第十八章 戦後の前田家【孫たち】
ひとみ 高校1年(昭和44年生まれ)
その日は、秋も深まる晴れた日曜日でした。今日は、手作りのプリンを持って、町田のおじいちゃんの家に行こう、と思いつつも、明日の中学最後の遠足ということがふらふら頭に浮かび、髪なんかも切りに行きたいし、お菓子なんかも買わなくては―。でも、何かが私の心を引っ張って、「行かなくちゃっ。」という行動を起こさせたのです。今思うと、おじいちゃんの、魂が私を呼んでいたのでしょうか。
ちょうどその日は(従妹の)くみちゃんも来ていました。
町田の家に着くと、すぐさま、おじいちゃんの寝ている部屋に行きました。障子と、襖に閉ざされた、一番の奥の部屋のベッドの上で、じっと天井を見ていました。「おじいちゃん、ひとみです。こんにちは。」するとおじいちゃんは、すーっと瞳をこちらに向け、「おーぅ、きたか。」と言っているようでした。
顔なんてもう痩せ細り、白い肌は、なんとなく青白くも見えました。だけれど、
自分の目にうつるおじいちゃんが、私には信じられず、また、信じたくありませんでした。昔、よちよち歩きの私をおんぶして、「公園まで散歩するか。」と言って、つれていってくれたり、たこの上げ方を教えてくれたり、戦争のことなど話してくれたり、おじいちゃんのとなりで寝ると、昔話をしてくれたこと―、ああ、どうして!
「おじいちゃん、プリン作ったの。持ってきたの、どう食べる?」と聞くと、おじいちゃんは「うん」と合図しました。
スプーンに少しずつ、ゆっくり、おじいちゃんの口に入れてあげました。
おじいちゃん、私が小さい時、よく熱を出して、渋沢まで来てくれて、みかんやら、何やらいっぱい持ってきて、「ひとみだいじょうぶか」と言って、ずっとそばにいてくれたおじいちゃん。そんな優しいおじいちゃんだから、私は、うれしくて、うれしくて、風邪なんか、どこかへ行っちゃうぐらい嬉しかったのを思い出します。だから今、おじいちゃんに、できるだけのことをしたかったのです。だからずっとそばにいたかったんです。
ちょうどその頃私は受験生の真只中、やっぱり机に向かうと、「あー受験かぁ、高校かぁ」なんて色々考えて、焦ってみたり悩んでみたり。その上受験生に向かって言う言葉なんて、「どうだ、頑張ってるか。どこの高校行くんだぁ」とまあ、みんな同じだから、私の方も「えー、頑張ってますよ」と作り笑い。やっぱりこの日も、そんな会話がおじいちゃんの枕元で、通晴伯父さんとなされていました。すると眠っていたと思っていたおじいちゃんが、すーっと人差し指を上げました。
「えっ何?」びっくりして、一体何を指しているんだか分かりませんでした。
すると通晴伯父さんが、
「もしかすると、あれをひとみに見てほしいのかな」
おじいちゃんが指したものは、壁にかかった福沢諭吉の人生訓で、はっきりした言葉は思いだせませんが、人生、一生持てる仕事を持つこと―(※)。
そのことをおじいちゃんは私に言いたかったのです。おじいちゃんはあんな体になってもなおかつ私のことを、私がこれから進む人生のことまで考えてくれているなんて―。
ありがとう、おじいちゃん。そう感謝しながら、おじいちゃんの枕元で、くみちゃんと、声を出して読みました。この思いが忘れないように…。
そして、もう外の太陽が山並みに隠れるころ、「おじいちゃん、もう帰るからね。また来るからね」そう言うとおじいちゃんが、すーっと手を出してくれました。私はすかさず両手で力いっぱいあく手しました。くみちゃんも。
そして、「じゃあ、さよなら」そう言っておじいちゃんの目を見ると、しっかりとした目で、私とくみちゃんを見つめています。まるで私たちの姿を忘れないように、目に焼きつけている―。その視線は、帰る私の背中にいつまでも感じました。
そして帰りの電車でもそのことが頭に浮かびながら、もう太陽がすっかり沈んだ外を眺めていました。それがまさか、おじいちゃんと最後のお別れだとは思いもしませんでした。
おじいちゃん、私高校生になりました。毎日部活に明け暮れ、トランペットに青春を燃やしています。ちょっとオーバーかな。将来のことは自分でもまだよくまとまっていないけど、悔いのない、おじいちゃんが最後の最後に教えてくれた、一生できる仕事につきたいと思っています。だからおじいちゃん、見ていて下さい。おじいちゃん、ありがとう。
※ 福沢諭吉心訓 「世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です」
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ひろよし (中学2年 昭和47年生まれ)
夏か冬になると小さい時から、町田の家にみんなで行きました。
小学校1年生くらいの時、おじいちゃんといっしょに寝たのを覚えています。そんなとき、いつもおじいちゃんは、昔話やおもしろい話をしてくれました。
いつだったか僕の誕生日プレゼントを持って来てくれた時、竹馬の練習をしていたら、おじいちゃんが乗り方を教えてくれて、そのうえ竹馬の足を修理してもらったことがありました。あのころは、まだ元気だったなぁとなつかしく思います。そんなやさしいおじいちゃんがいつも僕のそばにいてくれるといいなぁと思ったことがありました。
お母さんが話してくれたことだけど、お母さんが、4才ごろ防火水そうに落ちたき、偶然おじいちゃんが丁度庭に出ていて、落ちた瞬間自分がけがをしていたことも忘れてとびだしていき、お母さんをたすけたそうです。
僕はその時おかあさんは、おじいちゃんに助けられなかったら、いまこの世にいないはず ! それを思うとおじいちゃんに感謝しています。
その他おじいちゃんの思い出は、いっぱいあるけれど一番思い出に残るのは、やはり江ノ島にみんなして行き喜寿の祝いをしたことです。そのときのおじいちゃんのうれしそうな顔が思い出されます。
5年のときの作文で「一枚の写真から」という内容で、写真はその喜寿の祝いの写真にしました。作文の中で「おじいちゃんおばあちゃんは、いつまでも長生きをして今度又集まるときは金婚式かな?みんないっしょに集まれるといいなぁ。」と作文に書いたけれど、去年の10月におじいちゃんは天国に行ってしまった。とてもさびしく思いました。
きっと天国から僕達の成長を見守っていてくれると思います。
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ひでき (中学2年 昭和47年生まれ)
昨年、祖父が亡くなった。いつも遊んでもらっていた。将棋をしたり、相撲をしたり、本を買ってもらったり。それから、おんぶして、病院に連れて行ってもらったりした。小学生のころは、月に、3・4回行っていた。行けば、遊んでくれたし、一人で行ったりすると、お金もくれた。将棋も、行ってすぐ、3・4回した。 最初は祖父が王将と歩兵3つでやっていた。僕は、それでも、勝てなかった。どうしても勝てないので、勝ち王将、金銀将2つずつと、歩兵9つでやった。とうとうそれは卒業できなかった。それほど、強かったのだ(僕が弱いのかも、しれないが)。しかし、今でいえば、最後にやった将棋では、何と、勝ってしまったのだ。ぼくは、うれしい気持ちと、おかしいなという気持ちがした。
それから半年ぐらいたってから、祖父は、亡くなった。初めて聞いた時は、うそだと思った。その日、父が早く帰ってきた。車で祖父の家に行った。ほんとうだった。やせていて、いつも赤かった鼻は、赤くなかった。
ついこの間までは、この世にいないと言う気はしなかった。このごろ、やっとそう思えてきた。僕は、小さい子は可哀想だと思う。僕は、ずい分遊んでもらったからいいけれど、小さい子は、ほとんど遊んでもらってないからだ。僕は、早く生まれてよかったと思う。でも、もう少し生きていればなと思う。
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いくこ (小学6年 昭和48年生まれ)
おじいちゃんのそばはいつもあたたかでした。たいくつなんてしたことありません。現実にある、あらゆることを物語のように話してくれることもよくありました。もう3年も前になりますが、おじいちゃんが話してくれた中で、今でもちゃんと覚えている印象深い話があります。それはツバメの話です。
渡り鳥のツバメは冬が近づくと、あたたかい国へ行くために長い旅をする。
人間が数分で、こたつやストーブで体をあたためている時、ツバメは長い長い旅をしている。
渡り鳥は海を渡る。全部の鳥が無事行き渡れるだろうか。長旅には危険がひそんでいる。
人間はストーブを使う。カチッ。旅も何もない。
ツバメにはしずむ夕日が見える。
人間は何も見えない。
人間は大きくないから。
おじいちゃんがこの通り話したわけではありませんがこのようなことをくわしく物語のように話してくれました。
私は何もかも忘れたように、ただじっとおじいちゃんの話を聞いていました。聞いている間、私はツバメでした。美しい朝焼けも見えたし、広い海も見えました。おじいちゃんは話を続けます。
その次の年はおじいちゃんの喜寿のお祝いがありました。私は、前におじいちゃんが語ってくれたツバメのことを作文にしておじいちゃんに読んであげました。おじいちゃんがとても喜んでくれたので、その作文の原稿もあげました。
そのお祝い以来おじいちゃんの家に行くとおじいちゃんは
「これ、イッコが書いたのだぞ。」
と言い私の書いた作文を出して読んだり、読んでもらったりするようになりました。けれどそれはだんだんなくなりました。おじいちゃんが弱まってきたからです。そして…
昨年の十月おじいちゃんが亡くなりました。本当にショックでした。
渡り鳥。
おじいちゃんは鳥になって天国へ行ったのです。きっと朝焼けを見て行ったでしょう。
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ともお(小学3年 昭和51年生まれ)
おじいちゃんといろいろあそんだ。あそんだことは、しょうぎ、五もくならべ、にらめっこ、そのほかいろいろあそんだ。雨のふったあとは、かたつむりをさがしにいった。かたつむりをみつけたのは、だいたいおじいちゃんでした。そして、そのかたつむりは、すごく大きいかたつむりでした。なんといっても2センチ5ミリメートルいじょうありました。毎日おじいちゃんばっかりかたつむりをみつけてたからくやしかったです。
にらめっこのときもすぐおじいちゃんが、おもしろい顔をするから、ぼくは、すぐわらってしまいます。どうして、そんなにおもしろい顔ができるのかふしぎです。いままでにらめっこをやった数は、15回ぐらいです。だいたいおじいちゃんが、かっています。ぼくは、くやしいからいつもおじいちゃんにまけないくらいの顔を考えていました。でも、おじいちゃんにはかないません。どうしてそんなにおもしろい顔ができるのかなとぼくは、考えてみました。やっぱりおじいちゃんもぼくみたいにおもしろい顔をかんがえているのかなとおもいました。
五もくならべのときもぼくが、四・三になって、
「やったぁ!おじいちゃんにかった!」
とよろこんでいいました。でもおじいちゃんは、四・三の四をとめて四・四です。やっぱりおじいちゃんには、かなわないと思いました。ぼくは、おじいちゃんに、五もくならべをかとうといっしょうけんめい、けんきゅうしました。そして、おじいちゃんのいえにいってまた五もくならべをやりました。いえでいろいろけんきゅうしたから、おじいちゃんも、
「お!とも、強くなったな。」と言いました。それでもおじいちゃんには、かないません。やっぱりおじいちゃんは、強いなぁと思いました。
おじいちゃんていうのは、おもしろくやるところは、すごくおもしろくて、しんけんにやることは、すごくしんけんにやっています。ぼくは、そういうタイプがすきです。だからおじいちゃんも大すきでした。
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みほ (小学3年 昭和51年生まれ)
わたしは、お父さんに、おじいちゃんの話を、聞いて、おじいちゃんは、むかし、とっても物を作るのが、じょうずだったと思います。みほが、4才のころ町田のにわで、とてもきれいなちょうちょ見つけると、おじいちゃんが来て、くまでで、つかまえてくれました。とっても、うれしかったです。それと雨上がりの日に行くと、いつも、でんでん虫を、とってくれました。町田に、おかしを、買いにいったようなきがします。
病院に入いんした時、みほは、絵の具で、かびんに花の絵を、書いて、おみまいに、いきました。その絵をずっと、かべにはってくれていました。そのころは、体のぐあいが、悪いのであまりしゃべりませんでした。少し元気になったので町田の家に、帰ってきて、みほは、うれしかったです。おじいちゃんは、死んじゃったけど、まだ生きているような気がします。
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