ガールズ・ゲーム

草鳥

一章

1.喪失した少女

 

 わたしが物心ついたころ、両親は既にいなかった。

 母の知り合いを名乗る『カガミ』という、白い髪が印象的な女性がわたしの親代わりだった。

 優しく、そして強い女性だった。できないことは無いように思えたし、わからないことは聞けば何でも教えてくれた――ただひとつを除けば。


「カガミさん、わたしのパパとママはどこ?」


 友達からよく聞く『両親』というものがわたしには何故いないのか。そう尋ねるといつも彼女は決まって、


「……ごめんね」


 そう呟いて、困ったような、悲しそうな笑みを浮かべるのだ。その顔を見るのが嫌で、歳を重ねるにつれてわたしは両親について聞くのをやめた。

 周りを見回しても親のいない子はいなかったし、自分が、いわゆる『普通の子』とは違うことには気づいていた。


 だけどそれが嫌だとか、悲しいなんて気持ちはなかった。寂しくもなかった。

 カガミさんがいれば十分だったから。


「でもきっと、わたしがあなたを立派に育てて見せるからね」


 そう続けたカガミさんの決意に満ちた笑顔――しかし同時に、確かな悲しみを含んだ表情をよく覚えている。

 カガミさんほど綺麗なひとを他に見たことがない。心も身体も。わたしの手を引いて歩く、その笑った横顔が、他の何にも代えられないくらい大好きだった。

 このひとがいれば他に何もいらないと、本気でそう思っていた。

 

 その時のわたしは、いつまでもカガミさんと一緒だと無邪気に信じていたのだ。

 

 

 



 神谷沙月かみやさつきは目を覚ます。

 高校の学生寮の自室。胡乱うろんな目つきで、変わり映えのしないその景色をしばし眺めてから起き上がる。

 部屋に備え付けられた洗面所で歯を磨き、顔を洗う。おもむろに鏡を見つめると、見慣れた自分の顔と目が合った。

 低い背丈に、顎下あたりまで伸びた黒髪と生気の感じられない髪と同じ色の瞳。見ていられなくなって自然と目線が下がった。


「……はあ」


 小さくため息をつき、洗面所を出た。



 階段を降り、一階の食堂に足を運ぶ。

 この寮はかなり規則が緩い。決められていることと言えば入浴の時間と、門限と、夜中に騒がないということくらいだ。

 ここで生活している生徒は10人余り程度で、対して大人は寮長が一人だけ。規模はかなり小さいと言えるだろう。

 食事は外で食べるか、買ってくるか、もしくは寮にある食材を自分で使って作るか、だ。

 ここでの生活はほとんどが生徒の自主性に任されている。


 朝早いこともあり、食堂にはほとんど人がいない。

 眠そうにスマホをいじりながら菓子パンにかぶりつく一つ上の先輩――だったような気がする、特に面識はない――を横目に、神谷はキッチンに足を踏み入れた。


「えーと……卵が余ってるからこれでいいか」


 冷蔵庫から卵とコッペパンをひとつずつ、ついでに牛乳パックを取り出す。

 神谷は基本的に食事は自分で作っている。寮のもので作れば実質タダだから、というのが大きい。特に金銭に困っているわけではないが、余分に出費してまで外に食べに行こうとは思わなかった。


 料理はそれなりに好きだった。昔あの人に教えてもらったから――そこまで考えて、神谷は眉根を寄せる。

 思い出したいことではなかった。幸せだったころの自分なんて。



 そんなことを考えながらも、慣れた手が勝手に完成させたスクランブルエッグを、切れ込みを入れたコッペパンに挟み、雑にケチャップをぶっかけた。

 スクランブルエッグに使って余った牛乳をコップに注ぎ、パンと一緒に運びテーブルに着く。


「いただきます」


 律儀に手を合わせて、パンを手に取り、口へ運ぼうとすると、


「おっはよう沙月! 今日も元気ないね!」


 快活そうな少女が、明るい色のポニーテールを揺らしながらそんなふうに話しかけてきた。


「おはよう陽菜ひな。ひとこと余計だよ」


 とりあえず、といった感じで一瞥してそう返す。

 彼女は光空陽菜みそらひな。神谷の小学生の頃からの幼馴染……を自称している。神谷はよく覚えていない。昔の友人にこんな少女はいなかったように思う。

 一年前、入学してすぐ親しげに話しかけてきたが、神谷には全く心当たりがなく「だれ?」とつっけんどんな返しをしてしまった。


 そんな態度をとった神谷に、光空はそれからもめげずに関わり続け今に至る。

 これでもかなり態度は軟化してるんだよ、というのは光空の弁。


「沙月はいつも朝早いねえ」


 そう言いながら持参したコンビニ袋からガサゴソと光空が取り出したのはカレーだった。

 朝カレーマジか、重くないの……? と心中で呟きながら神谷は、


「勝手に目が覚めるんだよ。そういう陽菜は弱いよね」


「いいなあ。私、目覚まし時計いくつ使ってもぜんぜんダメ」


「知ってる。毎朝わたしの部屋まで目覚ましの大合唱が聞こえてくるし。それでこの前寝ぼけながら全部止めてそのまま寝落ちて遅刻したのも知ってる」


「お恥ずかしい……」


 へへへ、と照れたように笑いながら先がフォークのように割れたプラスチックのスプーンでカレーを口に運ぶ。


「朝練ないの、陸上部」


「もぐもぐ……んー? 今日はないよ。おかげで朝から沙月の顔見られてラッキーだったね!」


「……………………それはよかったね」


屈託のない笑みに、幾ばくかの沈黙の後感情のこもらない言葉を投げ返す。二人は一年前、高校で再会してからずっとこんな感じだった。


(……なんで嘘つくかな)


 コッペパンを咀嚼する神谷は、昨日クラスメイトの陸上部が「明日朝練あるの!? むりむり、無理なんだけどー」などと話しているのを思い出していた。

 つまり、今楽しそうにカレーを頬張るこの光空という少女は部活を欠席してここにいる、ということだ。

 これが初めてではない。彼女はちょくちょく朝練をサボって朝食を食べる神谷の元にやってきていた。

 わたしと親しくしても意味なんてないのに、と神谷は自嘲とわずかばかりの憐憫を含ませた視線を投げる。


 そんな神谷の意志が伝わったわけではないだろうが、光空は気まずそうにしながら、あー、だのうー、だの言いはじめ、しばらくそんなことを続けたかと思うと意を決したように口を開いた。


「カガミさんがいなくなってから、ちょうど一年くらいだよね」


「……それが?」


「沙月、ずっと元気ないしさ。私心配なんだよ」


 すう、という呼吸音。

 光空がその音の元、神谷を見ると――その瞳はどろどろと濁り、一片の光も宿してはいなかった。

 びくりと光空の肩が震える。


「やめて」


「…………っ」


「元気なんて、出ないよ」


「…………ごめん」


 お互いに押し黙る。光空は沈痛な面持ちで、所在なさげに指で前髪を引っ張る。

 対して神谷は完全に無表情だった。話しながらも食べ進めていたパンの最後の一口を牛乳で流し込む。


「ごちそうさまでした。陽菜も遅れないようにね」


「ぁ……」


 席を立つ。後ろから聞こえたか細い声は無視して自室へと足を向けた。



 自室に戻った神谷は、緩慢な動きで学生鞄に教科書を黙々と詰める。現代文、数学、英語、そこまで入れたところで体育があったことを思い出し、昨夜のうちに準備を済ませておけばよかったと後悔する。体操服はかさばるから面倒だ。


「……くそ」


 イライラする。

 自分の心の柔らかい部分に踏み込まれたからだとか、痛ましいものを見るような気遣わしげな目だとか、そういったことが気に入らない……というわけではない。それよりも、光空が未だに自分に関わろうとし続けているのがたまらなく嫌だった。

 伸ばしてくれた手を振り払うような態度を一年も続ける自分に関わるくらいなら、もっと部活に行ってほしいし、他の友人との時間だって大切にするべきなのだ、と。


 あの子が陰で何と言われているかも知っている。

 『光空さん、かわいそう』と。


 あんな子に構うことなんてないのに。

 光空さんは優しいから放っておけないんだ。

 きっといいように利用されてるんだ、などと。


 友人がいない神谷が知っているくらいだ、交友関係の広い光空はそう言われていることを把握していて当然だろう。

 いや、それこそ直接彼女の友人たちから言われているかもしれない。『あの子に関わらないほうがいい』だとか。だが彼女はおくびにも出さずいつもの笑顔で話しかけてくる。

 自分の時間を犠牲にしてまで、なんて負担でしかないのに。


 彼女のことが嫌いなわけではない。むしろ誰とでも仲良くなれるような明朗な性格は好ましいと思うし、部活にもクラスにも自分の居場所を築けているのは尊敬すべき点だとも思う。

 しかし、だからこそ。放っておいてほしいと思わずにはいられないのだ。

 もっと自分を大事にしてほしい。構わないでほしい。


 ほだされたくない。仲良くなんてなりたくない。他人を好きになりたくない。 

 だって、そうなってしまったら、また――――。

 

 かぶりを振り、深くため息をつく。そうすると少し落ち着いた。

 授業に必要なものをすべて詰め終え、テーブルの上に無造作に置かれていた携帯ゲーム機を手に取る。どこを探しても売っていないこれは、カガミが神谷に残したものだった。




 一年前。

 高校の入学式、その当日の朝。

 目を覚まし、真新しい黒のセーラーに着替え、自宅のダイニングを覗いた神谷はいつもと違うことに気付いた。


「あれ、カガミさん……?」


 カガミは毎朝起きたときにはすでに食卓で朝食を用意して待ってくれていた。悠然と微笑みを湛え、『早く食べないと冷めてしまうよ?』などと言って。

 しかしその日は違った。温かい朝食も、カガミの姿も、どこにもなかった。

 

 思えばこの時から嫌な予感はしていた、と神谷は振り返る。


 もしかしてまだ寝ているのかな、と思い彼女の寝室に入るももぬけの殻。焦燥の芽が神谷の心に顔を出した。

 ダイニング。キッチン。トイレ。クローゼット。ベランダ。

 家じゅう探してもどこにもいない。


 もしかしたら外出しているのかも、と思い携帯にかけてみるもプープーという間の抜けた電子音しか返ってこない。靴箱には彼女の靴が全て残ったままだった。混乱が加速する。


 時計を見る。かち、こち、と規則的に時を刻む針は、八時に差し掛かろうとしている。そろそろ学校に向かわないと遅刻する時間だ。

 だけどそんなことはどうでもよかった。『カガミさんがいない』――それ以上に優先されることなど神谷には存在しなかった。


 リビングのドアを開けると、中央にあるガラステーブルの上に何か乗っているのを見つけた。起きてすぐには動転して気づかなかったものだった。


 それは見たことのない携帯ゲーム機と、【TESTAMENT】というロゴが描かれたラベルの貼られたゲームソフトだった。

 見覚えのないそれをおもむろに手に取ってみると、ゲーム機の下に折りたたまれたメモ用紙が挟まっていた。


 紙を開こうとした手が止まる。

 とても嫌な予感がした。根拠などない。これまでもメモを残して買い物に行ったりすることは何度もあった。ただ、今回は何かが違う気がした。直感的な不安が神谷の胸中に巣食っていた。

 見なかったところで内容が変わるわけでもないのに、開いた瞬間に全てが確定してしまうような気がして、指先が震える。

 だが、このままこうしているわけにもいかない。もしかしたら全て杞憂で、このメモにはただ外出先が書かれているだけかもしれない。


(――――わたしの入学式の日に? こんな朝から? わざわざ?)

(――――そんなことって、ありえるかな?)


 そんな考えを、首を振って追い出す。

 四つ折りになったそれを、震える手で開いてみるとそこには――『さようなら』と。

 急いで書いたのか少し歪んでいる。しかしそれは確かにカガミの筆跡で、たったそれだけが走り書きされていた。

 

「……うそだ」


 息が、止まった。





 玄関のドアを押し開くと、外はざあざあと雨が降りしきっていた。

 傘をさすことすらまどろっこしくて、手ぶらで飛び出した。


 走る。走る。走る。

 豪雨の中、制服で傘も持たずにひた走る神谷の姿は、周囲からは奇異に映っていただろう。だが神谷にはそんなことを気にしている余裕がなかった。あとから思えば、当てもなく人を探すにしてももっといい方法があったように思う。


 だが――カガミがいないという不安に押しつぶされた神谷には、そこまでの考えは回らなかった。


「カガミさん……!」


 その名前を、雨の音に負けないよう必死で叫ぶ。がむしゃらに走り続けながら。

 


 いつしか日は暮れ、あれほど降っていた雨も止んでいた。どこまで走ったのか、全く見慣れない街並みが周りに広がっていた。


 棒切れのようになった脚。濡れ雑巾のようなセーラー服。喉からはもうかすれ声のような何かしか出ない。新品のローファーは、もう同級生のものとは比べ物にならないくらいすり減ってしまっただろう。


 どうしようもない現実にただ泣きじゃくる。神谷の心はもう折れかけてしまっていた。しかし最後の、もしかしたら家に帰ってきているかもしれないという一縷の望みを託して、ろくに動いてくれない脚を引きずるように自宅を目指す。


「カガミさん……」


 神谷が困ったとき、いつだって助けてくれたその人の名前を呼ぶ。

 滲んだ涙を零さないように夜空を見上げても、月は雲に隠れて見えなかった。




 這う這うの体で帰路をたどり、家にたどり着いた神谷が見たのは、出るときと何も変わらないもぬけの殻だった。


「いない、の」


 呆然と呟きながら、よろよろとした足取りで廊下を歩く。

 寝室を見る。小さい頃、枕元で絵本を読み聞かせてくれたことを思い出す。


「カガミさん」


 キッチン。無理を言って一緒に料理を作らせてもらったことを思い出す。


「カガミさん」


 ダイニング。ここでいつも二人でご飯を食べていたことを思い出す。


「カガミさん」


 リビング。テレビを見ながら他愛のない話に花を咲かせていたことを思い出す。


「カガミ、さん……」


 すがるようにカガミの痕跡を追い求めて家を徘徊する。

 だけどもう、彼女はいない。

 神谷にとって、彼女は全てであり人生の指標だった。当時多くいた友人たちとだって、比べるべくもない。誇張抜きにカガミさえいればいいと、他には何もいらないと、そう思っていた。

 だけど。


「う、あああっ……! ぅぐ、うううう……」


 いなくなってしまった。

 後から後から溢れる涙を拭うことすら出来ずにうずくまる。


 わけがわからなかった。『カガミさん』はいつもそばにいてくれて、これからもきっとそうだと信じていた。当たり前の日常が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

 去来する壮絶な喪失感に思わず胸を掻きむしり、ひたすら嗚咽する。

 なんで、なんで、と潰れた喉でひたすらに問いを投げかけるも、それらは全て虚空に消える。


 いつも神谷の問いかけに答えてくれた彼女は、もういない。

 こうして神谷沙月という少女は、たった一日で生きる意味を見失った。



 それから神谷はカガミを探すのをやめた。自分で見つけられないなら、公的機関に届け出るなど――つまりは大人の力を借りるという考えもあった。しかし、仮に見つかったとして。再会できたとして。

 

 『彼女がそれを望んでいなかったらどうする?』

 『自分は捨てられてしまったのではないか?』


 そんな考えが頭をよぎり、そのたびに身動きが取れなくなる。

 拒絶されてしまったらと思うと胸が引き裂かれるような痛みを感じた。

 それに――後から振り返れば兆候はあったように思う。一人になった神谷が生活していくための様々な手続きはもう済ませてあった。高校では寮に入る、というのもその一環だったのだろう。

 

 しかし、そんなことはどうでもよくなっていた。

 お腹が空けばご飯は食べるし、眠くなれば寝る。別に死にたいとか、そんなことまでは思っていない。


 だけどもう、生きる意味がどこにもない。




「やめやめ」


 回想を打ち切り、ゲーム機を鞄に詰める。あの日、彼女が残してくれたもの。認めたくはないが、無意識に神谷はそれを形見のように思っていた。

 鞄を肩にかけ、部屋を出て一階に降りる。玄関で靴を履いた神谷はそばにある寮長室を見るが、誰もいなかった。そういえば今日は朝早く出ると言っていたな、と思い出す。

 いつものつまらないルーチンワーク。なぜ毎日真面目に登校しているのかもわからない。以前と同じ生活を続けていればカガミが戻ってきてくれることを期待しているのだろうか。

 自分で自分がわからなかった。


「いってきます」


 今日も一日が始まる。

 神谷にとって空々しく、希薄で、何の意味もない一日が。




 ――――しかし。今日この日こそが、彼女の運命を大きく変える一日となる。

 


 


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