第37話 それはカティアラのように
一ノ瀬の家は、この辺りではかなりの豪邸だった。平屋ではあるが、敷地は学校のグラウンドくらいはあり、林かと見間違えるほどの立派な庭が、その敷地を占有しているようだった。駐車場も屋根つきの立派なものが五台分はあったが、今はぽつりとパールのカティアラが止まっているだけだった。
「おう、瀬里花ちゃん。もう俺に会いに来てくれたんか! まあ、上がりなさんな」
一ノ瀬に言われるがままに、玄関でヒールを脱ぎ向きを揃え、やがては入って左の和室に通された。タイトスカートなのに和室を選ぶ辺りが一ノ瀬らしい。流石に足は崩せないが、正座となり逆に姿勢の良さをアピール出来て、瀬里花は何だか居心地よく感じていた。目の前にあるのは、立派な仏壇と、両脇に飾られた刀や屏風の数々。京たたみだろうか、芳醇なイグサの香りが、瀬里花をどこか懐かしい気持ちにさせる。
「わざわざすまんなあ。まだ数日だから、大して走ってねえがな」
大笑いする一ノ瀬は、愛嬌があって可愛らしく見えた。実際彼の車の走行距離はまだ二十キロメートルも走っていないそう。新車で納めた時が確か四キロくらいだったから、ちょこっと市内を走ったくらいのようだ。実際、彼の家の立地条件は良く、スーパーやコンビニも近いし、元々そこまで車が必要な生活をしていなかったのかもしれない。
「この畳は良いだろう? ちゃんと熊本産のイグサで畳表を作ってるんだぜ? 下手な中国産とは滑らかさも香りも違う。まるでそう瀬里花ちゃんみたいじゃねえか」
一ノ瀬とする何気ない会話が、瀬里花の乱れた心を、どんどん穏やかにしていってくれるような気がした。彼の言葉には気遣いがある。ユーモアがある。そして何より思いやりがある。だから瀬里花は彼が人間的に好きなのだと思う。
「それにしても、何かあったか? いつもの瀬里花ちゃんの凛とした顔つきじゃあなくなってるが」
人間的に鋭い一ノ瀬。やはりそれだけ瀬里花のことを見てくれているのだろう。髪型でも体調でも、人の変化に気づく人は、よく観察し、気づかってくれている証拠だ。だから女性は、髪型や服装の変化に気づいていくれる男性に、悪い感情を抱かない。
「実は……」
早速、事情を打ち明けてしまう瀬里花。一ノ瀬は興味深そうに何度も頷きながら、瀬里花の話を最後まで聞いてくれたのだった。
「なるほどな。つまり、瀬里花ちゃんは、来週の日曜日に営業してくれる洒落た飲み屋が欲しいわけだ」
「ええ、でも、なかなか条件に合うところが見つからないんですけどね」
舌を出し苦笑いをする瀬里花に、一ノ瀬は嬉しそうに小膝を打つのだった。
「よし、わかった。つまりは、新入社員や異動のあった人間だけじゃなく、店舗全体の人間たちをもてなせばいいわけだな? あいつらが納得するレベルの接客や料理で」
「それが出来たら素敵なんですけどね。うちのお店の人たち、みんな舌や目が肥えてるみたいで、本当困ります。そんな人たちを普通の居酒屋に連れていっても、非難轟々は確実なんです」
「ほうほう。そういうことかい。それは瀬里花ちゃんとあの巨乳の子だけじゃあ、厳しい案件だなあ」
何やら目を閉じ、考え事をし始めた一ノ瀬。和室にぶつぶつ独り言が聞こえ、彼なりに何かを計算しているようだった。もちろん、そもそも計算の苦手な瀬里花には、今だけは耳を塞ぎたい気持ちだった。やがて一ノ瀬の目が再び開いた。
「よし、俺の力を思い知らせる時が来たようだな、がっはっはっ」
膝を上げ、ゆっくりと立ち上がる一ノ瀬。メタボ気味のお腹がやや苦しそうだ。それでもその表情は精悍そのものだった。
「瀬里花ちゃん。本当の接客というものを見せてやるよ。ちょっと大人のだけどな。がっはっはっ」
「はい?」
「大船に乗ったつもりで、来週の日曜日の夜、この店にみんなを集めてくれ。きっと面白い景色が見れるぜ? あー若い頃の血が騒ぐ。面白えなあ、こういうのは」
「え? どういうことです?」
「とりあえず、会費は一人五千円でも構わないよな? 九条大橋店のメンツが来るんだ。それくらいは出してくれても構わないだろ?」
頷く瀬里花。しかし、彼は一体何をしようというのだろう。瀬里花としては絶対にミスが出来ない事案なのに。それこそ失敗は、未菜の未来までも悪い方向へと変えてしまうかもしれない。
「大丈夫だって。ぜーんぶ、俺に任せちまいな!」
心配そうな顔つきの瀬里花に、一ノ瀬は微笑みながら、グッと片手の親指を突き出したのだった。
――本当に大丈夫なのだろか。
一ノ瀬の生活レベルは知っている。例えば彼の知り合いのお店とかであれば、九条大橋店のみんなの舌を満足させる料理が出るだろう。しかし、後から追加料金が取られはしないだろうか。最悪でないにしても、一ノ瀬に金銭的に負担がかかることだけは避けなければならない。大事なお客様なのだから。
「大丈夫だって。俺が金を出すことは一切ねえんだから」
その言葉が、逆に怪しさを増してしまう。法を犯すようなことをしなければ良いのだけれど。
――でも。
誰かを信じてみるのも、良いのかもしれないと瀬里花は思ったのだった。
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