第十章 大怪我、東京大空襲 昭和20年(1945)

 俺の勤めている全購連も、人手がどんどん減っているし、もしかしすると山間地方へ移転してしまうかもしれない。そんなことを考えながら工場の交替点検をしていた1月24日の夕方、間もなく終わるので第一工場の窓をふと開けたら、渡り廊下の向う側の倉庫窓が一か所閉まっていない。どうも若い守衛がいなくなると警備が不完全だ。軍隊だったら「うっかりしました」と言ったって許されない。今夜は俺が閉めて、あさって当番が出社したら厳重に注意しよう、と決心し、第一工場のドアから渡り廊下の屋根に移り三歩ほど足を運んだ時だった。突然左足がズボッと屋根瓦を踏み抜き、あわてて右足に身体を傾けたら、今度はバリバリと五、六枚の瓦が全部砕けて、俺の全身は叫ぶ暇もなく約三間(約5m40㎝)下のコンクリートの床に叩きつけられた。

 痛いという感じはなく、身体中が猛烈に熱かった。畜生、うす暗いのでよく見えなかったが、渡り廊下の屋根はトタンだけれど、倉庫は薄いスレートだった。そう気づいたものの後の祭りで、腰と右足に感覚がない。歩けそうもないから誰かを呼ばなくてはならないが、だだ広い倉庫の奥から入口までは十二間(約22m)もあって、とても聞こえそうもない。窓の外は暗くなって、明日の朝まで見回りもないはずだ。ままよ、今夜はここで夜を明かそう。そう思ってそのままうずくまったが、しばらくすると激痛と寒さが襲ってきた。このままひと晩過ごしていたら死んでしまうだろう。いや、死んでたまるか。震災でも戦地でもかすり傷ひとつしなかった俺なんだ。子ども三人の父親が屋根から落ちたくらいで死んだら、強情者の名が泣いてしまう。

 まわりを見回すと、肥料を入れるカマスが積んであるのが目に入った。うなりながら這ってそこまで行き、どうにかカマスをコンクリートの上に敷いて身体を横たえた。ところが今度は全然起き上がれない。寒さだけは多少しのげるから、夜の明けるのをじっと待つことにした。

 朝方、小用をしたくなったが動けないので、そのままやってしまった。情けないが仕方がない。天窓から朝日が差し込んできた頃、朝回りの当番の靴音が聞こえたので助けを求めたら、戸を開けて飛び込んできた。

大怪我に驚いて人手を連れに走り出した。その後ろ姿を見ながら安心したせいか、眠り込んでしまった。

 気がついたら病院の治療室だった。

 横浜市内浦舟町の十全病院といい、全購連の指定病院になっているところだった。午後診療の結果を聞かされた。「腰部骨折と右足かかと複雑骨折」で、入院六か月、全治2年という重傷だった。

 ショックではあったが、急を聞いてその日の夕方、タキと通晴が駆けつけてきた時は無理に笑顔を見せ、

 「でかいケガしちゃったが、これくらいの怪我人は野戦病院にゃいっぱいいる。春には治るから心配するな」と言ってやった。俺にとっては弱音を吐く方がよっぽど辛いことだからだ。

 しかし、回復は思わしくない。外科の設備が不備なうえに、外科医で手術のできるのは召集されているという。薬だけでは、診断より日数がかかりそうだ。それにタキとお袋が毎週交替で世話しに来るが、遠くて大変なことだ。特に69才のお袋が通晴に連れられて来る日は、あべこべに面倒みてやりたいほど疲れた顔をしている。タキは必ず赤ん坊(正昭)を背負い、四才の和子を歩かせて来るが、病院に来ても俺のことより子どもの世話に追われる有様だ。こんな状態は決して長続きしないだろう。

 さらに決定的なことがあった。

 1945年(昭和20年)3月10日の夜、東京全体がすさまじい大空襲に遭って焼野原となった。

 次は軍港横須賀、そして横浜市が必ずやられる。そうなると病院ごと火だるまになって、その時こそ死ぬだけだ。町田だっていずれは被災するかもしれないが、どうせ死ぬなら家で家族と一緒の方がましだ。考えた挙句、担当医に今月いっぱいの退院を申し出たら即刻受理された。病院の方でも重傷者がいると逆に心配なんだそうだ。

 翌週の月曜日に退院と決まった。歩行訓練の松葉杖を郵送してくれるそうだから、一か月もたてば近くの畑くらい見に行けるだろう。何しろ俺は40才、早く治して子どもたちを育てなければならない義務があるのだ。

 ところで入院中、病院の看護婦に、出征中の体験談を話して聞かせた。若い娘たちだから政治的な点は省いて中国人や満州人との交流のことなどを話したら、笑ったり涙をこぼしたりして毎日聞きにくる。そして俺が食事をしている時には「愛染かつら」の一節を口ずさんでくれた。


 …花も嵐も踏み超えて 行くが男の生きる道 鳴いてくれるな ほろほろ鳥よ 月の比叡を今日も行くぅ

 

 この歌を聞いていると、俺は今まで過ごしてきた40年のあれこれが走馬灯のように頭の中に浮かんでくる。ゆうべは一晩かかって親父が死んでから今までの出来事を振り返ってみた。

 しかし俺は老人ではない。男盛りの40才、家へ帰って怪我を治したら、それまでの遅れを取り戻し、きっと80才までは生きてみせる。そしてその頃は幾人かの孫たちに「お祖父さんの一代記」を聞かせてやるのだ。


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