32.月の下、翳る君へと手を伸ばす


 寮の屋上は開放的だった。

 さすがに周囲は鉄柵で囲まれているが、それでも天井や壁がないから景色が良く見える。


「涼しいな」


 緩やかに吹き抜けていく春の夜風が心地よく、神谷は思わず猫のように目を細めた。

 既に彼女には呼び出しをかけてある。

 柵にもたれかかったまま短パンのポケットからスマホを取り出してロックを解除すると、先ほどメッセージアプリで送った文言が表示された。


『寮の屋上に来てほしい。来てくれるまで待ってるから』


 ”来てくれるまで待ってる”なんてずるい言い方だとは思うが、こうでもしないと来てくれないような気がしたのだ。なにしろここ数日露骨に避けられている。


 はあ、とため息をつく。

 また自分は彼女を利用した。自分に対する好意をいいように使って、こうやって呼び出しをかけた。

 あの子のためなんだから仕方ない、なんてごまかそうとしても罪悪感は容赦なく胸を刺す。

 神谷は目的を達成するためなら手段を選ばない傾向があることは自覚していたし、悪いところだとも思っている。

 ただ、それ以外にどうすればいいのかがわからないのだ。


 そんな自己嫌悪に陥っていると、少し耳障りな音を立てて塔屋の扉が開かれた。


「神谷さん……」


「こんばんは。なんだか久しぶりって感じがするね」


 現れたのは園田みどりだった。




「メッセージ見て来たんですけど……これはどういう……」


 久しぶりに間近で見る園田からは、憔悴がありありと感じ取れた。よく見てみれば目の下にクマも刻まれている。おそらくここ最近まともに眠れていないのだろう。

 それほどまでに彼女は追い詰められているのだ。


「ねえ、最近何かあったでしょ」


 神谷が単刀直入に聞くと、園田は露骨なほどに苦悶の表情を浮かべた。

 最初の内は――園田から避けられるようになったころは、園田は隠し事が下手なのだと思っていた。しかしおそらくはそうではないのだ。

 隠しきれないほどの、取り繕えないほどの『何か』が今も彼女を蝕んでいる。


「いいえ……何も」


 しかしそれでも園田は口を閉ざす。

 自分でも隠しきれていないことはわかっているだろうに、それでも貫く。

 それは明確な拒絶の意思だ。これ以上あなたを関わらせる意思はないと、そう主張している。

 だけどそんなのは嫌なのだ。


 だってこの胸の痛みはどうしたらいい。

 手の届く場所で苦しんでいる友達をただ見ているだけなんて、そんな辛いことがあるか。


 神谷はもう決めている。

 踏み越えると決心している。

 それに幼馴染が背中を押してくれた。だから少しの躊躇こそすれ、後退なんてありえない。


「……話は終わりですか? なら私は部屋に帰ります」


 白い顔からは何の感情も読み取れない。

 園田は確かに活発な性格ではない。しかし意外に感情豊かでもある、と神谷は思っている。

 楽しいことがあれば素直に声を上げて笑うことだってある。悲しいニュースに胸を痛めて消沈することだってある。そんな彼女の感情は、その表情にもよく表れる。


 しかし今の園田は全くの無表情だった。

 それは感情がないというよりは、大きな絶望に押し潰されて平らになってしまったように神谷には感じられた。

 ぎり、と奥歯を噛みしめる。


 何なんだ。

 一体何がそんなに彼女を追い詰めた。


「……あのね、」


 ゴムサンダルを履いた足を一歩踏み出す。

 同時に、空に輝く月に雲がかかり、できた影が園田に差した。

 まるで園田を覆い隠してしまいそうな暗がりの中、何かを諦めたかのように垂らされた園田の手を、神谷はしっかりとつかみ取る。

 能面のようだった園田の表情が、驚愕の色に変わった。

 

「園田さんはわたしに言ってくれたよね。助けたいって言ってくれたよね。あの時、わたし本当に嬉しかったんだ。それだけで救われたみたいな気がしたんだ」


 ああ、本当に――思い出すだけで泣きそうなくらいに。


「だからわたしにも助けさせてよ。園田さんが辛いのは見てればわかるよ、わたしじゃなくても誰だって。友達が辛そうにしてたら何とかしたいって思うじゃん!」


 一度走り出してしまったら、もう止まらない。心のままに口が動く。


「わかってるよ、こんなのエゴだって。押しつけだって。ただのわがままだって――でもさあ!」


 本当は事前に色々考えては来ていたのだ。

 素直に話してくれるなんて当然思ってはいなかったから、園田を説き伏せるための理論武装をしていた……そのはずだった。


 しかしそんなものは全部吹っ飛んでいた。

 園田の、全てを諦めかけているような顔を見た瞬間に。


「わがままくらい言わせてよ! 助けたいんだから仕方ないじゃん!」


 はあはあ、と荒く息をつく。

 結局こんな風になってしまった。

 感情に任せて殴りつけただけ。これではどうにもならない――と。神谷はそう思っていたのだが。

 

「ふふ、ふ……ふ、くく」


「園田さん……?」


 園田は笑っていた。

 身を捩り、それでもこらえきれない笑い声が口の端から漏れていた。

 予想に反した光景に、神谷の口は塞がらない。


「本当に……支離滅裂で、めちゃくちゃで、だけど――それが一番あなたらしい。自分のことを第一に考えているようで、頭の中は誰かのことばかりで……私はそんなあなただから好きになったんですね」


 久しぶりの彼女の笑顔には、伝う一筋の涙があった。

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