30.一線の一歩前


 自分は幸せだ、と今の園田みどりはためらいなく言える。

 神谷沙月という心の底から求めていた友人を得ることができた。

 憧れの存在の隣に立つことができた。


 ああ、幸せだと胸を張れる時が来るなんて。

 そんなこと一年前この学校に来た時には思いもしなかった。

 不幸せな時間が長すぎて、自分には縁遠いものだと思っていたから。


 そう、園田みどりは幸せだった。

 良き友人を得て、学生生活をやっと謳歌し始めていた。


 しかし。


 不幸というものは往々にしてちょっとしたきっかけでやってくるものであり。

 今回の場合、それは一本の電話だった。




 神谷沙月が最初に違和感を覚えたのはある朝のことだった。


 月曜日の朝、目覚めた神谷が一階の食堂に降りると、いつもそこで待っているはずの園田がいなかった。少し不思議に思いはしたが、寝坊でもしてるのだろうと思い、先に朝食を作って待っていることにした。

 園田もたまには寝坊することだってあるだろう――そんなことを考えながら。


 だが作り終えても園田の姿は無かった。

 とは言っても大した時間は経っていない。せいぜい10分程度だ。まだ始業時間までには余裕がある。

 ただこのままではせっかく作った朝食が冷めてしまうので起こしに行くことにした。

 湯気を立ち昇らせるベーコンエッグを台所に置いて神谷は食堂を後にした。



「おーい園田さーん。朝だよー。ごはんできてるよー」


 園田の部屋のドアに向かってとりあえず呼びかけてみる。しかし返答はない。

 まだ寝ているのだろうか。コンコンとノックしてもう一度。


「園田さ」


『……神谷さん』


 くぐもった声がドアの向こうから聞こえた。


「あ、起きてたの? 大丈夫? もしかして体調悪い?」


『……いえ、大丈夫です。朝ごはんは後で食べます。あと学校も先に行っておいてください』


「……え」


 すらすらと並べたてられた言葉に、神谷は二の句が継げなかった。

 口調に淀みは感じられない。声色もいつもと違うわけではない。

 ただ、この状況で『いつもと同じ』という事実、それ自体が違和感に繋がった。

 神谷には、まるでそれが――事前に用意していた台詞を読み上げただけのように聞こえてしまったのだ。


 結局次に園田の姿を見たのは始業ギリギリになってからだった。予鈴と同時に慌てて教室に入ってきたのだ。あとで「今朝どうしたの?」と聞いても「何でもないです。大丈夫です」と返すだけ。ただ実際その時は特におかしなところは無いように見えたのだ。

 知り合ってから大した時間も経っていないし、たまにはいつもと違う朝もあるだろうし、彼女にも彼女の事情があるのだろう。そう考えて深くは聞かなかった。


 だが。

 後に神谷は、この時の判断を深く後悔することになる。

 どうして疑問を捨て置いてしまったのかと。

 どうしてもう少し踏み込んでおかなかったのかと。

 


 その日の夜。

 神谷が風呂からあがって自室に戻ろうとしていた時。

 屋上に続く階段を降りてきた園田とばったり会った。

 右手にスマホを握りしめている彼女に声をかけようと右手を上げて――その瞬間、固まった。


「あ……え?」


 園田の目元は明らかに赤くなっていた。

 それはまさに、泣きはらした直後のように。


「ど、どうしたの!? 何かあった!?」


「……大丈夫です」


「いや大丈夫って……」


「何でもないですからっ!」


 園田にしては珍しく大声を上げたかと思うと、神谷の横を抜けて走り去っていった。


「何でもない……なんて、そんなわけないじゃん……」


 あんな風になるなんて、絶対に何かある。

 そんなことはわかっているはずなのに、この期に及んで神谷は迷っていた。

 踏み込んでいいものか、他人のデリケートな部分を土足で踏み荒らすことにならないか。 

 下手に刺激して今より悪化したら取り返しがつかないかもしれない。

 そう考えると全身が石にでもなったかのように身動きが取れなくなる。


 神谷は一年前から他人に対して臆病になってしまっていた。

 それは友人に対してはなおのこと。

 余計なことをして関係の破壊を招いてしまうのがなによりも怖かったのだ。

 神谷の心臓が、恐怖に慄くように騒がしく脈を刻んでいた。

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