第8話 点検ってしなきゃダメですか?
研修二日目が始まった。
午前中は販社での取り扱い車種の紹介とその購買層の説明、それから車の販売の次に収益があるサービス部門の車検や点検の内容についてだった。
「何で車検ってあるんですか? 点検も受けないといけないんですか?」
お調子者の営業男子・結城哲太からもっともな質問がなされる。生まれて初めて車を購入して、まず衝撃を受けるのは、車を維持するためには車検というものを受けなければならないことだろう。周りに流されるままに受ける人が多いと思うが、本当の意味なんて理解している人は多くはないだろう。もちろん瀬里花もその一人だ。
「ははっ、まあ車検と聞くと正直面倒と思う人が多いだろう。しかし、車検というのは車が道路を走行する上で、安全が確保されているというのを継続して検査することをいうんだ。車は一トン以上もある鉄の塊が、たった四つのタイヤを介して道路を走るものだ。もしその車に異常があったり不備があったりすると、事故を起こす可能性も高いし、人さえはねてしまう可能性だってある。そうなれば自動車運転過失致死傷罪や、さらに悪質であれば危険運転致死傷罪となり、懲役が科せられることにもなってしまう。だから車検とはな、国土交通省が定めた細かい保安基準に合格していることを確認し、車が安全に道路を走るために必要な制度なんだ」
川野が「車検」「継続検査」「適合標章」「安全」という言葉を、ホワイトボードに書きながら言う。確かにあれだけの重たいものが道路を走っているのだ。運転手が事故の加害者にならないためにも、定期的な検査が必要な気もする。
「じゃあ、どうしてディーラーは高いと言われるんですか? うちのじいちゃんはいっつも自分で運輸支局に車を持ち込んで安いって自慢げに言ってますよ」
結城がなおもそう言うと、全体からドッと笑い声が沸き起こる。
「ディーラーは高い。確かにそう言われることが多いだろう。しかしだ。ディーラーが高いと言われる理由の多くは、二年後、つまりは次の車検まで安心して乗るために、前もって消耗や劣化をした部品を交換するからに他ならない。そして前もって部品を交換することによって、その悪い部分が他へ波及するのを防ぐことにもなり、長い目で見れば、結果的にディーラーに出したほうが安くつくことにもなる。車を一、二年だけ乗るつもりなら、ユーザー車検で良いだろう。だが、車は今では平均十年使われる時代だ。それならば、安全に安心して気持ち良く車に乗れるように整備してくれるディーラーに出したほうが良くないかい?」
ニヤリと笑みを見せる川野。一瞬彼の言葉にトップセールス時代の力強さが垣間見えた気がした。
「そして定期点検についてだが、やはりこれも車検と同様の意味合いがあったりする。一番身近なところで、車は道路を走る以上、タイヤで釘を踏んで走っていることもある。そして刺さった釘は徐々にタイヤの空気圧を下げ、いずれパンクさせてしまう。点検では空気圧だけでなく、タイヤを回し、目視にてタイヤに異常がないか確認をする。せっかくの休みに家族で旅行という時に、車がパンクしてしまったのでは、元も子もないからな」
川野の言葉に一人鳥肌立つ瀬里花。
「車にはおよそ三万点の部品が組みつけられている。その中で消耗品もかなりの点数がある。エンジンルームを開け、ベルト類やエンジンに異常がないか、また車をリフトで持ち上げ、下回りに異常がないかを調べるのも大切な点検なんだ。何も異常がなければ安心して乗れる。何かあればそこを修理や整備し、また安心して車に乗れるんだ。定期点検はそのための重要なものだよ。これで答えになるかな、結城君?」
「あ、はい……」
唖然としたように口を開ける結城。今ので納得しないものはいないだろう。
――そう。
瀬里花が欲しいのはこの説得力だ。知識を順序良く並べ、それを武器に変える力。川野は簡単にやってみせるが、瀬里花にはここまでの応酬話法を使いこなせる自信がなかった。そう、何より車に関して知識が足りないのだ。
――だから死なせてしまったのだろう。
もちろん、愛車をである。もっと彼のことをわかってあげていれば、あの日、事故をすることなんてなかったはずだ。
「それに新車にはメーカー保証というものがある。部位によって三年または五年保証の違いがあるが、新車だからといって必ずしも完璧というわけではない。実際に動き出して初めて出てくる不具合もあるわけだ。保証がある内に、保証の範囲内で悪い部分を見つけ、それを治していく。これも我々が点検をお客様に勧める理由でもある」
川野が微笑むと、みんなは感心したようにメモを取り始めた。彼の言葉に、心を奪われたからだろう。
「だから有料だからお客様に勧めにくいとは思わずに、お客様の安全を願って、どうか君たちには積極的にお客様に定期点検を勧めて欲しい」
やはり川野は、こと車のことに関してはプロなのだと思う。たった数分でみんなの浮わついた心を鎮め、惹き付けたのだから。
「川野さん、カッコいいね」
隣にいる未菜がうっとりした表情で、瀬里花に耳打ちをする。ずっとこの調子で講義が進むようなら同意出来たのだけれど、その後、川野は乗りに乗ったように、また話を脱線させていた。これがなければ良い先生になれるのに。目を輝かせる未菜を横目に、惜しいなと瀬里花は溜め息をついた。
午後からは店舗での実習ということで、数人ずつ車に乗って店舗へ移動することになった。何をさせられるか不安そうなみんなに、川野はただ立ってみんなの動きを観察すればいいからと、軽い口調で話していた。
「瀬里花~昨日凄かったよ。もう男子みんなが瀬里花の質問ばかりでさ。少しは私に興味持てって感じだった」
未菜が舌打ちをしながら、邪悪な一面を見せる。
「そんなこと言っても、未菜のことだから、気になる男子の連絡先聞いたんでしょ?」
「ふふふ、もちろん。心は瀬里花でも、身体は私色に染めてやるんだから」
大胆な未菜の言葉に、瀬里花は驚いたように
「ねえ、瀬里花って彼氏いるよね? これだけは今日絶対に聞いといてって男子たちに言われてさ」
何故か不安そうに瀬里花を見つめる未菜。きっと好みの男子を自分だけのものにしたいからだろう。
「うん、いるよ」
男ではなく車ではあるけれども。従順で時に荒々しく、時にまた瀬里花に高揚を与えてくれる男よりも男らしい存在だった。ただあの事故以来、彼とはまだ話さえ出来ていない。
「良かったあ~。って、私も実はいるんだけどね」
そう言ってペコちゃんみたいに舌を出す未菜。やはりこの子はやり手である。そして自分の欲望に素直なのだ。共感出来ない部分もあるが、瀬里花と同じ匂いがした。だからこそ、彼女も瀬里花に近づいてきたのだろう。
「じゃあ、新しい子に乗り換えるの?」
「ううん、同時進行かなー。利用出来る男は利用しなくちゃ……って、ここだけの話だからね?」
彼女の言葉の意味がわからなかったが、瀬里花には彼女の生保時代のやり方が少し見えた気がした。「はいはい」と瀬里花が笑うと、未菜は安心したように笑みを漏らした。
「使えねえなあ、おい!」
実習予定の店舗に着くなり、何故か制服を着た中年男性が、声を荒らげていた。お客様に聞こえるほどの大声である。そしてその目は、ぞろぞろと店に入ってきた瀬里花たちを蔑むように向けられていた。瀬里花はまた悪い予感がしてならなかった。
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