第十六章 戦後の前田家【三男・孝】
三男 孝
父の生まれた時代から現代に至るまで世の中が移り、技術の進歩があり、また父の性格はこれら外的な事柄によっても影響を受けてきたのでしょう。
そこで私は父と物とのかかわりについて書いてみることにしました。そして父の中にあるエンジニアとしての物の見方や考え方を探りだしてみたいと思います。
勿論、父は百姓ですが、百姓は立派なエンジニアなのです。父をエンジニアとすることによって私と同種の人間として見ることができ、私の得意とする話ができます。
父はなかなかの好奇心の持ち主でした。父の口癖に、「きたいよなぁ」(土地言葉で、不思議だなぁ)という言葉が非常に多かったように記憶しています。
明治39年生まれの父は、町田の田舎の百姓の子として、理科や科学の勉強などは全くの無縁であったに違いありません。そんな父が、よく私に星の話や飛行機の話をしてくれたことを覚えています。話の最後は「きたいよなぁ」。
明治時代といえば、文明開化、電気、鉄道、電話、飛行機など、あらゆる西洋の文化を国をあげて導入した時であり、父の時代には一般庶民の間にも広がってきた時です。
現在(1985年・昭和60)、ハイレベルな技術を駆使して作られたものとして、宇宙空間を旅するスペースシャトルを見ることができますが、父が子どもの頃見た電灯や鉄道は、それ以上の高度なものに見えたに違いありません。
町田の実家には、大正15年に電気がきたそうです。父が十代の頃です。
「電灯が点いた時、村中の子どもが一軒一軒回って、どこの電灯も明るいな、まるで昼間のようだ、と歓声を上げたもんだ」と、その時の様子を父は話してくれました。
祖父を13才で亡くし、父親も17才で亡くした父は、一家中心の働き手として昼も夜も働いたと聞いています。
大正14年から昭和2年にかけて小田急線の開通工事があり、玉川学園のトンネル工事に、父も現金収入のため働いたそうです。現在町田の家にある柱時計は、この時に得た収入の一部で買ったということです。
父は若い時から一家の大黒柱として働いていたこともあり、農業に対する考え方をしっかり持っていたようです。
旧式の農業ではだめであり、近代的農業をしなければいけないという認識があり、近代的な農機具(足踏み脱穀機、籾摺り機)を次々購入しました。近代化のための資金は、梨や柿の果物を町で出店を出し売って得ていたようです。父は当時のことを、「農業学校に行ってる友達と、農業の研究をしていたんだ」と、言っていました。
町田の家はこの頃そう豊かであったわけでもないのに、父は食べるためだけの農業では飽き足らず、自己の力を試したかったのでしょう。この研究課題の一つにナスの栽培があったと聞いています。
父の自慢話の中に、「村の中で一番先に」という話がいくつかあります。
私が一番印象に残っているのは、つるべ式井戸を手動ポンプ式にしたことです。父の話では、伝染病が起こると村中次々と広まって行ったようで、原因は井戸にあったそうです。父の時代には伝染病が大流行したようで、なんとか防ぎたいと思ってポンプを入れたのでしょう。このポンプは三軒家で使っていたそうです。
父は衛生面でも進歩的な考えを持っていたのでしょうか、それとも又、この頃そろそろ嫁さんをもらう時期にきており、新しい家を建てるのは無理だけれど、せめて井戸くらいは村一番のポンプにしようと考えたのでしょうか。そして、昭和11年に母と結婚しています。
長男、長女と生まれた頃から戦争が始まり、父も昭和18年までに二度召集されました。
父は私によく戦争の話をしてくれました。私は小学校4年の頃、野良でお茶を飲みながら、
「孝、大砲というものはなぁ、あの山からあそこの山ぐらいの距離を撃つものでな」などと話始め、2時間くらい話をしてくれました。しかし私にはなかなか理解できず、間違えた返事をすると、
「馬鹿、何を聞いているんだ」と叱られることがしばしばありました。
父は陸軍に入り、伝令司令部隊の配属で、馬を使って中国の満州地方を走り回っていました。そして馬によって何度か苦境を脱出することができ、馬を最良の友とも劣らぬ程大切にしていたそうです。父はどこでも徹底して何でもやるようで、馬の扱い方に関しても、たいへんな自信を持っていました。
私はある時、父にこんな質問をしてみました。
「父ちゃん、どうしてよく戦争の話をするの」
父は「生死を賭けて毎日を送った日は生涯忘れられない。しかし戦争ほど悲惨な事はない。これからもしも戦争が起きそうになったら、命を賭けてでも防ぐつもりだ。おまえらには戦争はさせない。」と、鋭い目で話してくれました。
父の口癖には、「最後まであきらめるな」という言葉と、「どんなに苦しくても明日がある。朝になればお天道様は必ず上がる」という言葉もありました。戦争によって得た貴重な言葉だと思います。
戦地より帰ってきた父は、田畑を見て、また一から出直すか、と思ったそうです。そして父は一人で田畑を元のように耕しました。戦後、前田家は大変貧乏であったと聞いています。しかし、昭和25年生まれの私には貧しかった記憶は残っていません。
私が物心ついた頃は、町田も開発が進み、都心に近いこともあり次々と住宅が出来始めていました。
この頃ようやく余裕が出てきたのか、石油発動機、それを使った脱穀機などを購入しています。
私はよく父の後を追っては、畑や田んぼに行って遊んでいました。父はそんな場所でも、何に対してもよく話をしてくれました。
ある時父が私を呼ぶので行ってみると、蛇が蛙を飲み込もうと蛙を睨みつけていました。私と父はしばらく蛇と蛙の様子を観察していましたが、父は「蛇のあごの構造を良く見ろ」と言ったりして、詳しく解説してくれました。
父から学校の勉強を教わった記憶はありませんが、自然の植物や生物の話をよくしてくれたのを覚えています。父は話ながら父自身も不思議がり、話の最後は「きたいよなぁ」で終わりました。
私の学年が進み、父と一緒に風呂に入った時など、2人の間で不思議であったことを解明し説明すると、「そうか。でもな…」とさらに私に興味を持たせるようなことを言ったものです。
私は小学生の頃から、電気、機械に興味があり、父と話しても負けないくらいでした。
父は石油発動機を動かす時は必ず私を呼びつけ、起動後の水や油の補給は私にさせました。
すでに書きましたが、父は農業に関しては常に新しい試みを好み、次々と新しい作物を作っていました。
昭和35年、54才の時には、農協より奨励のあったビニールハウス栽培を、村でただ一人始めています。「俺は大した教育も受けてないが、作物を作ることならば大学教授にでも話すことができる」
子どもの頃の私は、農業にはまったく興味がなく、近所に来ていたブルトーザを一日中見ていたようです。父はそんな私を見て、当時開発機械を操作する人が不足していたので、その操作技師にしようと考えたそうです。そして意図的に科学の話をよくしていたそうです。私はそのせいか工業高校へと進んで、電気の勉強をしました。しかし種々の技術を身につけていった父のチャレンジ精神と好奇心は、私の中にも引き継がれているように思います。
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