第2章 研修開始! ~前半~

第7話 瀬里花の半分は母親で出来ています

 翌日から新人研修が始まった。


 車の販売メインの営業職と、車の整備メインのサービス職に分かれて、朝から座学の講義が行われている。営業職の初日の研修の中身はというと、午前中は会社の企業理念を刷り込まれ、午後は車会社の収益の構成について学ぶというものだった。収益の構成について学ぶのは、営業職として何を販売すれば一番利益を獲得出来るかを教え込み、そしてそれに関連する商品の販売までを目指すからだろう。悲しいかな、自動車会社としては、最早車だけを販売していれば良い時代ではないのである。


 営業サイドの教鞭を取るのは、あの課長の川野だ。ただ彼は教員免許を持っているわけではないから、その指導方法もオリジナルのようで、要点こそ軽く触れるものの、口から出るほとんどの話を過去の自分の自慢話に結びつけるといった脱線しまくりの様相だった。元営業職だけに、話自体は確かに盛り上がりがあり面白くはあるのだが、そもそも車の話に興味のない今時男子たちには、説法だと小馬鹿にされる始末だった。当然、解脱と称し、深い眠りにつく強者もいて、早くも川野に目をつけられていたのが滑稽だった。車に興味のない男子が車会社に入る。何だか緩い雰囲気だなと瀬里花は戸惑いを隠せなかった。


「瀬里花~、今日飲み行かない?」


 初日の研修が終わるなり、小代未菜が瀬里花の腕に抱きついてくる。彼女とは初日からすぐに下の名前で呼び合うようになり、何かにつけて子犬のように寄り添ってくれる。彼女の膨らんだ胸が、細い腕にぎゅうっと押しつけられる。女同士でもこれだけの柔らかさを感じるのだから、男がされたらイチコロだろうと思う。流石は元生保の外交員。やり手である。


「ゴメン、私、平日の夜は家の手伝いしないといけなくって。だからまた今度ね」


 別に他に予定があるというわけでなく、実際に母に色々と手伝わされるからどうしようもない。


「そうなんだ。瀬里花って見た目に似合わず大変なんだね」


 一体どういう意味だろう。周りには、瀬里花が楽をして生きているように見えてるのだろうか。まあ、確かに人よりも得をしていることはあるかもしれないけれど、それも自分を磨いた結果だと瀬里花は信じている。


「そうでもないけど。私にとっては当たり前のことだから」


「そっかー、まあ今度瀬里花に紹介出来るくらい、他の男の子たちと仲良くなっとくから」


 そう言って小悪魔のような幼顔でニッと笑って、未菜は研修終わりの男の子の群れの中に飛び込んでいった。その中には別の女子二人もいて、早くもコンパ化しているようだった。瀬里花はそれを蔑むわけでもなく、むしろ温かい眼差しで見ていた。



 家に帰りつくと、瀬里花は真っ先にスーツのジャケットをハンガーにかけ、白いシャツにスカートのまま鏡の前で軽く化粧直しをする。本当はこのまま裸になってお風呂で汗を流したい気分なのだが、母の手伝いをしないことには瀬里花の一日は終わらない。瀬里花はいつものように決まった動きをしてから、母の働く仕事場へと足を踏み入れた。


 茶色いドアを開けた瞬間、目の前に大人びたシックな空間が飛び込んできた。模様の入ったグレーの壁紙に、黒いピアノブラックのカウンターテーブルと、その背後には色を合わせた質感の高い戸棚。その中には、いくつものお酒が飾られ、今その一本が、カウンター越しの赤い本革の椅子に座る三人組の男性に、グラスで振る舞われている。


 そんな中、四十手前だというのにベージュの肩出しドレスで胸元を開き、その身体同様に細い生足を露出し、更には唇にグロスを光らせ、うっとりとした表情で三人の男性と話し込んでいる彼女こそ、瀬里花の母である。母の職場は、自宅を店舗に改造した小さなスナックだった。


 シングルマザーとして女手一つで二人の子を育てたのは、本当に凄いことだと思う。そんな母を瀬里花は誇りに思うし尊敬もしている。昼間のパチンコ癖さえなければ、なお良い母親なのだけれど。


「セリ、おかえり~」


「うん……」


「ちゃんと、マリにも報告した?」


「うん、今してきた」


 マリとは茉莉花という、瀬里花の姉の名前だった。家に帰るなり、まず瀬里花は彼女に毎日の報告を済ませるようにしている。


「おーセリちゃん、おかえり! 何かまた綺麗になったんやない? 就職して見違えるほど大人の女になった感じや!」


「あはは、多分それはこのシャツとスカートのせいですよ。誰でも大人っぽく見えますから」


 常連客の男性に、そう照れ臭そうにはにかんでみせる瀬里花。母の手伝いのおかげで、瀬里花はいつ誰が相手でも笑顔を作れるようになっていた。


「あーやっぱエナさんとセリちゃんが並ぶと、モデル顔負けの美人姉妹にしか見えないな。こりゃあ見とれてしまうわ」


 そう言って唇を舐めながらも、グラスをあおる眼鏡の男性。


「やだー、澤さんったら、美人姉妹だなんてお上手。じゃあ、私が妹かしら?」


 そう言って澤と呼ばれた男性の肩にボディータッチをする母。その瞬間の澤の嬉しそうな目を、瀬里花は見逃さなかった。


 ――それにしても。


 見え透いたお世辞だと何故気づかないのか、我が母よ。それに妹は流石に言い過ぎだと瀬里花は思った。歳は取りたくないものである。


「エナさんは若くて綺麗ですからー! でも萌え要素もある妹キャラですからー!」


 完全に酔っ払ったぽっちゃり男性が、意味不明なことを口走っている。まあ、確かに顔の作りは、どちらかというと瀬里花よりも幼くはある。そして彼女を二十代後半と紹介しても、まだ騙し通せるだけの肌の艶や張り、そしてメイク技術を持ち合わせている。だからこそ、繁華街から外れたところにあるのにも関わらず、彼女の店は小さいながらも繁盛しているのだろう。また、一度に二組までしか入店を受付していないのも、接客の質を下げないための良い判断だと瀬里花は思っている。


 出来ないことはしない。出来ることを確実に行う。許斐瀬里花は、こうやって幼い頃から母の仕草や動きを学び、十八からこの店の手伝いをすることによって、接客の基本を吸収していったのだった。

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