67.月華彷徨
少しずつ、精神の揺らぎは収まってきた。
こういった時に、早い段階で冷静さを取り戻せるのは長所だと神谷は思っていた。
心の一部を切り離して、客観的に自分を見つめる。そうすることで波打つ心を静められる。
もっとも、それが本当にいいことなのかどうかはわからないが。
「さて、いつも通り晩ごはん作らないと」
あえてそう声に出し、神谷は立ち上がる。
まだ少し身体の芯は震えていたが、これなら大丈夫そうだ。
――――大丈夫? 何が?
そんな声を聞いた気がしたが黙殺する。
もう何も考えたくない。
思考の海に身を投じたら、沈んで二度と浮上できなくなりそうだった。
食堂には誰もいなかった。夕食時にはまだ少し早いのだから当然か、と心中で呟く。
キッチンの電灯を点けると数度の点灯の後、光が空間を満たした。
今日は何を作ろうか考える……が、思うように頭が回らない。元々誇れるほどのレパートリーがあるわけではないのだが、それでも今日はなかなか適したメニューが思いつかなかった。
「……ハンバーグにしよう」
献立に困ったとき、神谷はいつもハンバーグを作ることにしている。
初めて料理した時に作ったものだからだ。
神谷にとって、基本と言える位置にそれはある。
材料を冷蔵庫から取り出し、手際よく準備を進めていく。
誰もいないところに広がる音が異様に寂しく感じた。
気が付くと目の前にキャベツの半玉がある。これを千切りにするつもりだったのだが、いつの間にかぼんやりキャベツと見つめ合っていたようだ。
「…………はは」
何をしているんだろう。
笑うしかない、なんてフレーズが頭をよぎる。
「えっと、そうそう、キャベツ切らないと」
そんな風に呟き、そばに置いてある包丁スタンドに手を伸ばした。
取り出すと銀色の刀身がきらりと照明の光を反射して輝いた。
その光を、見て、神谷は、
「あ、ああ――――」
フラッシュバックした。
包丁という名の刃物が記憶と結びつき、先ほど味わった一連の光景を、嫌というほど喚起する。
月の下で閃く刃の色と、右腕が切り飛ばされる感覚が鮮明に蘇った。
脳が熱い。
なのに全身が冷たい。
奇妙な感覚と共に前後不覚。
天井が床で、床が天井。
ぐるりと回る世界で、金属の擦れるような音だけが鮮明に鼓膜を震わせた。
自分が倒れている、と気付いたのは、床に響く誰かの足音を肌で感じてからだった。
「ど、どうしたの今の声!?」
食堂に入ってきたのはアカネだった。
慌てて神谷に駆け寄ると、そばに落ちていた包丁を慌てて拾い上げ元の場所に戻した。
「…………あー…………なんでアカネが…………?」
ゆるゆると視線をアカネに向けるが、ハレーションを起こしたような視界ではまともに表情が見えない。全てが煌めき歪んでいた。
「なんでって……あんな悲鳴聞いたらさすがに来るわよ」
「悲鳴……? そんなの出してない……ん、だけど」
「あんたに決まってるでしょうが。だってあたしあんたを見張って……じゃない、ここにいたのはあんただけなんだから」
悲鳴?
そんなのは知らない。
いや、もしかしたら――無意識のうちに。
倒れる瞬間、意識がねじ切れてしまいそうだったあの時に上げたのか。
そういえば、少し喉がヒリヒリする。
本当にそこまで自分は追い詰められているのか。
自覚はない。
だがもし本当にそうだとしたら――そう考えると、まるで現実逃避をするかのように、神谷の意思は平常を装う方向へ向く。
「ねえ、あんたやばいって。今日はもう休んで…………」
「だいじょうぶ、だから」
何かを言おうとしたアカネを押しのけ立ち上がる。
ぶるぶると全身が震えていたが無視して歩き出そうとすると、アカネに手を掴まれた。
だが。
「あっ…………」
「……ハンバーグのソース切らしてたんだった。買ってこなくちゃ」
振り払う。
理由なんてどうでもよかった。
ただ今は誰もいないところへ行きたかった。
食堂から出て、玄関へと足を向ける。
全てが恐ろしくて仕方がなかった。
全てから逃げたかった。
とにかく心がボロボロで、擦り切れる寸前で、誰とも関わりたくないし、何もしたくなかった。
もしかしたら今回のことはきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
【TESTAMENT】を起動し、戦いを始めた時からずっと傷ついていたのかもしれない。
そこから必死に目を逸らしていただけだったのだ。
願いを叶えたいと馬鹿の一つ覚えみたいにひたすら繰り返し、自分は強い意志を持っているんだと自分自身を騙し続けていた。
それができていたはカガミに会うためというのが第一ではあったが――その他に、園田が関わってしまったからというのがあるのかも知れなかった。
巻き込んでしまった以上、もう自分から辞めるとは言えなかったから。
それでもごまかしごまかし閾値を越えないレベルで何とか耐えていた。
しかし今回のことで、もう意思だけではどうにもならないところまで来てしまった。
貯めこんでいた痛みは、決壊と共に爆発し、神谷の心を蝕んだ。
じわじわ増す重圧には耐える事が出来ても、一度壊れた土台では何も支えることはできない。
それが、今の神谷沙月だった。
夜の道路は星屑の川みたいだった。
最寄りのスーパーを目指して、道路沿いの歩道を歩く。
時折通る車のライトが一瞬だけ身体を舐めていった。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
うわごとのように繰り返しながらゆっくりと進む。
そんなことを呟いている自覚もなさそうだった。まるで壊れたレコードのように垂れ流される言葉は夜闇に溶けて消えていく。
頭がぼんやりしていた。何かを考えようとしても霧に紛れてしまう。まるで頭が考えることを放棄しようとしているかのようだった。
その意味を考えようとして、そのたび失敗を繰り返している、そんな時。
「いった!」
ごつん、と背中に何かがぶつかった。
反射的に痛いと叫んだが、特に痛みはない。
振り返って下を見ると、自分のスニーカーが落ちていた。
あれ? これは今自分が履いていたはず――神谷がそう思おうとした瞬間、
「ちょっとあんた!」
追いかけてきたらしいアカネに気付いた。
なぜここにいるのか。そう思い顔を見ると、彼女は少し怒っているようだった。
いや、怒っているのか? アカネは神谷に接する時は基本的に普段から怒り気味なので、神谷には判断がつかなかった。
「かたっぽスニーカーじゃなくてサンダルよ。何してんの」
「あ、ほんとだ」
足元を見てみると確かに左足がスニーカーなのに右足はゴムサンダルだった。
ぼうっとしながら出て来てしまったのが災いした。
「ほんとだ、じゃない! それ以前にあんた財布忘れてったわよ」
はい、と手渡す。
そういえば財布を玄関に置いて、靴を履いて(左右不揃いだったが)、そのまま持ち忘れて出て来てしまったのだ、と思い出す。
「忘れてたよ。ごめん、ありがとね、わざわざ」
「…………あんた、ほんとに大丈夫? ふらふら歩いて、見てられなかったわよ」
「ふらふらしてたのは靴のせいだよ」
「そんな感じじゃなかったから言ってんの! なんかの拍子に道路に飛び出さないか気が気じゃなかったわ」
「えへ、心配してくれるんだ。やっぱ優しいじゃん」
からかうような口調だったが、その表情は薄かった。
笑おうとして失敗したロボットのようないびつな顔で、それを見たアカネは泣きたいような気分になった。
こんな、生きる気力を丸ごと無くしたみたいな顔なんて見たくなかった。
「……じゃあ行くよ、わたし」
そう言って踵を返し歩いていく背中がとても小さく見えた。
こいつは今何を考えているのだろう。
どんな気持ちでいるのだろう。
何に対してもがいているのだろう。
考えてもわからなかった。
わからないからぶつかるしかない。
嫌いな奴のことなんて本当は考えたくもないが、こんな状態の人間を放っておくことは、アカネにはできない。
「ちょっとこっち来なさい」
そう呟いて、アカネはその頼りない腕をつかんで引っ張る。
今それ以外にできそうなことは見つからなかった。
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