24.ふたり分の温度
こんこん、と控えめにノックする。
神谷がいるのは園田みどりの部屋の前。もう一度話をするためにここまでやってきた。
きい、と細く乾いた音と共にドアが数センチだけ開いた。
「はい……どなたですか……」
明らかに消沈した声と共にドアの隙間から顔を覗かせる園田。
「あ、わた」
ばたん。
目が合った瞬間すぐさまドアが閉じる。
「えっ」
「…………ごめんなさい、怒ってますよね」
ドア越しに聞こえる声は少しおびえているようで、さっき神谷が逃げてしまったことを気にしているのが窺えた。
そんなことをする必要はないというのに。
「不躾だったと思います。押しつけがましかったと思います……本当にごめんなさい」
…………もう言いませんから。
そう続けた声は震え、語尾は掠れていた。
この子をこうしたのはわたしだ。一時の衝動に任せたせいでこんなことを言わせてしまった。
そう思うと胸がじくじくと痛みを訴える。
また、これか。
他人と向き合うと決めたのにこれか。
全く成長していない。
何度こんな想いを――――誰かにさせるつもりなのか。
「ちがうよ、園田さんは悪くないよ」
「…………」
「わたしが勝手に混乱して飛び出しちゃっただけなんだ。だからもう一度話をさせてほしいの」
それでも。
間違えたなら何度でも。
自分にできることからやっていこう。
そうして少しずつ、一歩ずつでも成長していこう。
それが北条さんに教わったことだから。
「……散らかってますけどいいですか?」
再び開かれた扉から、園田が顔を出す。その瞳にはもう恐れは見えなかった。
「うん、大丈夫。ありがとうね」
内心で胸を撫で下ろし、初めて園田の部屋にお邪魔することになったのだった。
「いや散らかってるって言ってほんとに散らかってるとは思わないじゃん!」
思わず叫ぶ神谷。
惨状。その言葉がふさわしい有様だった。
「え? そんなにひどいですか?」
対して、きょとんと首を傾げる園田。
まるでこの状態が普通ですよと言わんばかりの表情だ。
散らかっている、というのは本人としては謙遜の言葉だったのだろう。
「どうしたの? これ」
床に落ちたままになっているスナック菓子の箱を指さして聞く。
「あ、それはお菓子の箱です」
「いや見ればわかるから! どうやったらこんな……一度部屋ごと逆さまにしてから元に戻したみたいになるの……?」
ひどいの一言だった。
教科書は散乱してるわ、ベッドの上にはセーラー服が畳まれないまま放置してあるわ(今日は休日なので、恐ろしいことに昨日からそのままということになる)、丸めたティッシュはことごとくゴミ箱の周りに散乱してるわ(横着して投げ入れようとしたのだろう)、お菓子の空き箱が落ちているわ――それはいいとしても(嘘である。本当は全然よくない)。
「まだ中身が残ってるポテチが床に置いてあるのはがまんできない……っ!!」
いそいそとゴミを片づけ、モノの整理を始める。勝手知らない他人の部屋だろうが知ったことか。これはさすがに許容範囲を越えている。
「あ、それまだ食べるんですけど……」
「うるさい! 文句があるなら手伝いなさい!」
「は、はい! ……ちっちゃい子に叱られるの、なんかその、いいですね……」
何やら熱っぽく呟く園田を横目に見ながら、ため息をつく。
(なんか数秒でイメージだいぶ変わっちゃったなあ……)
そう内心で愚痴りつつも、それが少しも嫌ではないのだ。
この少女の新しい一面を知ることができて、素直に嬉しい。そう思った。
結局、園田の部屋が最低限の状態を取り戻すのに二時間かかった。なにも嬉しくない。
フローリングの床に向かい合って座る。
カーペットくらい敷いてもいいんじゃない? という神谷の進言には「お菓子とか飲み物零したときに大変なので」という返答が返ってきた。
そこは気を遣うんだ……と内心思いつつ「そっかあ」と言うほかなかった。
話に区切りをつける意味を込めてひとつ息をつく。
「園田さん、わたしはね」
体育座りの神谷は、すこし顔を俯けて語りはじめる。
「どうしても叶えたい願いがあって、あのゲームを始めたんだ」
思い出すのは一年前の雨の日。
絶望の日。
育て親であるカガミが失踪したあの時を、神谷は今でも鮮明に思い出すことができる。
どれだけ思い出さないように努めても、それはふとした瞬間に神谷を苦しめる。
振り切ろうとして走っても、まるで影のようにぴったりと付きまとう。
叫び出したくなるような記憶。
それを神谷はぽつぽつと、園田に向けて話し始めた。
両親がいないこと。
カガミという育て親がいたこと。
ずっと二人で暮らしてきたこと。
だがその生活が、一年前に突如として終わりを迎えたこと。
たった一人になってしまったこと。
いまだ血の滲む傷口を開いて見せた。
もう関係ないだなんて言えない。
巻き込んでしまったから。助けてもらってしまったから。助けたいと、思わせてしまったから。
だから園田には話しておかなければいけないと――いや。
聞いてほしいと、そう思った。
こんなことは、以前に光空からどうしてもと言われて話したとき以来だった。
その時は心の柔らかい部分に踏み込まれて、光空のことを嫌いになりそうになった。でも、それは大間違いだった。光空の表情を見れば、本気で自分の身を案じてくれているのが分かったから。
だから戸惑いながらも話したのだ。
光空は真剣に話を聞いてくれた。一緒に悲しんでもくれた。そんなことは初めてだった。
もしかしたら、光空に対して本当に心を預け始めたのはその瞬間からかもしれない、と神谷は当時を思い出す。
そして今。
目の前の少女を見る。
園田みどりという少女を。
自分のために命を懸けて戦ってくれた。
一人で戦おうとしていた自分に手を差し伸べてくれた。
まるで光空のように。
「わたしは、カガミさんに会いたい。カガミさんが残したあのゲームの意味を知りたい」
頷く園田。その灰色の瞳は澄み切っていた。
「でも一人じゃ無理だった。園田さんは自分のせいだって言ったけど本当は違うんだよ。完全にわたしが失敗してああなった。園田さんがいなくても同じ結果だったと思う」
「そんな……」
声を漏らす園田に、これだけは否定させまいと神谷は首を横に振る。
あれはプラウの力による反動を考慮していなかったこと、それと戦っていた機械の狼をプラウだと思い込んでいたこと。それらによって生み出された結果だった。
「でも、もし。逆に園田さんがあそこにいなかったとしたら」
そこまで言って、神谷は口を閉じる。
貫かれたその瞬間に意識が飛んだのか、痛み自体の記憶はない。
だが、あの銀の触手に貫かれる寸前の恐怖は鮮明に覚えている。
思わず身体がすこし震えた。
「わたしは今、ここにいない」
それが厳然たる事実だった。
致命傷を負って、連れ去られて、そして――どうなっていたのだろう?
少なくとも死んでいたことだけは確かだ。
誰にも知られず。
あの世界で、一人きりで。
「だから、わたしは――――」
「……ちがうんです」
震えるか細い声が、神谷の言葉を遮った。
神谷が思わず顔を上げると、園田は今にも泣きだしそうに顔を歪ませている。
「どうしたの? なにがちがうの?」
神谷は困惑した。
最初は謙遜かとも思った。
しかし園田の様子は、どう見ても謙遜のそれとはまったく違う。
照れているわけではない。困っているわけでもない。
身を切られているかのような――心が切り刻まれているかのようなその表情は。
今にも罪悪感に押し潰されそうになっている人間のそれだった。
「私が、あなたを助けたのは……ただ助けたいという正義感だとか、以前助けられたから、その恩を返す義務感だとか……そんな綺麗なものではなくて――――」
ずっと、友達が欲しかった。
家族のいる家にいても、自分を囲うクラスメイトのいる教室にいても、いつも孤独で。
寂しさという渇きを潤してくれるものを求めていた。
だからこの学校に来た。
だからあの夕方、神谷の部屋のドアを開いた。
だからあの時――――
「もっと醜悪な……もっと利己的な欲望が、私をそうさせた……! あなたを助けたのはあなたのためではなかったんです……だから、私はあなたに認めてもらえるような人間では、ない……」
ただ吐き出した。
心のうちにある思いを、綺麗に並べることもせず、ただ目の前の少女にぶつけた。
具体性は一つもない。
理解してもらおうという気すらないとすら言える。
そんな感情の羅列が、ただ神谷沙月という少女を撃つ。
だから、彼女はこう返すしかない。
「……やっぱり園田さんの言ってること、ぜんぜんわかんないや」
それはそうだろう。突然、話の最中にこんなむき出しの、未加工の感情を渡されても、誰だってどうしたらいいかわからなくなる。
だから、園田はただ俯いた。自分は何をやっているんだろう。こんなことを言ったって何もならないのに。そんな思いが園田を苛む。
だが。
「でもひとつだけ。わたしにもわかることがある」
「え……?」
「例えどんな人間だとしても。例えその行動が打算からくるものだったとしても」
神谷はおもむろに自分の胸に手を当て、目を閉じる。
自分の呼吸する音が聞こえる。
とくとくと、心臓の音が一定のリズムを刻んでいる。
自分の命を確かめる。
生きている。
「わたしが園田さんに助けられたことだけは確かだよ。こうやって今、ここで生きてるわたしが事実だよ。園田さんが何を言ったって、それだけは変わらない」
いいんだ、と。
神谷沙月は園田みどりを肯定する。
「自分のしたこと、認めてあげてよ。園田さんは頑張ったんだよ。頑張ってくれたんだよ。だから――」
神谷はおもむろに立ち上がり、園田に歩み寄る。
座ったままの園田に手を差し伸べ――それに園田は肩をびくりと震わせた。
思い出すのは、父が振るう暴力の記憶。怒声。
いつもこうやって自分に向かって伸ばされた手は、園田に痛みを与えてきた。
心も身体もずたずたにされた。今はもう身体に痕はないけれど、心の方は時間が癒してくれるのかさえ分からない。
想起された記憶が少女の身体を強張らせる。思わず目を固く閉じる。
だが。
「あ…………」
その手は優しくて。
小さな手が背中に回される。全身が触れ合う。ふたつの体温が交わる。
抱きしめられている、と気付いたのは甘いミルクのような香りに鼻孔をくすぐられた時だった。
ああ、この匂いは――知っている。
最初に【TESTAMENT】の中に入った時。神谷に抱きかかえられたあの時、虚ろな意識の中で香ったあの匂い。
神谷の匂い。
「園田さんはすごいし、えらいよ。頑張ってくれてありがとう……」
――――それは幼い子どもにかけるような、陳腐で単純な言葉だった。
「……えへ、ごめんね。昔わたしが落ち込んでた時にカガミさんがこうしてくれたんだけど……思ってること、うまく言えないや。でもほんとうに感謝してる。それだけはわかってほしいな」
だが、それが。それこそが。
「園田さんのおかげで、わたしは今ここにいるよ。生きてるよ」
「あ、あ」
ずっと頑張ってきた。
父の言うことを聞いて、必死に努力して。
それでも認められることは一度だってなかった。むしろさらに高いレベルを求められ、もっと苦しむことになった。
自分で自分の首を締めているような感覚が、あの家にいる間ずっとしていて、心が休まる時もなく。信頼出来る友人もおらず、ずっと一人で。
だから。
「か、みや、さん」
「うん」
堰を切ったように流れ出す涙を拭うこともできない。
優しく頭を撫でる小さな手の温かさ。こんなにもかけがえのないものがあるのかと園田はただ思う。
産まれて初めて気が抜けたようだった。
昔から思っていた。こんな時が来たらいいのに、と。
幼い子供がおとぎの国を夢想するように、園田みどりは心の底から安らげる時を夜が来るたび願っていた。
そしてそれは、まさに今。
叶うはずがないと心の奥底では思っていた、その願いは果たされ。
夢のような現実に、少女は声を殺して泣き続けるのだった。
「……ちょっと落ち着いた?」
未だ少し震えるその背を撫でながら神谷は聞く。園田はただ頷きを返した。
まさか泣いてしまうなんて――そう内心では驚いていた神谷だったが、きっと彼女にもそうなる理由があったのだろう。もしかしたら、プラウとの戦いがそれほど辛かったというのもあるかもしれない――などと、見当外れに思った。
「ね、園田さん。ほんとうにわたしのゲーム手伝ってくれるの? プラウと戦うの、怖かったんじゃないの? だから、その、泣いてるんじゃあ……」
「ち、違います。それだけは。私が泣いてるのはまた別の理由で……だからさっきの言葉を撤回するつもりはありません」
まだ涙の気配を色濃く残す声色で、それでも園田はきっぱりと言い切って見せた。
その様を見た神谷の瞳が、揺れる。
まだ迷っているのだ、本当は。
園田はもともと無関係の人間だ。いいのか。
頼ってしまって。こんな自分が。いいのか。
でも、今抱きしめている彼女は問答無用に暖かくて――どうしたって、離しがたいのだ。
「いいの?」
震える声で、恐る恐る。
「いいですよ」
迷いなく。
「怖いよ。痛いよ。辛くて、苦しいよ」
縋るように。
「知ってます」
即答する。
「じゃあ、じゃあ――――」
開いた口が、ためらう様に閉じる。唇がわななく。
幼い少女のように、差し伸べられた手へと、自らのそれを伸ばす。
「――――わたしといっしょに、いてくれる?」
この部屋の、誰も彼もが寂しかった。
片方は失い。
もう片方は得られなかった。
しかし、そんなのはもう終わりだ。
少女たちを蝕む、心に巣くう恐るべき空白は――他ならぬ彼女たちの手によって埋められる。
「誓います」
必要なのは、たった一言だけだった。
例え口約束だとしても、誰かが一緒にいてくれる。神谷にとってそれ以上の幸福は無かった。
「よかった……ありがとう。ほんとうに嬉しい。代わりにってわけじゃないけど、わたしにできることなら何でもするからね」
「何でもぉ!!!???」
部屋に満ちていた温かい空気は唐突にぶち壊された。
他ならぬ――今しがた、大興奮しながら勢いよく立ち上がった園田みどりによって、だ。
「今なんでもって言いました?」
「え、こわ……」
一瞬前とはかけ離れた、冷静な声色と表情がかえって怖い。
加えて泣きはらしたせいで充血した目が輪をかけて怖い。
これが漫画なら、あたりに『ドドドドドドドドド』という擬音がひしめいていたことだろう。
圧がすごい。
「なんでもと言ったのかって聞いているんですッッ!!」
「はいいいいいっ!」
思わず背筋を伸ばし正座する。
どうしてこうなった。考えてもわからなかった。おそらく目の前で興奮状態にある園田みどりにもわかっているかは怪しい。やつは獣だ。
「落ち着いて、私……このチャンスを逃してはだめ……神谷さんになんでもしてもらえる……神谷さんになんでもさせてもらえる……神谷さんになんでもできる……!」
いつの間にか園田の方が『なんでも』することになっているのがこの上なく恐ろしかった。
目が血走る、という状態を説明しろと言われたならば、神谷は迷いなく今の園田みどりを差し出すだろう。
しばらく園田がうろうろ部屋を歩き回りながら考え続け、神谷が貞操の危機を感じ始めた時だった。
「神谷さん」
こんなにもフラットな声を、神谷は産まれて初めて聞いた。
感情が無くなったのではなく、カンストを越えオーバーフローしてしまった結果としてのゼロだというのが、なぜか理解できてしまった。
「は、はい」
「本当になんでもしてくれるんですか」
「はい……」
恐ろしくて顔を上げられない。
服は上と下、どっちから脱ぐのがいいのかなあ……などと、神谷が虚ろな思考を漂わせていた時だった。
「だったら、だったら私と……!」
「はいぃ……」
来たぞ来たぞ、どれほどとんでもない要求をされるんだ。
今日こそ命日か。
そんな風に半ば覚悟を決める神谷。
そしてその時は間もなくやってくる。
「私と……友達になってくれませんか……っ」
思わず顔を上げる。
さっきまでとは打って変わって、切羽詰まった様子で。耳まで真っ赤にして。
声に出すのが精いっぱいだとでもいう様に、胸のあたりで手を堅く握りしめている。
これが、園田が神谷にあの世界で助けられた時から、ずっと言いたかった言葉だった。
そっか、と。神谷は腑に落ちた気分だった。いつも自分から離れなかったのは、いつも自分を見ていたのは、これを言うためだったのかと。
「あは、なんだ……そんなのわざわざ頼まなくっても、わたしたちもう友達だと思うよ――少なくともわたしはそう思ってるから」
あの世界で。
プラウという敵がいかに恐ろしいかを知っていて、なお戦うことを選ぶことができた園田みどり。
そんな少女のことを、神谷は尊敬せずにはいられないし、好きにならずにはいられなかった。
友達になりたい、だなんて――本当はこっちが言いたいくらいなのに。
「だから、他にちゃんと考えててね。本当に『なんでも』するつもりだからさ」
そう言って神谷沙月は、いたずら好きな子どものように笑うのだった。
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