23.おとなとこどもExtra Mission


 寮から飛び出して、自分は一体どこに行くつもりだったのだろうか。

 ジャージにショートパンツという、思い切り部屋着そのものの恰好で飛び出してしまった神谷沙月は思い悩んでいた。


 神谷たちが生活する寮は森に囲まれていて、その中に伸びる一本道を進むと学校の運動場へとたどり着く、という位置関係になっている。

 寮生たちからは近くて便利だ、遅くまで寝ていられる、なんならお寝坊気味でも――などと。概ね好評である。


 神谷自身、この森に囲まれた道を歩くのは存外嫌いではなかった。朝は静かで、優しい木漏れ日を浴びながら学校へと向かうのは悪くない時間だったから。といってもそれを自覚したのは最近のことではあるが……。


 だが今はその道から外れ、木の根元にあった手ごろな岩を椅子に見立てて座り込み、打ちひしがれている。

 背を丸め、長く深いため息をつく。


「なにやってるんだあ、わたし……」


 自分を助けてくれたのみならず、これからも助けたいと言ってくれた子を振り切って逃げてしまった。未だ罪悪感がちりちりと胸を焼いている。

 混乱してその場の勢いで逃げてしまったが、置いてきてしまったことは否定できない。

 でも、


「だって意味わかんなかったんだもん……」


「何が?」


 全く予想していなかった返答に驚いて見上げると、


「何が意味わかんないんだ?」


 そこにいたのは黒く長い髪を雑に束ね、いつものようにだるだるのジャージを着た美人。

 寮長の北条優莉ほうじょうゆりだった。




「北条さん……なんでここに」


 呆然と見上げる。

 北条の背が高いこともあり、ほとんど真上から見下ろされているように神谷は感じ、思わず肩をすぼめる。


「なんでって、買い物だけど」


 ほれ、と北条は手に持っていた二つの大きなビニール袋を少し上げて見せる。

 

「食材とか色々買って帰ってきたらこんなとこでお前が頭抱えてるだろ? だからどうしたのかなと思って」


 今日はキャベツが安かったから何個か買って来たんだけど、めちゃくちゃ重いんだよなこれ……などと世間話を始める北条。

 寮長は大変だな……と他人ごとのように思っていると、


「悪いけど手伝ってくれないか? 早めに冷蔵庫に入れておきたいやつも入っててさ」


 と、片方の買い物袋を差し出してくる。

 普段ならやぶさかではない。しかしこれを持っていくということは寮に帰るということで、園田と鉢合わせする可能性も高くなる。

 いつかは避けられないこととはいえまだその勇気は出ない。

 そんなことを考えながらまごついていると、何かを察したように北条が口を開く。


「……わかった、入口まででいい。それと運び終わったら寮の裏口で待っててくれ」


 裏口? と神谷は不思議に思ったが、素直に頷いた。

 この人は自分を悪いようにはしないだろう。そう思えるほどには神谷は北条に信頼を寄せていた。



 裏口の扉の前で手持ち無沙汰に髪の毛先を指でいじりまわしていると、重い音を立てて扉が開かれる。中から覗いた北条が無言で手招きするので言う通りに後をついていく。

 そこは畳敷きの和室だった。中央にちゃぶ台が置いてあり、奥を見ると小さめの台所まである。

 寮にこんな一室があったのか、と神谷は感嘆する。


「ようこそ寮長室へ」


「……思ったより広いんですね」


「おいおい、初めて入った第一声がそれか」


 まあわかるけどな、と呟きながら台所から二人分の湯飲みを持ってくる北条。

 覗きこんでみるとそれは深緑色のお茶で満たされ、濃い湯気を立ち昇らせている。

 ちら、と北条の方を見ると、どうぞ、と無言のジェスチャーで促された。

 いただきます、と小声で呟いて口をつけ――ようとして、ふうふうとお茶の表面に息を吹いて冷まそうと試みる。

 おそるおそる舌先を着けてみるとまだまだ熱く慌てて引っ込める。


「はは。お前熱いの苦手なの?」


「い、いいじゃないですか猫舌でも」


 ほのかに顔を赤らめ、なおも息を吹きかける。しかし焼け石に水だと感じ、諦めて顔を上げる。

 するとにやにやとこちらを見つめる北条と目が合った。


「な、なんですか……?」


「いいや? 可愛いなあと思って」


「いま言うことじゃないでしょ……」


 じろり、とにやにや笑いを睨みつけ言う神谷。


「今じゃなければいいのか?」


「そういうことじゃなくて……もう! からかってるでしょ!」


 ハハハ、と頬杖をついて快活に笑う北条。だがすぐに笑みを薄め、


「ごめんごめん。……で、何かあったんだろ? 話してごらん」


 きょとん、とする神谷。だがすぐに思い至る。

 ああ、この人は話しやすい場と雰囲気を作ってくれたんだろう、と。


 この寮長室に誰かが無断で訪ねてくることはまずない。ここの寮生は北条から、むやみやたらに押しかけてくるな、と言われているからだ。なんでも二、三年ほど前までは、用が無くともひっきりなしに代わる代わる訪ねて来て大変だったとのことなのだが――だからこそ落ち着いて話せる場所としてこの場所を選んだのだろう。


 本当にありがたいことだ。そう思いつつ、少し冷めてきたお茶で口の中を濡らし、すう、と息をひとつ吸い込んでから意を決して口を開く。


「ええと……ちょっと、ともだ……知り合いと喧嘩……じゃあないんですけど。言い合いになってしまったというか」


 それで気まずくて。

 そこまで言って、再び湯飲みを傾け唇を湿らせる。

 意を決したわりにかなりしどろもどろになってしまったが、北条は理解した様子で、


「なるほどな。相手は光空か?」


「いえ、園田さんです」


 予想外だったのだろう、目を見開く北条。

 当然と言えば当然かもしれない。今まで全く関わりの無かった相手と言い合いになるなど、そうそうない。


「そりゃまたなんで」


「最近ちょっとした理由で話すようになって……それで……」


 あの『ゲーム』のことについては伏せることにした。説明が難しいし、それに神谷がそんなことをしているとわかればきっとこの人は止めようとするだろう。

 それは避けなければならない。


「わたし、ちょっとひとりでやらなきゃいけないことがあって……園田さんはそれを手伝ってくれるっていうんです。でもわたしはそれを断って……」

  

「手伝ってもらえばいいじゃないか。理由が申し訳ないってだけなら、向こうから言ってくれてるわけだし、気にする必要も――――」


「わからないんです!」


 叫んだ瞬間、激しく後悔した。こんなのはただの八つ当たりだ。こんな子供の癇癪に付き合わせる気は無かったのに……。

 だが意思と反し口は止まらない。


「……わからないんです。園田さんにはわたしを手伝うメリットはない。それはあの子自身わかっているはずなんです。なのに、それでもあの子はわたしを助ける、なんて」


 北条には神谷が何のことを言っているのか半分も理解できなかった。当たり前だ。細部をぼかしにぼかしているのだから。

 だが、唇が色を失うほど噛みしめる神谷の姿には感じるものがあった。怒りではない。さりとて悲しみとも言えない。そこにあったのは深い困惑だった。


 北条から見て、正直園田はそこまで印象が強いとは言えなかった。気は優しいとは思うが、いつも何かに怯えているような女の子だと記憶している。北条自身も怖がられているのか、避けられているような気さえするくらいだ。だからこれまで彼女についてあまり知ることは出来なかった。


 だがそんな子が「助ける」と、そこまで断言するとなれば――それほどの『何か』があったのだろう。それはおそらくだが、目の前の神谷と言う少女に起因するものだ、と考えた。


「それをひとりでやらなきゃいけない理由は何だ?」


 その問いに神谷は何度か逡巡した後、口を開く。かなり言葉を選んでいるというのが見て取れた。

 表立って話せないようなことなのか。北条じぶんには話せなくて園田には話せるのか、と思うと少しばかり胸の奥が疼くが、それは個人的な感情だと北条は押し隠す。


「ええと……その……不利益、があるかもしれないからです。失敗すればそれは免れない……」


 そこまで言うと、神谷はぶるりと身を震わせる。

 何かを怖がっている? 

 そう思うが、そこまでは話してくれないだろう。話す気がないからこそ隠しているのだから。

 不利益、という言葉も引っかかる。おそらくかなり遠回しな表現を使っているのだろう。そうでなければここまで取り乱すことは無い。


 だがそれでも少し思うことはある。何もわからなくても、悩んでいる子どもにかけてやる言葉を北条は持っていた。

 僅か先を行く人生の先輩として、神谷を導く義務がある。

 

「例えばそうだな、光空が大変な状況にあるとして、苦しんでいるとして、だとしたらお前はどう思う?」


「助けたいって思います」


 北条が投げかけた簡単な問いに、神谷は即答する。


「だよな。でもそうして伸ばした手を振り払われたらどう思う?お前には関係ないって拒絶されたらどう思う?」


「悲しい、でしょうね。……でも、本当に園田さんは関係ないんです。わたしを助けたって、なんのメリットもない。なのにどうして助けようって思うのかがわからないんです……」


「それは嘘だろ」


「え?」


 何を言ってるのかわからない。そんな思いを隠そうともせずに神谷は首を傾げ、困惑する。

 そんな彼女に、北条は畳みかけるように言葉を重ねる。


「わからないなんて嘘だ。わからないわけないだろ」


「いや、でもほんとに」


「だってお前、今さっき言っただろ。助けたいと思うって」


「……!」


「見返りがなくたって、誰かを助けたいって思う。そういう時もある。人間、損得勘定だけじゃ動かないんだよ」


「でも、わたしがそう思うのは陽菜が相手だからで……」


 なおも食い下がる神谷に、北条は苦笑する。

 そういえば『アイツ』もなかなかに頑固な奴だったなあ――そんな郷愁を抱いて。


「だから、園田にとってお前がそういう存在だってことだろ」


「なんでかなあ……あの子、どうしてわたしのことそんなふうに思うんだろ」


「理由なんて大した問題じゃない。お前だって光空を大切に思う理由、説明できるか?」


 その言葉に神谷はしばし黙考する。

 きっと理由を付けるだけなら簡単だと思う。


 自分に関わり続けてくれたから。

 慕ってくれていたから。

 仲良くしてくれているから。

 幼馴染だったから。


 あげればキリがないけれど、それらは理由であって理由でない。『それ』を言語化するのはきっととても難しくて、今の未熟な神谷には無理だった。

 しかしそれでも。気持ちだけが、感情だけがこの胸の内にあるということはわかる。


 いつだって自分を見つめる園田の表情は真摯以外のなにものでもなかった。そこに虚飾は欠片も含まれていなかったように思う。

 自分にとって光空が大切なのと同じように、園田にとっての自分がそういう存在なのだとしたら。


 もうぬるくなってしまったお茶をごくごくと一気に飲み干す。


「北条さん。話聞いてくれてありがとうございました」


「ああ」


 端的なやり取り。だがそれだけで理解する。

 これから取るべき行動も。神谷がどうしたいのかも。

 

「じゃあ行ってきます……あ、そうだ」


「どうした?」


 ドアノブに手を掛けて、今まさに寮長室を出ようとしていた神谷が振り返る。

 神谷は憑き物が落ちたような表情で、


「北条さんが北条さんでよかった。北条さんがいてくれてよかったです」


 今まで見たことも無いような穏やかな笑顔を残し、軽やかな足取りで部屋を出ていく神谷。

 それを見た北条はしばらく呆然としたかと思うと、




「…………なあカガミ。お前の子どもはお前がいないうちに成長してるぞ」


 だから早く帰ってこいよ、とここにいない誰かの名前を呼んだ。

 

  


 

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