こえた。
「いや。死ぬと決まった訳ではない。」「助かる。大丈夫。人間は強いもの。」と自分の心に訴え妻と二人三脚、癌との闘いが始まった。忘れもしない平成三年十月末の出来事だった。東洋医学、健康食品、占い師、霊媒師、兎に角思いつくものは全てトライした。藁にもすがる思いだった・・・。
「私、大丈夫かな。癌じゃないの。」妻には癌宣告はしていなかった。「大丈夫だよ。必ず完治するから。」抗がん剤を投与すると、日に日に体調を崩し、髪の毛が抜け落ち、元気がなくなっていった。そんな妻の姿を見て、私は心が痛い気持ちで一杯になった。しかし、私も妻も必ず完治すると信じて、一日、一日を精一杯生きた。国立がんセンターは当然のことながら、妻の他にも全国から多くの患者が入退院を繰り返しています。毎日、エレベーターで多くの子供たちを見かける。髪の毛が抜け落ちた、まだ幼い子供たち、明日命がない子供たち、大病を患っているが明日を夢見る子供たち、多くの子供たちと接していた。そんな子供たちを見ると、我々も未来を見つめ頑張らなければならないと意思を強く持つことが多かった。平成二年十二月末、病院の外の風景は全面銀世界だった。主治医の「年を越せるかどうか。」の話は無かったかのように、妻の横顔は病院の外を眺めながら笑顔が絶えなかった。私は、「二人で年越しをして、新年を迎えよう。」と話をして、年末年始は病院から会社に出社をした。
「明けましておめでとう。」病院内は正月のムードで一杯だった。私は、人生初めて正月を迎えられる喜びを心から感じた。自分自身も含めて生きていて良かったと思った。「智子、正月を迎えられて良かったね。」「そうだね。まだ大丈夫だ。」と笑顔で帰ってきた。しかし、病魔は確実に妻の体を蝕んでいた。1月に入るとすぐに癌が胸に転移しているので、切除手術をすると言う話がきた。承諾してすぐに手術を実施したが、そこから妻の病状が悪化していく。痛みも増して抗がん剤も強くなり、モルヒネも混ぜての投与になり元気が薄れていく。
二月上旬、主治医が「外出を許可します。」すぐに、外出許可書にサインをして、翌日帰宅。五日間の外出許可だったので、二日間は自宅でゆっくりとして残りは、散策と温泉旅行を計画した。両家の両親も一緒に熱海の温泉へ連れていった。妻は道中終始笑顔が絶えず、ほんのひと時の幸せを感じているようだった。
「劉生ありがとう。久々の旅行だね。嬉しい。幸せ。絶対治るよね。」「うん。絶対治る。大丈夫だよ。二人で頑張ろう。」と話が弾んだ。
そして、運命の三月二十五日、三月に入ると病状がかなり悪化して、モルヒネの影響で話すことも難しくなっていく。三月二十五日は、日曜日だった。病院に行くのが仕事の関係で少々遅れた。病室に入ると妻に笑顔は無かった。大好きなテレビ番組の「ちびまる子ちゃん」を見ていたが、私の顔を見るなり「遅い!」と一言。こんな不機嫌な妻を今まで見たことが無かった。「ご、ごめん。」と言うのが精一杯だった。何か緊迫感を感じた。妻に付き添い約半年が経過していて、自分としては頑張ってきたが、正直限界も感じていた時の出来事だった。「これではいけない!」心の中で叫んだ。帰り際はいつもの優しい笑顔で「ありがとう。」と言って別れたのでほっとした。その日は、帰宅後すぐに床に就いた。
夜中、はっと目が覚めた。電話の音だった。「智子さんが、危篤状態。すぐに病院へ来るように。」母からの電話だった。すぐに着替えて、タクシーに飛び乗った。病室では、妻が「ハア。ハア。」と苦しそうにしている。「智子!大丈夫か。」「劉生。ごめんね。ごめんね。駄目かもしれない。」「智子、大丈夫だよ。必ず助かるよ。元気になるよ。」何故か涙が止まらない。「劉生。ごめんね。ごめんね。ごめんね。」何度も何度も「ごめんね」を繰り返した。「智子、智子。」何度も何度も妻の名前を叫んだが帰らぬ人となった。涙が止まらない。一生分の涙、病室が涙で洪水になりそうな勢だった。悲しい気持ちが半端なかった。
私は、冷静になるために一度病室を出て、椅子に腰かけた。しかし、何も考えられなかった。「何故、何故、何故・・・。」の声が遠くから聞こえてくる。この世の中に、神様も仏様もいない。言葉には出来ない悲しみだった。 享年二十七歳、二十七年間の命が幕を閉じた。あまりにも短い人生だった。結婚してから三年半、ほぼ一年は癌との闘いであり、幸せな期間は二年半の短いものだった。確かに短い期間だったが、人生で一番幸せな期間だった。それだけに、あの時早く専門病院を紹介して貰い入院したら助かったのではないか。とか結果論ではあるが私にとっては反省の日々が続いた。地獄のように自分を何度も何度も攻めたてた。それでも現実は冷たく、妻は二度と帰らぬ世界に旅立った。
それは、雨の日だった。智子の通夜には多くの方々に参列して頂いた。そして多くの方々に勇気を頂いた。当然、私は喪主を務めたが、最後の挨拶に感極まり挨拶ができない。疲れも最大限になり、雨の中その場に倒れ込んで、義理父の手助けで漸くして立ち上がり、参列者に一礼して控室に戻った。それだけ疲労困憊していた。三十四歳の私にとって、あまりにも重たい出来事だった。翌日は、昨日の雨が嘘のように晴天に恵まれた。「きっと、智子が天気を回復させた。智子、ありがとう。」と私は心の中で囁いた。ありがたいことに、告別式にも多くの人々が参列して頂いた。私は、気持ちを新たに告別式最後の喪主の挨拶で、智子に対する思いと参列者に対する感謝の言葉を述べた時に、近くからすすり泣く声が聞こえた。私の目からも自然と涙がこぼれた。無事告別式は終了し、火葬場に直行した。親戚一同でお別れの時である。私にとって、まだ現実とは受け取れないが最後のお別れである。智子は他界したのが嘘のように、笑顔の状態で火葬場にて儚い時間が過ぎた。現実として受け入れられない状態は続いていたが、心の中で「智子、今まで本当にありがとう。」と囁いた。火葬場の近くの桜の花びらが風と共に私の周りを何度も回っていた。
第五章 新しい職場と新しい出会い
智子が亡くなり三回忌が過ぎた春、誠実な峯山課長から呼ばれた。私は「もしかして。」と思ったことが現実となる。実は、昨晩酒好きの山根部長と飲んだ時に、「沖田も今の職場長くなったよな。」と話があったのだ。峯山課長が、「沖田、内示だ。羽田空港整備センター。」沖田は一瞬「えっ。」と思った。聞いた事のない名前の組織だったので単純にびっくりした。「沖田、今度新しい組織になるので、その職場が元気な人財を望んでいるらしい。是非、頑張って貰いたい。この職場では色々あったが頑張ってくれてありがとう。」と峯田課長は付け加えた。
私は「気持ちを切り替える上でも良いことだ。」と思い「ありがとうございます。」の言葉を残し次の職場に向かう決心をした。智子が他界した時に多くの職場の仲間に、ここ数年力付けられたことか。計り知れない「恩」を頂いたので、「恩返し」の意味も含めて「頑張ろう」と思った。
四月一日、モノレールの旧整備場駅 で降り職場に向かった。「そうだ。ここは十数年前に、桜が満開だった入社式があった場所だ。又、原点からのスタートだということだ。」と一人で呟きながら歩いていた。新しい職場に着くと、ベートーベンのような髪形をした佐藤課長が待ち構えていた。「良く来たね。君の噂は以前から聞いていたよ。」と笑顔で迎えてくれた。それから工場長を筆頭に次々と職場の人々を紹介してくれた。千名弱の組織で、殆どが男性、職人気質の人々の集団であった。前の職場が「女子校」とすると、ここは「男子校」であった。夜勤もあり、常に航空機が工場内にあり整備作業を年中実施していた。沖田は、総合職事務系での入社であったが、元々高校時代は理系青年であり理系的なことが大好きであったので、新しい職場は肌に馴染んだ。
「ここのメンバーと心を一つにするためには、同じ仕事をやってみるしかない。」と心に決め整備作業服を着て早番、遅番、夜勤を経験し、実際作業も経験した。当然のことながら、見ているのと実際作業するのとでは雲泥の差があり、非常に緻密で忍耐力を必要とする仕事であることを体で覚えた。それと同時に職人軍団とは非常に近い存在になり、仕事が非常にスムーズに進んだ。私は、まだ管理職では無かったが、仕事の内容はマネージメント業務でありまさに管理職の仕事を日々こなしていた。マネージメントは、管理するのでは無く、相手を良く知ること、工場で働いている一人一人の社員が何を考えているのか、何を悩んでいるのかそれを知ることだと感じていた。私は職場関係を良く理解し、仕事は順調であった。今までと同様に、毎晩整備士の連中と飲みに行って親睦を深めた。工場の整備士は閉鎖的で保守的であったので「意識改革」が必要であったが、実直で真面目な性格の人が多いので真剣に話をすると理解をしてくれた。「世界一の工場を作ろう。」を旗印にその為にどうしたら良いのか夜遅くまで議論した。この時のメンバーとは今でもプライベート含め付き合っている。
一方、この頃新たな出会いが巡ってくる。前の職場のキャビンアテンダントで、一回り近く年下で趣味が合う女性だった。趣味は音楽で、その当時大好きなミュージシャンが一緒でお互い少しずつ引かれていく。そして妻が他界して三年以上経過した時期から、私は結婚を意識していく。妻が他界した時再婚はまったく考えてもみなかったが、今は必要な人だと心に強く思っていた。
平成六年春内示を受ける。管理職へ昇格と同時に伊丹空港総務課への人事異動だった。管理職への昇格は嬉しかったが、若いころから「沖田、常に二階級上の立場を意識で仕事をしろ。そうすれば、視野も広くなり自分のやりがいに繋がる。」と言われていたので、数年前から管理職の意識で仕事をしていたので、特別管理職になって意識することはなかった。それよりも異動先の総務課の仕事が、沖縄含めた西日本地区の空港約二千名社員の人事、総務関係全ての取りまとめで非常にやりがいのある仕事だった。この時、私は三十五歳大役であったがやりがい過ぎる仕事だった。赴任してすぐに、大きな仕事が待っていた。その年の九月に関西空港が開港になる。組織含め関西空港の全ての準備をする必要があった。四月に赴任してあっという間に、開港の九月が訪れた。この期間寝る暇もなく準備を進め、何度も開港前の関西空港へ足を運び、準備に準備を重ねた。地上で使用する機材も一夜の内に伊丹空港から関西空港に運ばなくてはならなかったし、開港当日全てが完全に動かなければならなかったが、大きな問題もなく無事開港した。当然運航にも支障がなかった。伊丹空港のメンバーも関西空港のメンバーも大いに盛り上がった。
そして忘れもしない平成七年一月十六日阪神大震災が起こった。私は東京で久々に大学時代の友人と飲んで、サラリーマン生活を大いに語って、帰ってきた翌日の早朝だった。「どーん。ガシャン。」一瞬体が宙に浮いて目が覚めた。何が起きたか暫く理解できなかった。起きたと同時に会社のガードマンから電話があった。「すぐ空港に来てください。大変なことが起きています。」その時、部屋の辺りを見回すと、食器棚、テレビ、書棚全て倒れ、ガラスが部屋中に散乱していた。「これはただ事ではないな。」直感でそう思った。すぐに、シャワーを浴びようとしたが、水しか出ない。着替えて、マンションの外に飛び出した。道路のそこら中に亀裂が入っていて、車が既に渋滞している。すぐにタクシーを捕まえたが、普段タクシーに乗り二十分で空港にたどり着くところが、結果的に一時間以上掛かった。やっと、空港にたどり着くとまだ誰も会社にはいないが、ガードマンが来て「先ほど連絡したものです。かなり大きな地震があったようです。詳細は解りませんが、かなり物が散乱している模様です。」すぐに、支店長室のテレビのスイッチを入れた。ニュースでは大阪市内のビルから煙のようなものが上がっている状況が映し出されていた。この時は、まだどれだけの被害があったのか想像していなかった。空港自体の影響は最小限度で、運航に支障がなかったので、一先ず安心した。次々と社員が出社して、支店長室のテレビに集まってきた。これから徐々に全容が明らかになっていく。震度が大きい地域は大阪ではなく、神戸であること、死者の数が時間とともに桁が増えてくる。そして衝撃的な画像がTVに映し出された。かなり時間が経過してからだった。「これはひどい。」沖田が叫んだ。情報が交錯して、電話も通じなかったが、徐々に全てが明らかになると、予想をはるかに超える結果だった。社員は全員無事だったので、ほっとしたが、家を無くした社員はいた。本社と連絡を取りながら、現地対策本部を立ち上げた。先ずは、社員と家族の安否確認、水などの食料の確保、風呂などの提供等担当を決めて次々と実行していった。又自衛隊からの応援もあったので連携した。翌日、私は震災の影響を直接確認するために、何とか車で神戸方面へ視察に出かけた。まさにすべてが目を疑う状態であった。全壊の家は粉々状態、その跡地に手紙で「誰々は死亡、その他は仮住居を示しておきます。」と残されていた。私は「これは凄まじい状態は生まれてみたことがない。まさに教科書で学んだ戦時中の焼け野原を想像する。」と思った。生きてきて、こんなに自然現象が恐ろしいものか初めて知った気がした。
ダビンチ航空は有事の時に、結束力を発揮する。当日休暇に拘わらず、会社に電話が繋がらないこともあり、遠方を歩いて会社に来て「手伝うことはありませんか。」と何人もの社員が集まった。こういう熱い気持ちが、ダビンチ航空の経営を長年支えてきたことを沖田は実感する。地元へのボランティア精神も忘れなかった。ライフラインが壊滅していたので、風呂に入れない人が大勢いた。そこは工場の風呂を一般にも開放して使用して貰った。
私はこの地震を経験したことにより、多くののことを学んだ気がした。又、この時の私の部下が皆素晴らしく、私の手足となって動いてくれた。私としては初めての管理職で、右往左往しているときで、そんな私を献身的に支え部下からアドバイスを貰い前進する毎日だった。有事の時でも、ぶれることもなく進めることができたのは、部下のお陰である。今でもこの当時の部下には感謝をしているし連絡を取り合っている。
こんな出来事があった。「水田、外に出ろ。」私は飲み屋でそう叫んだ。水田は沖田の部下で人事関係を担当していて、親分肌で「伊丹最後の大物」と言われた逸材であった。カラオケでの十八番は、長淵の「とんぼ」だった。その時の私は何かいらいらしていて、酒の勢いに任せて声を荒げた。「先輩、いいですよ。外でやりますか。」お互い表に出て睨み合いが数分続いたが部長が間に入りその時は治まった。後々水田は退職の時に幹事として、人を集め、銀座で盛大に送別をしてくれた恩人である。又私は独身ということもあり、部下とよく遊び、ゴルフも年に何十回も行った。ある一日のクレージーな出来事であるが、いつもの様に朝五時起きでゴルフをプレーし、その後ボーリングを十ゲーム、卓球、最後にビリヤードで帰宅が0時過ぎた日もあった。
私は、グループ社員のメンバーとも良く飲みに行った。グループ社員の安川が昇格した飲み会の席に参加したことがあった。急に安川が「おもしろくねえ。帰る。」と言って店を出たので、私は「安川、ふざけるな。お前の祝いの為に皆来ているのだぞ。帰るのか。バカヤロー。」と怒鳴り付けたら、安川が飛び蹴りで、突進してきて殴り合いの喧嘩になった。どれだけ殴り合いをしたか解らないが気づいたら、ワイシャツ、ネクタイはボロボロになり、お互い後ろから後輩に羽交い絞めにされ、その店のマスターが「お前ら大人だろう。後輩の前で何をやらかしているのだ。」と怒られた記憶が鮮明にある。安川とは今でも連絡を取り合い、飲む機会もある。自身より熱い男である。
そんな中、プライベートも順調に進んできて、結納も済ませ、結婚式前日を迎えた。前日、職場で上司含めて人生の祝杯をあげてくれた。私は、赴任して次から次へと多忙な日々だったが、新たな人生のスタートがきれると思うと幸せな自分がありがたいと思った。しかし、現実はそう甘くはなかった。
結婚式前日、夕方一本の電話が沖田のデスクに入る。彼女の母親だった。「色々悩みましたが、やはり貴方には娘はやれません。」私は目の前が一瞬真っ暗になった。確かに彼女と結婚式の日取りを決めるまで、簡単な日々ではなかったのは事実だった。初めから母親は大反対だった。その理由は、前妻が他界していること、年が一回り違うこと、親元では生活できないことだった。私は、数年かけて徐々に母親を説得しやっとその日を迎えられる直前だった。「どうした沖田、何かあったか。」仲人を明日控えた支店長が声を掛けた。「大丈夫です。ちょっと明日の段取りの件で。」すぐに別の場所から彼女に電話をした。それから何時間経過していたか。私は最後に「親戚も来て、仲人に迷惑もかけるが、二人だけで式をあげよう。その後、何とかなる。」と彼女に話して、彼女も承諾してくれたが、一時間後泣きながら「やはり駄目。出来ない。」と彼女からの返事。沖田は「全て終わった。」と心で呟いた。既に当日の明け方だったので、急いで仲人の支店長へ電話して謝罪した。その後、披露宴へ数百名規模で海外の先輩も含め出席をお願いしていたので一人一人時間を掛けて電話をして謝罪した。その日は、私にとって生まれて一番長い日に感じた。「そんなことがあるのだ。」と思う人がいると思うがそれが現実だと思うと私は非常に人生が悲しく思えた。暫く自分を責め、人が信じられなくなった。それから彼女と寄りを戻すこともなく、今どこで何をしているかも知る由もない。
第六章 更なる新しい出発
平成九年春いよいよ本社に転勤になる。部署は総務部である。私は現場を歩んできて現場大好き人間であるが、心のどこかで「いつか本社で働きたい。」と思っていたのでやっと実現する。ダビンチ航空の本社は霞が関にあり、約三十年間その場にいた。霞が関と言えば正に「役所」のイメージあり、何か重大事態が発生したらすぐに飛んで行ける場所である。又サラリーマンの聖地と言われる「新橋」も徒歩圏内にあり立地条件は素晴らしいところだった。霞が関には何度か訪れたが、赴任となると見る景色が多少なりとも違っていた。担当役員も部長も伊丹時代にお世話になった上司で顔見知りであり、やりやすく感じたが総務部の仕事自体が何なのか掴みきれてなかった。ある先輩が「これ読んだら少し為になるぞ。」と言って「総務課長心得」の本を頂いたのを今でも覚えている。それでも理解が難しく、前任者をもとより色々な先輩に聞いて回った。ある先輩が、「沖田、総務部の仕事は業務分掌には無い事を実行することが大切。本社では頼りにしているよ。焦らず頑張れ。」兎に角私にとっては、全てが未経験だったので興味湧くことばかりで、俄然やる気が出てきた。私は、本社に赴任して一年が経過して総務課長に就任した。入社して年目の春に本社総務課長に抜擢され、私は非常に嬉しかった。そして、私にとって最初の大仕事が待っていた。三十年近くお世話になった霞が関を離れ、本社を羽田に移転する計画である。この当時の野中社長は大学の先輩であり「現場主義」と「コスト削減」を主題に大きく舵を取る。ある日の夕刊、「ダビンチ航空、霞が関から移転。削減コスト○○億円」の見出しがいきなり踊る。実際この話は総務部の人間は誰もしらない。この紙面を見て、江戸不動産の建物担当者が慌てて、私のところに来た。「本当ですか、沖田さん。」私も寝耳に水だったので正直に答えた。「知りません。多分誤情報でしょう。ご安心ください。」担当者は安心してその場を去ったが、実はこれが実現してしまう。野中社長が総務部長のところで何やら話をしている。その後、総務部長から移転計画を知らされることになる。誰もが心の中で「うそでしょう。」と思ったし、「経費削減」より実質本社移転は手間も費用も掛かる。本社内でも意見が割れたことは事実である。この年は本社移転以外でも、ハイジャック事件、所有していたサッカークラブを手放す等様々なことが起きている。我々にとっては予想しなかったことが次々と起こる。その全てに総務部は関わり、特に本社移転は業務分掌上で総務部の役割だった。さすがに野中社長も本社移転は最後の最後まで迷いに迷った。そして移転を決断する。総務部として羽田の候補地を探し、三か月で計画し、実行に移した。この時、大きな問題が一つ残っていた、それは江戸不動産との関係である。三十年以上の関係を壊すという意味では、後々大きな禍根を残すことになる。江戸不動産の会長の逆鱗に触れダビンチ航空の株は手放し、出張では一切ダビンチ航空を使用しない「戒厳令」を引いたのである。野中社長も腹を括っているので、「We shall return」のセリフを残して霞が関を去ることになる。私も総務部としても移転は積極的賛成派ではなかったので、この時既に「再移転計画」を江戸不動産の担当課長と内々に話をしていた。
「現場主義」の考え方には賛同したが、真の「現場主義」は側にいる距離感ではなく「真に職場を思う理解、思い」である。霞が関を離れたと同時に、別の意味で情報が中々入らなくなる。しかしこの時がある意味「ダビンチ航空本社のあるべき姿」だったかもしれない。結果四年七か月整備場に籍を置くことになる。江戸不動産とは候補地含め逐一この間情報交換をしていた。物件も何か所か候補地があったが、その中で元々本社を長年置いた霞が関にも近く、営業を考えても申し分ない新橋の物件で決めていました。経営企画の同期の佐藤も内々で話を進めていて、新社長の中橋社長以下の経営陣全てに承諾を得てXデイを決めていましたが、「現場主義」を掲げてきた野中社長が中々首を縦に振らないので、最後は影響力のある顧問にお願いして説得工作と考えた矢先に、野中社長が「平成十三年九月十一日のアメリカ同時多発テロで航空の需要が伸びない。我が社も場所も発想も変えて新たな場所で心機一転頑張るしかい。」と言い始め再移転を実行することになりました。翌年に
それ以前起きたハイジャック事件も痛ましく、勇敢で優秀なキャプテンの尊い命を失うことになります。コックピットで息絶えるまで、操縦桿を握り多くの人命を救ったキャプテンに対し感謝の言葉が多方面から届き、通夜、告別式には時の総理大臣も出席し二千名以上の方々が青山の式場に参列しました。その時の通夜の司会の大役を務めさせて頂きましたが、参列者の涙が多く私もキャプテンを思う気持ちから心で泣きました。犯人は航空ゲーム好きの人間で、機内にいて座席から急に立ち上がり大声で包丁をかざしキャビンアテンダントを人質にしてコックピットに入り込み、キャプテンに対して指示を出し、言う事を聞かないと持っていた包丁でキャプテンを刺殺し、自ら操縦しようとして機体が急降下した時に、機内にいた別の乗員がコックピットのドアを破り潜入して、犯人を取り押さえ間一髪操縦桿を握り上昇させ他の乗員と搭乗していたお客様は無事でした。後二百メートルで迄急降下していて、墜落していたと思うと今でもぞっとします。ダビンチ航空は、偉大なキャプテンが他界したその日を「安全の日」と定めて今でもその日は、ダビンチ航空の社員全員で黙とうを捧げています。この日を絶対に忘れてはいかないと思う自分からの気持ちで、自ら提案して社内決定に至っています。ダビンチ航空は過去何回か事故を起こしましたが、事故供養のために毎年東京のあるお寺で、慰霊祭を開催しています。又昭和四十六年に最後の墜落事故を経験し、山に墜落したこともあり、毎年供養をする為の登山と慰霊碑に合掌しています。私も何度か登山を経験しましたが、何故か大雨が多く涙雨を感じました。公共交通機関の全てに通じる言葉だと思いますが、「安全は全てに優先する。」は私だけでなくダビンチ航空の全社員の心の中にあります。
仕事も忙しいこともあり、暫くは女性から遠ざかっていたが、ある会社の役員の紹介で会うことになった。自分としてはあまり気のりしなかったが、総務課長の仕事の延長線と捉えて会うことした。「沖田さん彼女現役の歌手で、私は彼女の東京の後援会長を任されている。是非、お願いしたい。」と何度も頼まれていた。役員と彼女(現在の妻)と私と楽しいひと時を過ごすことが出来き、その場は終わった。それで終わりかなと思ったが、数日後偶然に新橋の駅舎前でばったりと出会うことになる。それから気が付くと半年後には入籍し、2年後には息子が誕生する。私は今まで女性とは色々あったが、こんなこともあるのだなと幸せと感謝の気持ちで一杯になった。
第七章 本社再移転そして新たなるスタート
平成十五年春中橋社長が掲げた「グループが一丸となって難局を乗り越えること。」をテーマとして、バラバラになっていた営業部門も含めグループがいよいよ新橋に再結集する。更に、統一してイメージの転換を図るために、公式の呼称をグループ含め徐々に変更していく。又、これにより江戸不動産とのよりも元の鞘に収まり以前の関係に戻ることになる。本社は、新橋駅すぐの場所にあり人通りも多く、雰囲気としては活気が出てきたように感じた。この移転と同時に世界経済の回復、日本経済の回復、景気回復が暫く続くことになる。
しかし、自分としては何か本社に足りないもの感じる。ダビンチ航空は過去幾多の困難に立ち向かい、全社員一丸となって難局を乗り越える力を持っていた。その当時の本社にその力、全社一丸をあまり感じなくなっていた。全社的な求心力の中心とならなければならない本社が、何故か元気がないように思えた。本社も移転し、中橋社長の「グループ一丸となって」を掲げ、これからというのにそれを感じない自分がいた。本社内見渡すと挨拶をしない若手社員が多く、出社の時も下を向いていました。そこで部内の若手社員と相談して、「挨拶運動」を本社内で展開しようと持ちかけて、各部若手を選出して「見回り組」と名付けて朝早く出社して、エレベーター玄関で「おはようございます」運動を展開させました。毎日毎日「おはようございます」運動を続けると徐々に、本社内が明るくなるのを実感しました。
新しい本社ビルは、お客さま本位ということで、応接室を増やし、出来る限り会議少なくする為に会議室は減らし、会議の法則(例えば会議は必ず結論を出す、一時間以上の会議は実施しない等)を作りました。夕方五時以降はグループ全体で気軽に本社内で飲めるように、休憩スペースに「飲みスペース」を作り、個人持参でお酒がキープできる冷蔵庫を設置し、兎に角「グループ本社」が一枚岩になり力が発揮できるようにあらゆる手段を講ました。
そして移転して一年後の平成十六年春七年在籍した総務部を離れることになりました。この七年間は私のサラリーマン人生で最も長く在籍し、世の中の流れもダビンチ航空の歴史の中でも様々な出来事がある中での経験でした。2000年問題の事務局長、ダビンチ航空五十年史の編集の仕組み作り、グループの一体化を助長させる為の退職した先輩方々、社員の家族を集めた感謝会の仕掛け、司会進行など様々な経験をさせて貰い、今でも走馬灯のように思い出が蘇ります。
第八章 最終章
そして次の部署はCS改革室でまだ出来て間もない部署で、お客様本位のCSを全社的に推進していくことメインに活動しました。ここでは三年在籍しましたが、ダビンチ航空の社内スローガンを考えたり、社内に活力をもたらす為に給料明細にお客さまから頂いたダイヤモンドより高価な「褒められたエピソード」掲載すること提案したりと、「CSよりESが大切」を基本に活動しました。
そして次の部署はエンジン工場で又整備場に戻りました。この時は、エンジン工場が新しく生まれ変わる時期で、極力費用を圧縮して移転させることがテーマでしたので部下と知恵を絞り移転を成功させました。
そして次は私にとって最後の部署となるダビンチ航空のコールセンター業務関連のグループ会社へ、初めての出向になります。そして初めての営業系の部署への異動です。ダビンチ航空は海外含めて数か所にグループ会社としてコールセンターを設置しています。そこの国内営業部門の実質トップで部下が数百人いました。世間はリーマンショックの影響で景気が悪く、石油の高騰で航空業界も景気が低迷した頃でした。ダビンチ航空も経費削減、人員の効率化を当然企業として推し進めていて、コールセンターの統廃合が私の役目でした。人員の効率化、費用削減は厳しい経営環境の中では当然のしなくえてはならない項目ですが、真の費用削減とは「無駄なものに費用を使わない。投資しない。」、真の人員の孤立化は「必要な人財は確保する。」ですが、実際はそうはいかない。そういう意味でコールセンターの統廃合はあまり気のりしませんでした。ダビンチ航空は、人員の削減を名目に早期退職を募っていました。私はそれを多くの部下に説明し、退職を募る役回りでしたが、何故かその時自分の脳裏に「退職」の文字が浮かびあがってきました。その理由は、今思えばいくつかあります。証券会社を渡り歩いた高校時代からの友人が、会社を一緒にやらないかと突然私に電話があったこと、ダビンチ航空でふと自分の人生を振り返ると、やり切ったと思う場面が何年か前にあり、会社全体の雰囲気が数年前から自分の今まで理想としてきたものと少しずつずれてきていたこと、トップを目指して頑張ってきたが先が見えてきたこと
等から会社をやめる決断をします。他にも理由は色々とありますが、妻以外は誰にも相談することもなく「決断」することになります。心から愛する会社を去ることは、断腸の思いでしたが平成二十一年春会社を去ることになります。多くのお世話になった方々には、メールと書面でご挨拶をさせて頂きました。心から嬉しかったのは、わざわざ自宅を訪ねて「先輩会社辞めないでください。」と言いに来た後輩がいたこと。別の後輩は、「会社やめる。」と話した時に、酒の席だということもあり涙を流しながら「何故会社を退職するのですか。」と何度も殴りかかってきて、店のママに「いい加減にしなさい。」と逆に足を蹴られたことです。
ある日の銀座での夜、ダビンチダビンチ航空の後輩が送別会を開催してくれました。幹事は何年か前に部下で「外に出ろ。」と喧嘩した水田でした。入社が昭和と平成二回に分けて送別があり、昭和入社の後輩の送別でした。東京だけではな
く遠方からも駆けつけてくれた後輩も沢山いました。「先輩、何故今退職ですか。」の質問が一番多かったのを覚えています。最後の挨拶は沢山の後輩の送別で、嬉しい照れもあり中々真面目に挨拶ができず、涙だけが溢れてやまなかったです。お開きの後、銀座の交差点近くで多くの後輩に持ちあげられ、胴上げの儀式がありました。宙を舞っているときに、走馬灯のようにダビンチ航空の自分の人生がスローモーションのように蘇ると同時に、大学卒業の追い出しコンパの時に後輩から胴上げされその後、彼女の家に電話したことも思い出しました。「みんなありがとう。水田本当にありがとう。感謝します。」と心で叫びこれからの人生新しいステージで頑張ろうと心に誓いました。ダビンチ航空は兎に角熱い後輩がいて、今でも熱い後輩が会社を支えています。
いよいよ次の人生のスタートが始まります。高校の同級生と立ち上げる会社はビジネスジェットの会社で、日本ではまだ馴染の薄いこれから事業でした。既に友人は、資金はある程度集める目途はついて、事業計画を作りスタートしようとしていました。しかし、今でも日本の本格的ビジネスジェットの会社は存在しませんが、先見の明はあったものの、航空業界、空港の環境整備、ビジネスジェットに対する正確な理解が不足しており、事業を立ち上げる半ばにして挫折してしまいます。まだ子供も小学生で、次どうしようか。人生初めて迎えた危機であった。ハローワークにも通う毎日だったが、以前知りあった警備会社の社長から声がかかり会社副社長で就任、更には国会議員の秘書の仕事で何とか繋ぎの仕事だった。そんな不安定な毎日を過ごしている平成二十三年年末にダビンチ航空の先輩から携帯に電話があった。「沖田元気か。今、仕事は。」嬉しかった。すぐに夜会って飲みながら現状を説明した。「そうか。結構大変だね。そうだ、今ダビンチ航空がローコストキャリア募集している。もう一度航空会社に戻ってこないか。受験してみたら。」私は一瞬えっとは思いましたが、藁をもつかみたい気持ちだったので受験することになる。ダビンチ航空の中橋社長の次の社長の海元社長が在籍時、時代の先読みで、準備を進めていたローコストキャリアのパイン航空が海元社長亡き後に、立ち上がっていた。パイン航空のホームページから応募用紙をプリントアウトして、必要事項を記入して申し込んだ。数日すると、面接するからパイン航空へ来てほしいとのことで、面接会場へ向かった。大学を卒業して何年経過したことか、久々の入社面談で緊張した。パイン航空の事務所に行くと雑然として、社員らしいメンバーは、少なかった。航空会社として認可はされていたが、まだ就航はしていないので社員も少ない。そこで待っていたのはアメリカ人一人だった。最初は簡単な日本語から始まり英語での面接だった。英語の面接はそれこそ中学二年の時英語検定二級面接依頼であり、四十年ぶりだった。緊張はしなかったが、真剣に彼の目を見て何を聞いているのか、何を話したいのか心の声を聴こうとした。約1時間話した後に、英語で「好きな言葉を四つ答えなさい。」と質問があり、咄嗟にCS戦略室時代にダビンチ航空の社内スローガンを考えたそのものが、四つの言葉で構成されていたのでそれを答えた。それが功を奏したかどうか解らないが見事合格となる。次にパイン航空の本社に行った時に「是非、来てほしい。」と言われた時は、涙が出るほど嬉しかった。ダビンチ航空に内定した時よりも嬉しかった。
そこから丁度五年が経過して、今パイン航空の現役社員として元気よく働いている。一時期航空を離れて仕事をしたが、ダビンチ航空で染みついた航空魂が自身の体の中でまだ生きていて、そこが自分の生きる道だと確信している。パイン航空構想を考えたのは海元社長で、一時期総務部で上司だった方であり、その総務時代二度に亘り、ローコストキャリアの研究でアメリカを訪れて、社内で研究発表したことがあり何か「縁」を感じる。ビジネスジェットの会社を立ち上げることはなかったがローコストキャリアで仕事させて頂いている。パイン航空は実に面白い。正に「空飛ぶ電車」である。航空会社は、航空機に対する設備投資、人件費、空港に関わる費用、燃油費等費用が掛かる業界で、景気に大きく左右される。ダビンチ航空も過去景気に大きく左右された苦い思い出もあり、帝国航空は、会社更生法を適用した苦い体験がある。会社存続を維持するのが非常に難しい事業である。パイン航空も同じ航空事業を営む航空会社ではあるが、何かかが違う。それは「無駄なものには、一切投資しない。一円に拘るコスト意識がある。」だからこそ、常に低価格の運賃をお客さまに提供できる。一方で投資が必要なものに対しては投資する。「安全」に対する意識と投資は半端ないものがある。主パイン航空は就航して五年が経過したが、だからこそ毎便ほぼ満席で着実に「安全と安心」を得ている。ダビンチ航空も帝国航空も国際線のお客様の層は日本人がメインでしたが、パイン航空の国際線のお客様の比率は海外のお客さまが多い。海外にも認知された航空会社と言える。すさまじい速さで、路線を伸ばし、新規機材を購入している。まだまだこれからが、パイン航空の真骨頂で、引き続きパイン航空の社員として会社を盛り立てて行きたい。
今まで色々な人生、生かされた人生を歩んできて最終的に航空の世界にもどることが出来たことに感謝している。人生終わるまで何が起こるか解らないが、「夢」はまだ多く実現できていないので、更に前向きに頑張って「夢」を実現したいと思う。私は決して「破天荒」ではない。ただ自分流に生きてきただけだ。そしてダビンチ航空を通じて出会った人々に感謝の気持ちを持って、これからも生きていきたい。
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