第24話 何の感情も抱けない

 うっかりの見落としで川野に破れた二人。ミスがわかったところで、ロープレは終了となった。これもロープレのよくある一つの流れだ。もちろん一連の流れを途中で止めずに通しで行い、後から良い点や改善点を指摘する方法もある。しかし、川野としては、引き出したいものが見つかったのだろう。満足そうに何度も頷いていたのだった。


「はい、今のロープレは非常に良かったと思う。だが、最後の最後で一つの確認ミスが大きな問題になったわけだ。今のは僕が、ハイブリッドと最後に言ったから良かったが、実際、何も言わなければ、最悪納車の日に、ハイブリッドでないことに気づき、お客様から頼んだ車じゃないとキャンセルを言い渡され、場合によっては裁判沙汰にもなるだろう。はっきりいって最低最悪のトラブルだ。注文し直すにしても、お客様は当初の契約以上の金額は出さないだろう。それはつまり、会社に取り返しがつかないほどの多大な損害を与えることになるし、一度失ったお客様の信頼は、もう二度と取り戻すことは出来ないだろう。そして更に忘れてはならないのが、そういったトラブルやクレームは、瞬く間に口コミで広がり、その店舗だけでなく会社全体の信用を失墜させてしまうのだ」


 川野の言葉に申し訳なさそうに俯く瀬里花と未菜。ハイブリッドかそうでないか、はっきり言って初歩的な確認ミスだ。それが川野の高圧的な態度に、出来るだけ彼を怒らせないようにという保身的な考えが働いたのだろう。だから、ハイブリッドにするわけがないと思い込んでしまったのだ。


 ――最低だ。


「今のように、車というのは、高額商品というだけでなく、お客様の生活に寄り添った商品なんだ。おそらく家やマンションの次に高額であると同時に、長く使うものである。つまり家族の思い出にも直結する大切なものだ。だが、一つのミスがお客様にしこりを残し、お客様の家族との思い出にも、影を落とすことにもなる。だからだ。君たちにはしっかりとした知識を身につけてもらい、お客様の親身になった提案を行い、間違いが決してないように確認を徹底して繰り返して欲しい。それが自分の身を守ることにもなるし、お客様への信頼に繋がるのだ」


 もっともな言葉だ。これが言いたいがために、あえてロープレをしたのだろう。そういう意味では、川野に完敗である。そしてよく話こそ脱線するが、良い指導者だなと瀬里花は思った。


「はい、すみません」


 二人はまた頭を下げる。会議室で一瞬笑いが起こるが、ひと事と思えないのかすぐに笑いは収まった。


「さあ、今の話を聞いた上で、また反復練習だ。失敗は恐れるな。練習は君たちを裏切らない」


 どこかで聞いたセリフだと思ったが、今の瀬里花たちにとって、これ以上に的を射た言葉はなかった。


 そして再び始まるロープレ。瀬里花たちのロープレを見たからだろうか、みんなのセリフ回しも見違えるように上手くなり、考えるよりも先に言葉が出るようになってきたようだ。そう、ある程度の反復を繰り返すと、人の脳は、先に身体を動かし得るのだ。


「好きです」


 ――え?


「愛しています」


 ――what?


「結婚してください」


 ――why?


 男子たちの言葉も、自信に満ち溢れ、迷いさえなかった。そろそろ冗談が冗談で済まなくなるかもしれない。瀬里花は妙な焦りを感じた。


 ――そして。


 目の前にいたのは、あの力弥だった。


「瀬里花ちゃん、明日僕の誕生日なんだけど」


「ん? おめでとう」


「僕と一緒に過ごして欲しい……というのは駄目かな?」


 卑怯な言い方。男ならはっきり言えよ。


 ――それに。


「えっ、あなたには未菜ちゃんがいるでしょ?」


 白々しい力弥に、未菜は鋭い視線を送る。


「ああ……あの子が僕のことを好いてくれているのは良くわかっているし、僕も彼女に悪い感情は一切抱いていない。そして彼女は性格だっていいし、見た目だって可愛い。女の子としては最高だろう。だけど、たまたま同期で君が現れてしまった。彼女の魅力が霞んでしまうほどの君を見つけてしまった。そう、僕はね、君がいなければ、こんな思いにはならずにすんだはずだったんだ」


 ――何……。


 彼の言葉は、瀬里花の胸を締めつける。それは未菜の気持ちを思うからこそだった。しかも、人のせいか。


「ごめんなさい。あなたのことが嫌いというわけでも、もちろん好きというわけでもないの。私、自分の車以外には、何の感情も抱けない」


「それなら可能性が全くないわけじゃないってことかな?」


「そうかもしれない。でも――」


 その言葉の続きをどれだけ彼が期待しただろう。だから瀬里花は彼に、非情に無情に現実を突きつけたのだ。


「私は未菜を心から応援してる。未菜には幸せになってもらいたいって願ってる。だから、わかるでしょ?」


 わかって欲しいと瀬里花は願う。悟って欲しいと瀬里花は祈る。


「ああ、やっぱりそうだ。わかってたけど、瀬里花ちゃんのそういうところが、男を惑わせるんだよ」


「未菜は私の大切な友達だから」


 ――だから、嫌いにさせないで。


 言葉を噛み締め、瀬里花は力弥を突き放した。


「ねえ……力弥君……何だって?」


 心配そうに瀬里花を見上げる未菜。こういう時、女の勘は鋭い。ましてや未菜なら、何か勘ぐっているのだろう。好きな男が異性と話している時、女には恐ろしいほどの嫉妬が渦巻くのだから。


「未菜のことをお願いって言っちゃった」


 嘘はつけない。でも真実はもっと言えやしない。


「ええーやだ。恥ずかしいよー瀬里花ぁ」


 上手いこと交わせたかもしれない。いつか芽生える彼女の殺意を。


「明日彼の誕生日みたいだね。何かプレゼントするの?」


 未菜の目がキラキラ輝き出した。


「うん、ネクタイとかどうかなって」


 きっと彼女は独占欲が強いのだろう。好きな相手に身につけられる物を送るとは、自分だけのものにしたいという気持ちの表れだ。


「うーん、あくまで私の考えだけど、相手が彼氏になっていたらいいと思うんだけど、もし、まだそこまでの関係でなければ、男が仕事で身につけるには、少し早いし重いかもしれない」


 瀬里花なりに、力弥に気を使った結果でもあった。お互いが不幸にならないための処方箋のつもりだった。


「そっかー、確かにそうかも。私が彼氏じゃない男から、下着を買ってもらって、それを身につけるようなものだよね?」


 それはまた飛躍しすぎな気もするが、間違ってはいないと瀬里花は思った。


「やっぱり瀬里花って、恋愛に対しても慣れてて大人だよねー。的確すぎる。また相談に乗ってねー」


 的外れだが、彼女が勘違いする分には問題はなさそうだ。


 それにしても、どうして瀬里花が人の色恋を気にしなければならないのか。そんなことをするために、ディーラーに入ったわけではないのだけれど。


 ――何か気持ち悪い……。


 これだから、恋愛は面倒臭いのだ。


 ――ああ、本当に気持ち悪い……。


 瀬里花は愛車を思い浮かべ、その素直で優しい音色に、一人癒されるのだった。


 ――誕生日か。


 瀬里花は、時を刻むことを止めたあの日を思い出し、そっと瞳を濡らした。

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