7.煤煙の魔女
次の朝、ユリーシャ・マーレイは
「昨日よりも、さらに一人減ったか」
ヴァネッサ教授はため息をついて、天井を見上げる。
「どうするかなあ。引き続き、小遠征の対策をやろうと思ったんだが」
「えええ……」
メリーは極度の不安に襲われたらしく、ジェフやエレノアの顔を見回した。
「それって、ユリーシャさん、体調不良ですか……? 小遠征までに戻らなかったら、四人で頑張るんですよね? 私たち、めちゃくちゃ不利じゃないですか……」
「いやー、ユリーシャなら大丈夫じゃないかなあ」
これに対して、エレノアは楽観的な答えを返した。
今朝の彼女は、もう鎧甲冑の姿ではない。ただし、右手にだけ大きな籠手を嵌めている。いくつもの金属板を綴ったような代物で、ひどく不格好にも見えた。
「たまにあるんだよね、ユリーシャ」
エレノアは、その不格好な籠手で頬杖をついた。
「大事なイベントの前とか。気合いが入りすぎて、授業そっちのけで自主訓練しちゃうの。まあ、当日には絶対来るよ。責任感の塊だもん、私と違って」
「――昨夜の様子からすると」
不意に、教室の片隅から声がした。
スリカ・ヤヴォン。彼女の存在感は独特で、声を発するまでそこにいることを感じさせない。今朝も、壁を背にして立っていた。
「ずいぶん思いつめていたようです。《
言い終えると、ジェフに向かって一礼する。それはどうやら、彼女にとって重要な儀式的な仕草であるようだった。
「昨夜――」
その部分が、ジェフには引っかかった。ユリーシャは激怒した様子で部屋へ帰った――その顔を思い出す。
「スリカ。きみは昨夜のことを知っているのか」
「御傍に控えておりました」
スリカは平然とうなずいた。
「万が一、《
「な――な、なんです、それ?」
メリーに肩を掴まれる。かなり強い力だった。
「ジェフさん、昨日、ユリーシャさんと何かあったんですか? なんです? そういうの、私、すごい気になるんですけど! なんでスリカさんだけ知ってる感じなんですか?」
「わからない。勝手についてきた」
「独自に同行しました」
ジェフとスリカの態度には、どちらも似たような平静さがある。そのことが、メリーの何かをいっそう刺激したようだった。
「言っておきますけどね、ジェフさん! 私たちはチームじゃないですか。チーム内で隠し事とか、あれですよ、そう、仲間外れみたいじゃないですか! 良くないと思うんですよね! だから何があったのか、私にも――」
「まあ、そういうのは後に置いとくとして」
ヴァネッサが壁を叩き、注意を引きつけた。
「いま、それやってる場合じゃないんじゃないかい? ほら。小遠征は間近だし。とりあえず退学しないように、できることはやっておいたらどうかな」
「ああ」
思い当たることなら、ある。ジェフはすぐにうなずいた。
何かに行き詰ったとき、老師から命じられたのは常にそれだった。どんなときでも、そこから始めてきた。
「つまり、基礎訓練か」
「それもいいけどさ。真面目だね、ジェフ・キャスリンダー。なんらかの誤解さえ解ければ、きっとユリーシャともうまくやれるよ」
ヴァネッサが肩をすくめる。彼女の苦笑いは、いつもどこか気だるい印象があった。
「いま提案したいのは、手っ取り早い対応力アップだな」
「ああっ――さすがヴァネッサ先生!」
真っ先に大きな興味を示したのは、メリーだった。
「私、そういう手軽な方法で成長するの、夢だったんです!」
「何を期待してるか知らないが、これな、あくまでもその場しのぎだから。きみらが成長するわけじゃないからな。そこのところ誤解しないように――ってことで、エレノア」
エレノアを指差す仕草は、その部分だけ教師のように見える。
「きみの愉快な発明品が火を吹くときだぞ。使えそうなものがあったら、見せてやってくれ」
「はいはい」
エレノアの、籠手に包まれた右手が掲げられた。
「私ね、彫金術とか好きだから、色々な道具を作ってるんだけど。えっと、例えばこの籠手。《
おそらく鉄製であろう手の平が開閉する。そこに《しるし》が彫り込まれているのがわかる。
「色々な
「いやあ、うん、そうですねえ」
メリーは難しそうに唸った。
「初日にエレノアさんが飛び出して来たのって、もしかして、それの実験だったんですか? っていうより、絶対にそうですよね? なんか不安が残るというか」
「ええっ! ひどいなあ。ちゃんと実験終わらせて、実用段階に入ってるやつも皆無じゃないよ」
「言い方がますます不安になってきましたけど……」
「まあ――要するに、道具を使えば話が早いってことだな。実力不足を補える」
手を叩き、ヴァネッサが再び話を戻す。
「
この辺りは、ジェフも老師から聞いたことがある。
魔法の杖は、その最も身近な例だ。学園に侵入する際に使った、メリーの箒もそれと同じだ。とはいえエレノアの手にある籠手は、それとはまたレベルの違う技術が用いられているように見える。
「この手の道具を使いこなすのも、立派な魔導士の戦い方ではあるよ。実際ね。そういう魔導士もいる」
何かを取り繕うように、ヴァネッサは眠たげに笑った。愛想笑いに近い、とジェフは思った。
「じゃあエレノア、小遠征で使えそうな道具を見繕ってくれ。なんかあるだろう? 私らがドン引きするほど大量に作ってたもんな」
「はい! 任せてください、先生。もちろん色々あるよ、メリーちゃんとジェフくんにちょうど良さそうなの。えっとね、私のおすすめは――これとか」
濃紺のローブの内側から、エレノアは小さな破片のようなものを取り出す。槍の穂先に似て、尖った鉄片だった。表面に深々と《しるし》が刻み込まれている。
ジェフはそれが意味する
「――爆発か」
「お? ジェフくん、わかる? わかっちゃうんだ?」
なんだか楽しくなってきたらしく、エレノアはジェフの肩を叩いた。ずいぶんと上機嫌だ。
「これね、《
「あ!」
エレノアが槍の穂先を振りかぶったとき、ヴァネッサは珍しくも慌てたように立ち上がった。
「まずいな、エレノア! やめ――」
「え?」
到底、間に合わない。
エレノアはヴァネッサを振り返りながら、槍の穂先状の道具を投げつけた。名前を呼ばれ、勢いが削がれていたので、壁ではなく床に突き刺さる。
そして、爆炎と煙を吹き出した。
ばふっ、と異様な音が響く。
炎が閃光のように膨れ上がり、すぐに収束した。炎上の危険はなし――と、ジェフは即座に判断する。問題は、もうもうたる煙だった。教室中に充満して、間近にいたメリーが勢いよく咳き込んでのたうち回ることになってしまった。
スリカは一人、驚くべき身のこなしで、窓の外へと退避している。
「――これね!」
エレノアは咳ばらいをして、煙を手で追い払う仕草をした。相変わらずの上機嫌だった。
「ね、すごいでしょ! まさに武器って感じがして! バッと派手に爆発して、煙とかがものすごい出まくるやつが好きなんだよねえ。あ、これ、使い捨てだから気を付けてね!」
「そうか」
ジェフは小さくうなずいた。
彼は爆炎を前に、微動だにしていない。これも訓練の成果の一つだ。竜の息吹は、もっと激しく強烈なものがある。しばしば老師が「耐久力の訓練」として解き放つ、魔法の数々を浴びてきてもいる。
この規模の爆発では、ほとんど動じることがない。
「小動物の狩猟には便利そうだな」
ジェフの目は、床に刺さった槍の穂先に注がれていた。
「――彼女の、魔女としての異名を教えておこう」
ヴァネッサは何度か咳を繰り返し、誰にともなく呟いた。
「《煤煙の》エレノアだ。リボンなしで異名が与えられるのは、かなり珍しい例だよ」
「うん」
エレノアは籠手の嵌まった右手を、大きく振った。
「よろしく。小遠征、頑張ろうね!」
「よろしく」
ジェフは応じた。メリーは何も答えない。ひたすら床で咳き込んでいたからだ。
結局、メリーは体調不良となって早退し、この日の授業はこれで終わった。
――そして小遠征当日まで、ユリーシャの姿を見かけることはなかった。
――――
《秘匿騎士》フレッド・アーレンは、闇の中で目を覚ます。
昼夜逆転の生活が、もう何日続いているだろう。
だが、間もなくそれも終わる。
寝袋から体を起こし、肌寒い夜の森の空気に身震いする。欠伸をしながら、彼を目覚めさせたものを探る。
「――フレッド・アーレン」
かすかな女性の声。
頭上だ。白樺の木の枝。一匹の梟がそこに止まっている。声を発しているのは、それだ。名を、ネルダといった。人語を解する使い魔――こんな存在はそう多くない。
その主は他でもない、偉大なる《魔人》ダーニッシュである。
「決起の日が迫っています、フレッド・アーレン」
ネルダは歌うように、滑らかに喋る。フレッドは時折、彼女の喋り方に眠気すら覚える。
「状況を報告しなさい」
「良くはない」
フレッドは皮肉っぽく笑った。
「閣下のお望みは、できるだけ叶えたいんだがな」
「曖昧ですね」
ネルダは声に、若干の不快感を滲ませた。
「明確な報告をお願いします、《秘匿騎士》フレッド」
「グリフォンが二百。トロールがその倍。仕上がってるのはそこまでで、あとはまだヒナだ。時間が足りないんだよ」
フレッドは鼻を鳴らし、傍らの酒瓶を手に取る。
「この前の強襲で、一部隊を丸ごと失ったのが響いてるな。ありゃちょっと拙速だったんじゃないかい? 誰の発案だ? グリムの野郎か?」
「それはあなたが関知することではありません」
「そうかもな」
反論するなど、無駄なことだ。ネルダは使い走りに過ぎない。
だからフレッドは酒瓶を傾け、ただ中の液体を呷る。
帝国産の蒸留酒。その独特の製造法から、
これだ。いまは亡き、貴重な帝国の味。
この酒のために、フレッドはいまもこうしてダーニッシュの――というより、帝国の《秘匿騎士》として働いているのかもしれない。冗談ではなく、本気でそう思うときがある。
「しかし――ネルダよ。学園のやつら、とんでもない秘密兵器を隠し持ってるようだな。実際、手こずるんじゃないか」
「無駄口は不要です、フレッド」
ネルダはフレッドの雑談に取り合わない。
「もっと育成速度を上げなさい。それぞれ、いまの倍は必要です」
「構わないが、あんまり派手にやると気づかれるぜ。ここは王都に近すぎる」
「《幻視者》たちへの攪乱工作は成功し続けています。すでに有力な手勢を潜り込ませることができました」
「なら、いいけどな」
《幻視者》たちは、王都で最大の軍事魔導組織だ。最強ともいっていいだろう。魔導的な監視と、防衛を一手に引き受けている。
逆に言えば、そこが王国の最大の弱みでもあった。
「危なくなったら撤退するからな、俺は。そこのところ、閣下に宜しく伝えてくれ」
「わかっています。それから、イーリオンの件」
「ああ」
フレッドは少し微笑んで、背後の暗闇を振り返る。
「こいつは、ますます順調だよ」
暗闇の中に、赤黒い巨体がうずくまっている。その体躯は、フレッドの倍ほどはあるだろう。大きな翼を折りたたみ、それは地鳴りのような寝息を立てていた。
「大事に育ててるから、安心してくれ。こっちも秘密兵器ってやつだからな」
フレッドはもう一口、
「我らの小さなドラゴンのヒナだ」
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